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事件師/鰐沢 鯱  作者: 平松豊政


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事件師・鰐沢鯱 第四話

第四話 十三番目の客


一 名前を使われた男


 鰐沢鯱は、花屋の前で真剣に悩んでいた。


「赤と白、どっちだ」


「誰にあげるの」


「退院祝い」


「若い子?」


「十九の男」


 花屋の女将は、鯱の手から大きな薔薇の束を取った。


「それ持って病院行ったら、求婚だと思われるよ」


「見舞いに行くだけで、そこまで進むのか」


「この鉢にしな。小さいし、世話も楽だから」


「退院祝いに鉢植えって、いいんだっけ」


「もう退院したんでしょう」


「そうか」


 鯱が頷いたところで、背後から声がした。


「花なんか選んでる場合ですか」


 澪だった。


 白い息を吐きながら、鯱のコートを掴んだ。


「電話、何回したと思ってるんです」


「振動しなかったぞ」


「事務所の充電器の上で、ずっと振動してます」


 鯱は空の胸ポケットを押さえた。


「……なるほど」


「〈青灯〉の玲子さんからです。店で人が死んだって」


 花屋の女将が、鉢を棚へ戻した。


 鯱の顔から、迷いが消えた。


     *


 会員制ラウンジ〈青灯〉は、雑居ビルの五階にあった。


 看板は小さい。


 知らない客が、偶然入るような店ではない。


 エレベーターを降りると、廊下に警察官が立っていた。


 その向こうの非常階段で、玲子が座っていた。


 裸足だった。


 片方の踵に、血が滲んでいる。


 鯱はコートを脱いで、肩へかけた。


「玲子」


 彼女は顔を上げた。


「来てくれたのね」


「靴は」


「……店の中」


「足、見てもらったか」


「そんなの、いい」


 玲子は鯱の腕を掴んだ。


「沢渡さんが、死んだ」


 鯱は動かなかった。


 沢渡啓介。


 表向きは不動産会社の役員。


 街の裏側では、誰の下にいて、誰を動かせる男か、会社の肩書よりよく知られていた。


「どこで」


「奥の応接室。十一時五十分ごろ、航平が見つけて……」


「航平は?」


「いないの。警察が来る前に、いなくなった」


 玲子は一度、息を止めた。


「沢渡さん、あなたに呼ばれたって言ってた」


 廊下の向こうで、誰かがこちらを見た。


 鯱は玲子の手を、静かに腕から外した。


「俺は、呼んでない」


二 十二枚の札


 その夜、〈青灯〉は貸し切りだった。


 客は十二人。


 不動産、建設、飲食。


 すすきの周辺の物件を持つ者たちが集まった、小さな懇親会だった。


 主催は、仲介業を営む鳴海。


 玲子の店とは、五年来の付き合いがある。


 沢渡は、その十二人には入っていなかった。


 午後十一時すぎ。


 十三人目として現れ、こう言った。


「鰐沢が来る。奥、借りるぞ」


 店は断れなかった。


 奥の応接室へ通し、酒を出した。


 その後、沢渡は殺された。


     *


 鯱が警察に、自分は沢渡を呼んでいないと説明している間、澪は玲子の足に巻かれた処置用の包帯を見ていた。


 店員の航平は、二十三歳。


 家の事情で学校を辞め、三年前からこの店で働いていた。


 玲子は、息子のように扱っている。


「航平に、何かあったのか」


 説明を終えた鯱が戻ると、玲子は目を伏せた。


「先週、沢渡さんと揉めた」


「理由は」


「女の子に、無理な飲ませ方をしたから。航平が止めたら、殴られたの」


「やり返したか」


「手は出してない。でも、殺してやるって……」


 玲子の声が消えた。


 言った言葉は、取り消せない。


 しかも、その相手が死んだ。


 航平は逃げた。


「それだけじゃないの」


 玲子は続けた。


「沢渡さんの部下が言ってる。航平が、奥へ入っていくのを見たって。十一時半ごろ」


「顔を?」


「後ろ姿。でも、コートが同じだったって」


「店の中で、コートを着てたのか」


「ゴミを出しに行くとき、羽織るから」


 玲子は膝の上で手を握った。


「それから、そのコートが見つかったの。非常階段に。血がついてたって」


 鯱はしばらく考えた。


「その部下は、今どこだ」


「下にいる」


     *


 沢渡の部下は、椎名という男だった。


 ビルの前に停めた黒い車の脇で、煙草を吸っていた。


