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事件師/鰐沢 鯱  作者: 平松豊政


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事件師・鰐沢鯱 第三話

第三話 消えた三億、帰ってきた死人


一 死んだ男からの電話


 鰐沢鯱が朝から事務所にいる日は、たいてい何かが起きる。


 澪が出勤すると、鯱は机に向かっていた。


 眼鏡をかけ、難しい顔で紙を睨んでいる。


「珍しいですね。何を読んでるんですか」


「説明書」


「何の」


「加湿器。押しても水が出ない」


 澪は鯱の手元を見た。


「それ、鉛筆削りです」


 鯱は機械を少し遠ざけた。


「……水、入れる前でよかったな」


「本当に」


 扉が叩かれたのは、その直後だった。


 入ってきた女性は、濡れた肩を払うこともせずに立っていた。


 二十代前半。両手でスマートフォンを握り締めている。


「鰐沢さんですか」


「そうだよ。座って」


「父を捜してほしいんです」


 鯱はソファの上の新聞を退けた。


「いつから帰ってない?」


「四日前です」


 女性は座らなかった。


「でも、昨日、見つかったって」


「見つかった?」


「車の中で。焼けて」


 澪の手が止まった。


 鯱は女性の顔を見た。


「名前を聞いてもいいか」


「佐伯真帆です。父は、佐伯俊一」


 鯱は新聞に視線を落とした。


 小さな記事があった。


 札幌市郊外の空き地。焼けた車。一人の遺体。


 近くで見つかった所持品などから、身元の確認が進められている。


「まだ、お父さんと決まったわけじゃないんだな」


「はい。でも、車も父ので、財布も……」


 真帆はスマートフォンを差し出した。


「昨日の夜、父から電話が来たんです」


 番号非通知。


 午後十一時四十一分。


「声は?」


「父でした。絶対に」


「何て言った」


 真帆は一度、息を吸った。


「鰐沢には、絶対に頼るなって」


 鯱はしばらく黙った。


 佐伯俊一。


 すすきのの会員制クラブ〈玻璃〉の店長だった。


 同じ街に長くいるが、一緒に酒を飲んだことはない。


 すれ違えば軽く頭を下げる。その程度の仲だ。


「それだけか」


「あと、知らない男が来ても、何も渡すなって。何のことか聞く前に切れて……かけ直せなくて」


 真帆は唇を噛んだ。


「父から、昔、聞いたことがあります。この街には、困ってる人を放っておけない鰐沢って人がいるって」


「いいこと言うな、お父さん」


「でも、頼ると、隠しておきたいことまで全部出てくるから気をつけろって」


「そっちも言ってたか」


 鯱はようやく、真帆を座らせた。


 澪が湯気の立つカップを置く。


「真帆ちゃん。連絡があったことは警察に話した?」


「はい。今朝」


「それでいい」


「父、生きてますよね」


 鯱は、すぐに頷かなかった。


「まず、その声のところまで辿ろう」


 真帆の手が、熱いカップを包んだ。


     *


 〈玻璃〉から三億円が消えた。


 その噂は、三日前から街を回っていた。


 店長が持ち逃げした。


 女と逃げた。


 海に沈められた。


 どれも、見てきたような口ぶりだった。


 そして昨日から、噂は一つになった。


 店長は、死んだ。


二 三億円の持ち主


 〈玻璃〉のオーナー、久我は、鯱を個室へ通した。


 昼間のクラブは、夜より広く見える。


 光るものが全部消えると、傷んだ壁紙も、ソファの縫い目もよく見えた。


「佐伯の娘に頼まれたのか」


「耳が早いな」


「この街だぞ」


 久我は煙草を出しかけ、鯱を見て箱へ戻した。


「金は、あんたのか」