 鯱を見ると、煙を吐いた。


「来るのが遅かったな」


「俺が呼んだ話、誰から聞いた」


「沢渡さんからだ」


「いつ」


「来る途中だよ」


「連絡を見たか」


「いちいち上司の電話を覗くか?」


 鯱は質問を変えた。


「航平を見たんだってな」


「ああ。あのガキだ」


「顔を見たか」


「後ろからでも分かる。あの茶色いコート。左の袖に、白い縫い跡があるやつだ」


 具体的だった。


 見た者の説明にも、覚えてきた者の説明にも聞こえた。


「お前は、そのとき何してた」


「ここで電話だ。沢渡さんから、客が帰るまで下で待てと言われた」


「十一時半ごろ、航平をどこから見た」


「電話が終わって、一度上がった。エレベーターの前から、奥へ行くのが見えたんだよ。それからまた下へ戻った」


 椎名は煙草を落とし、靴で消した。


「おい、鰐沢」


 鯱は顔を上げた。


「あのガキを見つけても、隠すなよ」


「見つけたら、話を聞く」


「順番が違う。こっちに渡せ」


「渡さない」


 椎名の目が細くなった。


「沢渡さん、誰に呼ばれて死んだんだっけな」


 鯱は一歩近づいた。


 椎名の口元から笑いが消えた。


「それを、俺も知りたいと思ってる」


 鯱は言い、それ以上は近づかなかった。


     *


 警察が調べる一方で、街は別の速さで動き始めた。


 鰐沢が沢渡を呼び出した。


 玲子の店員が殺した。


 鰐沢が、その店員を匿っている。


 夜が明ける前に、三つの話が一つになった。


 〈青灯〉には電話が鳴り続けた。


 従業員の写真が、見知らぬ相手から送られてきた。


 玲子は店を閉め、女の子たちを帰した。


 鯱は、澪に言った。


「真相が出る前に、誰かが航平を捕まえるつもりだ」


「口を塞ぐためですか」


「そういう奴と、仇討ちのつもりの奴が、同じ方向へ走ってる」


三 帰ってこないコート


 航平が見つかったのは、翌朝だった。


 鯱が電話をかけた相手ではない。


 いつもの蕎麦屋から、連絡が来た。


『店を開けたら、裏に座ってるの。何も聞いてないけど、あんた呼んだほうがいい顔してる』


 鯱は迎えに行った。


 航平は、厨房の隅で湯飲みを握っていた。


 薄いシャツ一枚だった。


 鯱は隣に座った。


「寒かったろ」


 航平は俯いたまま言った。


「俺、やってないです」


「何があった」


「沢渡さん、椅子に座ってて。寝てると思って……近づいたら、血が」


「触ったか」


「肩を。あと、胸のところ。起こそうとして」


 航平は手を見た。


 爪の脇に、洗いきれないものが残っていた。


「椎名さんが来て。お前、何したって。俺、違うって言ったんですけど、聞いてくれなくて」


「それで逃げた?」


「電話してたんです。椎名さん。人を集めるって。俺を、下へ連れていくって」


 航平の歯が鳴った。


「前に、沢渡さんに借金してた人が、車に乗せられたことがあって。その後、店に来なくなって……俺も、ああなると思って」


 鯱は頷いた。


「コートはどうした」


 航平が顔を上げた。


「ないんです」


「いつから」


「ゴミ出しに行こうと思ったら、なくて。仕方ないから、そのまま裏へ出ました」


「何時ごろ」


「十一時二十分くらいです。戻ったら、主催の鳴海さんが、沢渡さんに水を持っていってって」


 鯱の視線が止まった。


「誰に?」


「鳴海さんです」


「戻ってすぐか」


「少し後です。客のグラス下げたりしてたから」


 鯱は机に紙を置いた。


「ここから先、警察で同じ話をしよう。俺も行く」


 航平の顔が固まった。


「捕まりますか」


「俺には決められない」


 鯱は、そこを曖昧にしなかった。


「ただ、逃げたままだと、お前が何を見たかを話せない」


「玲子さん……」


「生きて出てこいって、怒ってたぞ」


 航平は目を閉じた。


 蕎麦屋の親父が、二人の前に丼を置いた。


「食ってから行け」


 鯱が財布を出すと、親父は首を振った。


「今日はいい」


 鯱は手を止めた。


「俺のも?」


「お前のは払え」


「そうだと思った」


 航平が初めて、少しだけ笑った。


     *


 航平が警察へ行った後、鯱は玲子に尋ねた。


「昨夜、上着はどう管理してた」


「入口で預かって、番号札を渡すの。いつもどおり」


「航平のコートも?」


「お客様のとは別。一番奥のラックに掛けてある」


「主催の鳴海は、そこへ入ることがあるか」