「俺のだ」


「現金で三億も、店に置いてたのか」


「次の店の出資金だよ。事情があって預かってた」


「今、自分の金だと言ったな」


 久我の顔から、愛想が抜けた。


「細かいことはいいだろ」


「三億の話をしてる。細かいことは、まだ聞いてない」


 久我は端末を回した。


 防犯カメラの映像だった。


 午前一時十四分。


 裏廊下を、佐伯が台車を押していく。


 黒いバッグが三つ。


「金庫の番号を知ってるのは、俺と佐伯だけだ。俺はその時間、客席にいた。映像もある」


「バッグの中身は」


「他に何がある」


「見たかと聞いてる」


 久我は答えなかった。


 鯱は映像をもう一度見た。


 佐伯は、台車を押していく。


 防火扉の前で一度だけ振り返る。


 その顔は、粗い画面の中でも分かるほど強張っていた。


「この前後も見せてくれ」


「警察には必要なものを出してる」


「俺には、これだけか」


「そういうことだ」


 鯱は立った。


 久我が呼び止める。


「おい。佐伯が生きてるなら、先に俺へ連絡しろ」


「死んだと思ってたんじゃないのか」


「金の行方くらい、確かめたいだろ」


 鯱は返事をせずに部屋を出た。


     *


 二人目の男は、金の持ち主について別のことを言った。


「俺が預けた金だ」


 榊は、古い事務所の窓際に立っていた。


 表向きは不動産会社。


 何をしている会社なのか、鯱は改めて尋ねなかった。


「久我は、自分の金だと言ってたぞ」


「口座に入れる前から、自分のものにする癖がある」


「何の金だ」


「お前に話す理由は?」


「取り戻してほしそうな顔してる」


 榊は振り返った。


「頼んでねえ」


「じゃあ、その顔やめろ。紛らわしい」


 榊は小さく笑ったが、すぐに真顔へ戻った。


「佐伯が見つかったら、こっちに渡せ」


「荷物みたいに言うな」


「鰐沢。死んだのが佐伯じゃないなら、誰なんだ」


 鯱は榊を見た。


 榊も答えを知らない。


 だが、知らないことを怖がっていた。


 それだけは分かった。


     *


 三人目は、探偵だった。


 西島という男で、以前、所在調査を頼んだことがある。


 電話をすると、長い沈黙の後、店を指定された。


 西島は奥の席に座り、入口を見ていた。


「久我から頼まれたんだな」


 鯱が言うと、西島は頷いた。


「佐伯と金を捜してくれと。一日で分かったことを報告した。その夜に、人が一人消えた」


「誰だ」


「〈玻璃〉の送迎を請けてる岸という男だ」


 西島は鞄から印刷した写真を出した。


 ビルの裏口。


 大型の保温ボックスを載せた台車。


 押している男の顔は見えない。


「向かいのビルから、管理者に許可をもらって見せてもらった。事件当日の午後十時四十七分」


「店長が金を運んだとされる時間より、早いな」


「岸に聞いたら、いつもの弁当の回収じゃない、と。自分が車を出したが、中身がおかしかった。佐伯に確かめると言ってた」


「久我には、どこまで報告した」


「岸の名前まで」


 西島はコーヒーに触れなかった。


「翌朝、岸の電話が切れた。久我からは、調査を終えていいと言われた。その二日後に、あの焼けた車だ」


 写真を押さえた指が、少し震えた。


「警察には話した。資料も出した。でも、俺があの名前を出さなければと思うと……」


 鯱は写真を見ていた。


「岸が死んだかどうかは、まだ分からん」


「分かってる」


「名前を出させた側の責任まで、お前が引き受けるな」


 西島は顔を伏せた。


 鯱はもう一度、写真を手に取った。


 保温ボックスの側面に、白い小さな印があった。


 魚の形をしていた。


三 空の台車