「幹事だから。荷物を置いたり、景品を出したり」


「昨夜は、何人分預かった」


「十二人分。沢渡さんは上着を脱がなかったから」


 鯱は顔を上げた。


「十二人、全員コートを着てた?」


「ええ。あの寒さだもの」


「帰りは、全員に返したか」


「途中から騒ぎになったから、全部は覚えてない。でも、札は揃ってた」


「残った上着は?」


「一着。黒いカシミヤの。鳴海さんのよ。事情を聞かれたりして、そのまま置いていったんだと思う」


 鯱は、玲子を見た。


「鳴海は、何を着て帰った?」


四 借り物の背中


 鳴海は、鯱からの電話にも落ち着いていた。


『私のコートですか。別の参加者が間違って着ていったらしくてね。私は車でしたから、そのまま帰りました』


「コートは店に残ってるぞ」


 短い間があった。


『ああ、そうでしたか。私も混乱していて』


「昨夜、航平に水を運ばせたか」


『覚えていませんね』


「沢渡を、俺の名前で呼んだか」


『何の話です?』


「順番に聞いてる」


 鳴海は息を吐いた。


『鰐沢さん。疑われているのは、私ではないでしょう』


 電話は切れた。


     *


 昼過ぎ、鯱は向かいのビルで、配送員の坂口と会った。


 〈青灯〉へ花や酒を運ぶ男だった。


 坂口は、昨夜もその周辺を回っていた。


「十一時半くらいですか。ああ、あの人なら見ましたよ」


「鳴海を?」


「名前は知らないですけど。この写真の人」


 坂口は携帯の画面を指した。


「裏口から出てきて、袖を引っ張ってたんです。服、小さいのかなと思って」


「何色の上着だった」


「茶色。で、俺が台車を避けたら、顔を背けて階段へ戻った」


「時間、確かか」


「配達先で受領をもらった直後だから、記録は残ってますよ」


 鯱は、無理に結論を言わせなかった。


 見たことだけを、警察に伝えてもらうよう頼んだ。


 別れ際、坂口が言った。


「鯱さん、あの店の子が殺したって、本当ですか」


「今、調べてる」


「だったら、決まったみたいに言わないほうがいいですね」


「助かる」


     *


 それでも、足りなかった。


 鳴海が航平のコートを着た。


 だから、殺した。


 その間には、まだ大きな空白がある。


 椎名の証言が嘘でも、誰が沢渡を殺したかまでは決まらない。


 鯱は事務所で、昨夜の席順を眺めた。


 十二人の客。


 予定にない十三人目。


 鯱を待っていた、沢渡。


 なぜ、沢渡は電話一本で来たのか。


 本人へ確かめもせず。


 鯱は沢渡の会社へ連絡し、付き合いのある経理担当者を訪ねた。


 相手は面会を渋った。


 鯱は事情を話し、無理に押しかけることはしなかった。


 夕方になって、向こうから電話が来た。


『一つだけ、言っておきたいことがあります』


 沢渡は、前日の午後、会社の書類を複写させていた。


 いくつかの土地取引。


 実際の支払額と、上へ報告された金額が違う。


 差額が流れた先に、鳴海の会社があった。


『沢渡さんも、関わっていたんだと思います。最近、揉めてました。もう自分は被らないって』


「それを、誰かに渡すつもりだった?」


『ええ。第三者を挟んで話す、と』


 鯱は目を閉じた。


 自分の名前が使われた理由が、ようやく見えた。


 沢渡は、自分も汚れていることを承知で、鳴海と手を切ろうとしていた。


 警察でも、組織の上でもない。


 金の話と、裏の話を両方聞ける人間。


 鰐沢が間に入ると言われれば、来る。


「書類は、警察に出せるか」


『会社を通して出します。私一人で持っていていいものではないので』


「それでいい」


 電話を切ると、澪が言った。


「鳴海に動機がある」


「ああ。でも、一人でやったとは思えん」


「椎名ですね」


「自分の上司が、誰と、何をしに会うかを知ってる。店長より先に、逃げた航平を犯人だと言い切ってる」


 鯱は椅子から立った。


「それに、今も航平を捜してる」


「警察へ行ったのに?」


「調べが済んで外へ出るのを、待ってる奴がいる」


 澪の表情が変わった。


 鯱はコートを取った。


「警察に伝える。それから、走ってる連中を止める」


五 仇の顔


 会う相手を探す必要はなかった。


 その夜、椎名から電話が来た。


『鳴海さんが、お前と話したいそうだ』


「俺も話したい」


『場所はこっちで決める』


「駄目だ」


 鯱は、街の古いホテルを指定した。


 一階のラウンジ。


 人の目があり、出口も一つではない。


 会うことと、その理由は先に警察へ伝えた。


     *


 鳴海と椎名は、並んで座っていた。


 鯱の前には、水が置かれた。


「大変なことになりましたね」


 鳴海が言った。


「おかげさまで」


「私たちは、これ以上街が荒れないようにしたいんです」


「それはいいな。航平を捜してる連中を帰してくれ」


 椎名が口を開いた。


「あいつには、聞くことがある」


「警察が聞いてる」


「こっちには、こっちの——」


「鳴海」


 鯱は椎名を見ずに呼んだ。


「昨夜、航平のコートを着たな」


 鳴海の表情は変わらなかった。


「言いがかりです」


「裏口で、顔を見られてる」


「人違いでしょう」


「そう言うと思った」


 鯱は水を一口飲んだ。


 椎名が、わずかに鳴海を見た。


 鯱はその動きを見逃さなかった。


「椎名。お前が見たのは、茶色いコートの背中だったな」


「ああ」


「顔は見てない」


「航平に間違いねえ」


「鳴海は、着てないと言ってる」


「だから何だ」


「航平は、コートを盗まれたと言ってる。鳴海が着てたところを見た人がいる。お前は、顔を見てない」


 鯱は、二人の間へ視線を置いた。


「そのうち鳴海は、コートを着たことだけ認めるぞ。寒かったから借りた。血なんかついてなかった。着た後は、椎名に渡したって」


 椎名の顔が変わった。


 鳴海が先に口を開いた。


「勝手な筋書きですね」


「違うなら、それでいい。昨夜のことは、別々に説明すればいい」


 鯱は続けた。


「沢渡が持ってた書類のこともな」


 初めて、鳴海の指が止まった。


 グラスの縁を撫でていた指だった。


「土地の代金。上へ出してた数字と違う。差額が、あんたの会社に流れてる」


 椎名が鳴海を見た。


 今度は、隠さなかった。


「……何の話だ」


 鳴海は鯱を睨んだ。


 鯱は椎名へ向いた。


「知らなかったのか」


「俺は——」


「沢渡は、その件を俺の前で話すと言われて来た。俺は呼んでない。俺を呼ぶつもりも、最初からなかったんだろ」


 鳴海が立ちかけた。


 鯱は止めなかった。


「帰っていい。ただ、椎名にも考える時間をやれ」


「お前、何を——」


「仇を討つつもりで航平を捜してる連中に、土地の金の話をしたか?」


 椎名の喉が動いた。


「お前は沢渡の部下だ。上司を殺した相手が誰か分からない段階で、鳴海の言うままに航平を追ってる。それを、他の連中が知ってもついてくるか」


 鳴海は座り直した。


 それが答えだった。


 立ち去れない理由ができた。


 椎名を一人、鯱の前に残せなくなった。


     *


「……コートは、渡された」


 椎名が言った。


 鳴海が顔を向けた。


「黙れ」


 椎名は、その声で何かを決めたようだった。


「航平が置いてったから、階段へ出しとけって」


「余計なことを言うな」


「余計じゃねえだろ」


 椎名の声が荒くなった。


 近くの席の客が、こちらを見た。


 鯱は二人へ身を寄せた。


「声、落とせ」


 椎名は肩で息をした。


「沢渡さんが寝てるから、しばらく誰も入れるなって言ったのも、あんただろ」


 鳴海は答えなかった。


「俺は、殴って気絶させたのかと思った。話をつけるためだって……」


「椎名」


 鯱が遮った。


「その続きは、警察で話せ。俺に話しても、したことが軽くなる約束はできない」


 椎名は黙った。


 鳴海が、ゆっくり鯱へ顔を向けた。


「あなた、自分が何をしてるか分かっていますか」


「分かってるつもりだ」


「この街で商売している人間が、何人困ると思ってるんです」


「その話をするなら、名前を出せ」


 鯱の声から、柔らかさが消えた。


「街を勝手に背負うな。お前の金の話だろ」


 鳴海の口が閉じた。


 鯱は椎名を見た。


「航平を待ってる連中に電話しろ。沢渡の件で、説明しなきゃならないことがある。今は動くな、と」


 椎名は動かなかった。


「お前が言わないなら、俺が言う。ただし、お前が何を知ってたかも一緒に話す」


 長い間があった。


 椎名は携帯を出した。


     *


 その場で、事件が解決したわけではなかった。


 椎名が話したことは、捜査で確かめられた。


 鳴海が航平のコートを持ち出した経緯。


 沢渡を鯱の名で呼んだ連絡。


 応接室へ入った時間。


 金の流れ。


 客たちの証言も、一つずつ照合された。