 弁当屋の女将は、写真を見るなり首を振った。


「うちの箱だけど、うちの回収じゃないね」


「どうして分かる」


「その日、回収したのは私。九時半。それから箱を二つ貸してくれって言われて、新人の子に渡したの」


「誰に頼まれた」


「店長さん。電話で。氷を運ぶからって」


「新人の名前は?」


「蓮くん。細くて、いつもお腹すかせてる子」


 鯱は写真を拡大した。


 台車を押す人物は、黒い帽子を深く被っている。


 袖から出た手首が細い。


 店長の佐伯とは違う。


「鯱ちゃん」


「うん?」


「蓮くん、今日も休みなの?」


「どうした」


「ここ三日、お弁当取りに来ないのよ。残り物、持たせてたんだけど」


     *


 鯱は、その足でビルへ戻った。


 裏通路では、清掃員の富江がモップを絞っていた。


「そこ踏まないで」


 鯱は片足を上げた。


「こっちは」


「そっちも」


「じゃあ俺、どこにいればいい」


「外」


 鯱は素直に外へ戻った。


 富江が笑った。


「今日は何」


 鯱は佐伯の映像を見せた。


 富江は台車を指した。


「これ、左の車輪、悪いんだよ」


「悪い?」


「重いもの載せるとね、曲がるところで引っ掛かるの。私も洗剤運ぶのに使うから」


 映像の中で、佐伯は防火扉の前を曲がった。


 台車は、滑るように向きを変えた。


 鯱は再生を止めた。


     *


 午後六時。


 鯱の机には、二枚の写真が並んでいた。


 午後十時四十七分。


 保温ボックスを押す、若い男。


 午前一時十四分。


 黒いバッグを運ぶ、店長。


 最初の台車は、角で止まっていた。


 男は一度引き戻し、体を傾けて押し直している。


 二度目は、止まらない。


「重さが違うんですね」


 澪が言った。


「三億円、全部一万円札でも三十キロほどある。バッグも入れれば、もう少しな」


「最初に運び出して、後から店長に空のバッグを運ばせた」


「可能性はある。ただ、この映像だけで中身までは決められん」


 鯱は椅子に深く座った。


「問題は、誰が店長にそうさせたかだ」


 机の上で電話が鳴った。


 榊からだった。


『佐伯が見つかった』


 鯱は立ち上がった。


『だが、お前は来るな』


「そう言われて、俺が来なかったことあるか」


『だから言いたくなかったんだよ』


     *


 佐伯は、街外れの古い事務所にいた。


 殴られた痕はなかった。


 ただ、唇が乾き、手が小さく震えていた。


 榊の部下が入口に立っている。


 鯱はその男に退くよう目で示し、佐伯の前へ座った。


「娘、心配してるぞ」


 佐伯が目を閉じた。


「……だから、頼るなって言ったんだ」


「嫌われたもんだな」


「娘に、知られたくなかった」


「何を」


 佐伯は答えなかった。


 鯱は写真を置いた。


 保温ボックス。


 佐伯の顔が変わった。


「蓮は、どこにいる」


 その名を聞いた瞬間、佐伯は両手で顔を覆った。


     *


 金は、午後十時台に運び出されていた。


 佐伯が金庫を開けた。


 蓮が保温ボックスへ詰めた。


 岸が車を出した。


 指示したのは、北辰開発の財務担当役員、桐生だった。


 すすきの周辺で複数の土地をまとめている会社。


 榊は、その用地交渉の一部に関わっていた。


「あの金は、会社の金だ」


 佐伯が言った。


「桐生さんが、榊さんを通して久我に預けた。会社に知られたら困る金だって。それを別の場所へ戻すと」


「お前は、それを信じたか」


「……信じたことにした」


 佐伯は俯いた。


「久我に借金がある。店の売上をごまかしたこともある。桐生さんは、それを知ってた」


「それで、空のバッグを?」