 椎名は、自分がしたことを小さく話そうとした。


 鳴海は最後まで、沢渡を殺したことを否定した。


 それでも、残された証拠と供述は、二人の説明を少しずつ狭めていった。


 やがて鳴海は逮捕された。


 椎名についても、証拠を隠した行為などが調べられることになった。


 茶色いコートは、すぐには航平の元へ戻らなかった。


六 その席に座る人


 〈青灯〉が営業を再開したのは、三週間後だった。


 戻らない客もいた。


 事件の起きた店だと、断られた予約もあった。


 玲子は奥の応接室を、しばらく使わないことにした。


 だからといって、店まで閉めるつもりはなかった。


 最初の夜、鯱は開店前に顔を出した。


 航平が、新しい黒いコートを受け取った。


「お預かりします」


「札、なくすなよ」


「それ、こっちが言うことです」


 航平の顔には、まだ少し疲れが残っていた。


 だが、声は以前より落ち着いていた。


 玲子がカウンターの向こうから言った。


「鯱、今日はお金いらない」


「よく考えて言ったほうがいいぞ」


「飲み物だけね」


「急に範囲が狭くなったな」


 玲子は笑った。


 グラスを置くとき、その手が一度だけ止まった。


「……私、航平を疑ったの」


 航平はクロークへ戻っていた。


「一瞬だけ。でも、疑った」


 鯱は何も言わなかった。


「顔を見て、違うって言う前に、何で逃げたのって思った」


「そりゃ、思うだろ」


「母親みたいな顔してたくせに」


「玲子」


 鯱は、グラスから手を離した。


「疑わなかったことにしなくていい。戻ってきたあいつに、今、何をしてやるかだろ」


 玲子は目を伏せた。


 それから厨房へ顔を向けた。


「航平、ご飯食べた?」


「まだです」


「賄い、温めて」


 鯱が顔を上げた。


「俺のもある?」


「あなた、さっき蕎麦食べてきたでしょう」


「情報が早いな、この店」


 玲子がようやく、いつもの声で笑った。


     *


 帰り際、航平がコートを持ってきた。


 鯱はそれを受け取り、袖を通した。


 肩で止まった。


「……縮んだか?」


 航平が目を丸くした。


「それ、澪さんのです」


 隣で会計をしていた澪が振り返った。


「何してるんですか」


「黒かったから」


「大きさが違うでしょう」


 航平が慌てて脱がせる。


 鯱は片腕だけ抜けた姿で、真面目に言った。


「コートだけで人を決めつけちゃいかんな」


「今、その教訓にします?」


 玲子がカウンターに手をついて笑った。


 航平も笑った。


 少し前まで、笑っていいのかさえ分からなかった店に、しばらく笑い声が残った。


     *


 外は、雪だった。


 鯱はようやく自分のコートを着て、首をすくめた。


 澪が横へ並ぶ。


「今回、自分の名前を使われたのが、一番腹立ちました?」


「いや」


「じゃあ、何ですか」


 鯱は、ビルの五階を見上げた。


 小さな青い灯りが点いていた。


「航平が逃げるって、読まれてたことだ」


 澪は黙った。


「怖がらせとけば、あいつは逃げる。逃げれば、みんな疑う。そこまで込みで、使われた」


 雪が、鯱の肩に落ちた。


「臆病なところまで、他人の都合で使われるのは、たまらんだろ」


 澪は少し歩いてから言った。


「でも、戻ってきましたね」


「ああ」


「鯱さんのところに」


 鯱は返事をしなかった。


 角を曲がると、花屋の女将が店先を片づけていた。


「あんた!」


 鯱が止まった。


「鉢、取りに来ないから、うちでずっと育ててるんだけど!」


 蓮の退院祝いだった。


 鯱は、澪を見た。


 澪は先に首を振った。


「私は覚えてました」


「言ってくれよ」


「事件の途中で、鉢植えの話をします?」


 女将が奥から鉢を持ってきた。


 最初に見たときより、少しだけ葉が増えていた。


「大きくなったな」


「そりゃ、世話してるもの」


 鯱は両手で受け取った。


 女将は、その鉢の根元を指した。


「水、やりすぎないでね」


「分かった」


「分かってない顔してる」


 澪が横から言った。


「私が見ます」


 女将は安心したように頷いた。


 鯱は何も言い返さず、鉢をコートの内側へ少し寄せた。


 葉に雪が積もらないように。


(第四話・了)

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