「運べば、借金も帳簿のことも片づけるって。金の移動を知られないための偽装だと言われた」


 午前一時十四分。


 佐伯は言われたとおり、空のバッグを運んだ。


 その後、金の受け渡し先へ呼ばれた。


 そこに、岸が倒れていた。


「生きてたのか」


 佐伯は、ゆっくり首を振った。


「分からない。動かなかった。蓮は、別の車に押し込まれて……桐生さんが、俺の財布と車の鍵を取った」


「桐生が、その場にいたんだな」


「ああ」


 佐伯は声を絞った。


「岸が金のことを外へ話したから、こうなったと。次は蓮だって」


 翌日から、佐伯は見張りのいる部屋に置かれた。


 昨日、移動の途中で逃げた。


 だが、警察には行かなかった。


 蓮がいる。


 自分がしたこともある。


 金を持ち逃げした男として追われている。


「それで、榊に連絡したのか」


「桐生さんと話ができると思ったんだ」


 鯱は入口の榊を見た。


 榊は黙っていた。


「金は、どこだ」


 佐伯は顔を上げた。


「俺が、隠した」


 榊が一歩、前へ出た。


 鯱は手を上げて止めた。


 佐伯は続けた。


「受け渡し場所に着いたとき、岸の車がまだあった。金も。蓮を連れていく車が出た後、積み替えを手伝わされた。そのとき、運搬用の車の鍵を一本抜いた」


「逃げた後、取りに戻った?」


「夜中に。あれがなきゃ、蓮を返してもらえないと思って」


 佐伯は泣いていた。


「俺が巻き込んだんだよ。氷を運ぶだけだって、俺があいつに言った」


 鯱は、佐伯が泣きやむまで待った。


 それから言った。


「金で取り返す交渉を、一人でしなくてよかった」


四 返す相手


 榊と鯱は、隣の部屋へ移った。


「金の場所を聞け」


 榊が言った。


「聞いて、どうする」


「元へ戻す」


「どの元だ」


 榊は黙った。


 鯱は机の上の灰皿を、少し脇へ寄せた。


「桐生は、会社から抜いた金を久我の店へ置いた。それを盗難にして、佐伯ごと消すつもりだった。お前は、どこまで知ってた」


「抜いた金とは聞いてねえ」


「確かめなかったんだろ」


 榊が鯱を睨んだ。


 鯱は目を逸らさなかった。


「その話は後ですればいい。今、お前が金を受け取ったら、桐生は何て説明する?」


 榊の表情がわずかに変わった。


「会社の金を榊に脅されて出した、と言えるな。久我も同じことを言えば、お前が金を流した証拠だけ残る」


「……あの野郎」


「桐生の借金取りを続けるか。自分がしたことを、自分の言葉で説明するか。決めろ」


 榊は窓へ歩いた。


 外には、雪の混じった雨が降っていた。


「鰐沢」


「何だ」


「お前、昔、俺に一つ借りがあるな」


「ああ」


「ここで返せ。金を先にこっちへ回せ」


 鯱は、少しだけ目を伏せた。


 若いころ、一人の男を街から逃がしてもらった。


 榊は理由を聞かなかった。


 その借りだけは、まだ残っていた。


「それはできん」


 榊が振り返った。


「断るのか」


「蓮を戻すのに使う。戻ったら、会社の金として扱ってもらう」


「俺との縁より、あのガキか」


「今はそうだ」


 部屋の音が消えた。


 やがて榊は、机の引き出しから封筒を出した。


 桐生と交わした書類と、金を受け渡した記録だった。


「持ってけ」


 鯱は手を伸ばした。


 榊は封筒から指を離さなかった。


「ただし、これで貸し借りは終わりだ。次に俺の名前を使うな」


 鯱は頷いた。


 榊の指が離れた。


     *


 そこから先は、鯱一人では進めなかった。


 佐伯を伴い、弁護士と警察へ事情を伝えた。


 岸のこと。


 蓮のこと。


 隠した車と、金のこと。


 佐伯は途中で何度も言葉を詰まらせたが、鯱は代わりに答えなかった。


 言わなければならないことは、本人に言わせた。


 金の入った車が確認された後、鯱は桐生へ電話をかけた。


 何を話すかは、事前に捜査側へ伝えた。


「佐伯が持ってた三億、見つかった」


 桐生は驚かなかった。


『どちらへ返していただけますか』


「返す相手を確認してる」


『私の管理する金です』


「会社には、そう聞けばいいか」


 短い沈黙。


『会って話しましょう』


「蓮は?」


『誰のことでしょう』


「その返事なら、会う話もない」


 鯱は電話を切らなかった。


 相手にも、切らせないつもりで待った。


 十秒ほどして、桐生が言った。


『若い従業員を心配されているなら、確認しましょう』


「確認できたら、また連絡してくれ」


 今度は切った。


 澪が隣で息を吐いた。


「返すつもりなんか、ないでしょうね」


「返すと困る。顔を見られてる」


「じゃあ、どう動くんです」


「自分では引き渡さない。蓮を持ってる人間に押しつける」


 鯱は榊から受け取った記録を見た。


 桐生が使っていた会社が、一社あった。


 夜間の警備と雑務を請ける小さな会社。


 その代表の名を、鯱は知っていた。


     *


 電話に出た男は、最初から怒っていた。


『関係ねえぞ、俺は』


「まだ何も言ってない」


『お前から電話が来るだけで、ろくな話じゃねえ』


「森下。蓮を生かして帰せ」


 向こうの音が止まった。


「お前のところの誰が預かってる」


『知らねえ』


「なら確かめろ。桐生は金を失くした。佐伯も生きてる。金を取り返す代わりに蓮を出すと言い始めた」


『……だから何だ』


「お前の部下が引き渡しに出れば、そこで捕まる。桐生は、自分は誘拐された従業員を救おうとした、と言うだろうな」


 森下は何も言わなかった。


「岸の車から、遺体が出てる。蓮まで帰らなかったら、お前の部下は何を背負うことになる」


『俺は、人殺しなんかさせてねえ』


「だったら、生きてるうちに帰せ」


 鯱の声が、初めて硬くなった。


「これは、街の中で帳尻を合わせる話じゃない。桐生の指示も、お前たちがしたことも、全部そのまま持っていけ。そこから先を、俺が消してやる約束はできん」


『……昔は、もう少し愛想があったぞ』


「今、笑うところか」


 森下は電話を切った。


五 海に戻る


 蓮が保護されたのは、それから四時間後だった。


 市内の倉庫で、拘束されていた。


 森下が部下を連れて警察へ出向き、場所を話した。


 代表が責任を取ったというより、これ以上巻き込まれる前に逃げ道を選んだのだろうと、鯱は思った。


 それでも蓮は、生きて戻った。


 手首には痕が残り、ひどく怯えていた。


 桐生に関する説明は、佐伯の話と重なった。


 やがて焼けた車の遺体は、岸だと確認された。


 岸の妻は、夫が帰ってこない間も、弁当を二人分作っていたという。


 その話を聞いた晩、鯱はどこにも飲みに行かなかった。


     *


 事件が新聞に載ったのは、数日後だった。


 北辰開発の資金流出。


 役員の逮捕。


 監禁された従業員の保護。


 焼けた車から発見された遺体との関連を捜査。


 見出しは日を追うごとに大きくなった。


 久我も、榊も、捜査から無関係ではいられなかった。


 佐伯についても、金の移動や店の帳簿を含め、調べが続くことになった。


 鯱が救ったのは、佐伯の立場ではなかった。


 本人が自分でしたことを話せる場所まで、戻しただけだった。


     *


 真帆が事務所へ来たのは、父親と面会した翌日だった。


「怒ってきました」


 そう言って座った。


「おう」


「生きてるなら、ちゃんと生きてるって言ってよって」


「そうだな」


「何も知らないまま、お葬式のことまで考えたんです。写真、どれにしようとか」


 真帆の声が崩れた。


「怒ったのに、途中から泣いちゃって」


 鯱は箱ごとティッシュを渡した。


 澪が静かに席を外す。


「父、言ってました。鰐沢さんに頼るなって言ったのは、自分が捕まりたくなかったからだって」


 鯱は頷いた。


「でも、頼んでくれてよかったって」


 真帆は鼻をかんだ。


「鰐沢さん。父は、悪いことをしたんですよね」


「ああ」


「それでも、帰ってきてほしいって思っていいですか」


 鯱は少し背筋を伸ばした。


「それは、俺に許可を取ることじゃない」


 真帆が顔を上げた。


「君がお父さんに言ってやってくれ」


 真帆は、濡れた顔のまま頷いた。


     *


 その夜、鯱は西島と会った。


 探偵は、以前よりさらに痩せて見えた。


「岸さんの奥さんに会ってきた」


「そうか」


「謝った。謝って済む話じゃないが」


 西島はグラスを見つめた。


「俺は、調べるところまではできた。でも、その先が分からなかった」


「お前の調べたものがなきゃ、俺も辿れなかった」


 西島は首を振った。


 鯱はそれ以上、慰めなかった。


 二人でしばらく、黙って飲んだ。


 帰り際、西島が言った。


「また仕事があったら、呼んでくれ」


「頼む」


 鯱は即答した。


     *


 外へ出ると、澪が車の前に立っていた。


「迎え、頼んだっけ」


「連絡しても出ないからです。病院、行ってきました」


「蓮の?」


「はい。食欲、戻ったそうですよ」


 鯱の肩が少し下がった。


「よかったな」


「弁当屋さんから、明日は唐揚げだって伝えてほしいそうです」


「俺にも?」


「蓮くんに」


「確認しただけだ」


 澪が鍵を開けた。


 鯱は助手席へ乗りかけ、向こうの歩道に榊を見つけた。


 一人ではなかった。


 二人の男を連れ、こちらを見ていた。


 鯱は、軽く頭を下げた。


 榊は応えなかった。


 やがて背を向け、人の流れへ消えた。


 澪は何も聞かなかった。


 鯱も説明せず、車へ乗った。


 しばらくして、澪が言った。


「痛かったですか」


「何が」


「今回」


 鯱は窓の外を見ていた。


 街の灯りが、ガラスに流れた。


「痛くない仕事ばっかりなら、もう少し貯金できてる」


「それは経費の管理も悪いからです」


「今、その話するか」


「生きて帰ってきたので」


 鯱は笑った。


 そのとき、スマートフォンが鳴った。


 弁当屋の女将だった。


『鯱ちゃん。明日、唐揚げ取りにおいで』


「俺にもあるのか」


『あんたの分を作らなかったら、蓮くんのを食べるでしょう』


「そこまで信用ないかね」


『あと、ついでに病院へ持ってって。二人分ね』


 電話が切れた。


 鯱は助手席の背もたれに体を預けた。


「澪」


「はい」


「明日、昼を空けといてくれ」


「病院ですか」


「ああ」


「二人分しかありませんよ」


 鯱は口を閉じた。


 澪が笑った。


「私は自分で買います」


 赤信号で車が止まった。


 歩道を、仕事へ向かう女たちが横切っていく。


 黒服が店の前を掃き、配達員が台車を押し、酔った男が仲間に肩を借りている。


 あの三億円が誰の手を渡ったか、知らない者のほうが多い。


 岸が、どんな声で笑う男だったかを知らない者は、もっと多い。


 鯱は、スマートフォンの予定表を開いた。


 明日の昼に、蓮の病院。


 その次の空欄に、岸の家、と入れた。


 青になった。


 車は、ゆっくりと交差点へ進んだ。


(第三話・了)

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