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事件師/鰐沢 鯱  作者: 平松豊政


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事件師・鰐沢鯱 第2話

第二話 親父の看板


 午前八時五十二分。


 鰐沢鯱は、事務所のソファに座っていた。


 コートを着て、靴も履いたまま、両腕を組んでいる。


 澪は入口で足を止めた。


「……本当に来てる」


 昨日、扉に挟まっていた手紙の主を、朝から待つと言った。


 言ったことは守っている。


 ただし、寝ていた。


「鯱さん」


「起きてる」


「まだ名前しか呼んでません」


 鯱は目を開けた。


「何時だ」


「九時前です」


「そうか。早起きすると、一日が長いな」


「もう一回寝てましたけど」


 机の上には、コンビニのおにぎりが三つ並んでいた。


 それぞれに付箋が貼ってある。


〈俺〉


〈澪〉


〈来る人〉


 澪は最後のおにぎりを見た。


「何人で来るか分かりませんよ」


 鯱はしばらく考えた。


「その場合は、俺が来る人になる」


「何を言ってるんですか」


 そのとき、扉が鳴った。


     *


 入ってきたのは、二十代半ばほどの女性だった。


 紺色のコートの袖口を、指で握り締めている。


「昨日、手紙を置いた者です」


「どうぞ。飯は?」


「……はい?」


「食った?」


「食べました」


 鯱は頷き、〈来る人〉の付箋を剥がした。


 澪が、その手からおにぎりを取り上げた。


「後で」


 女性は少しだけ笑った。


「倉田、紬といいます」


 鯱の手が止まった。


「倉田。〈くら田〉の?」


「父をご存じですか」


「長いこと、飯を食わせてもらってる」


 路地の奥にある、小さな居酒屋だった。


 カウンターが七席。四人掛けの座敷が一つ。


 親父の倉田修司は無愛想で、客が褒めても「ああ」としか答えない。そのくせ、誰が葱を苦手にしているかまで覚えていた。


 鯱の事務所に昨晩届いた煮物も、その店のものだった。


「親父さん、どうした」


「店を閉めるって」


 紬が膝の上で手を組んだ。


「今月いっぱいで。急に、もう疲れたからって」


「体を悪くしたか」


「病院には通ってますけど、店を続けられないような病気じゃありません。私、春から手伝うことになってたんです。今の勤め先にも、もう話してあって」


 鯱は急かさずに待った。


「この前、知らない男の人が来てました。父と奥で話して、その後からです。看板を下ろす業者まで呼んで……」


「その男、見たことある?」


「ありません。でも帰り際、私に名刺をくれました」


 紬が鞄から一枚出した。


 飲食店の経営支援をうたう会社名。


 下に、小宮山達也、とある。


 鯱は名刺を表にし、裏にした。


「父に、鰐沢さんへ相談しようって言ったら、怒られました」


「何て?」


「お前は余計なことをするな。あいつだけには頼るな、って」


 鯱は背もたれに体を預けた。


 昨晩、倉田はいつもどおりだった。


 煮物を押しつけ、鍋を返せと言った。


 店を閉めるつもりの男が、翌日の約束だけしていた。


「紬ちゃん」


「はい」


「まず親父さんと話してくる。聞いたことを全部、そのまま君に話せるとは限らない。それでもいいか」


 紬は迷ってから、頷いた。


「父が何か困ってるのか。それだけでも知りたいです」


     *


 〈くら田〉の暖簾は、まだ出ていなかった。


 鯱は裏口を叩いた。


「鍋、返しに来た」


 倉田が扉を開けた。


 鯱の顔を見て、すぐに眉を寄せる。


「紬か」


「鍋だ」


「誤魔化すな」


「昨日、返せって言ったろ」


 倉田は黙って鍋を受け取った。


 七十歳を目前にした背中は、以前より少し丸くなっていた。白衣の袖から出た腕には、古い火傷の痕がいくつも残っている。


 鯱はカウンターの隅へ座った。


 倉田は出汁の鍋に向き直った。


「閉めるんだってな」


「ああ」


「俺、どこで飯食えばいい」


「店ならいくらでもある」


「葱、勝手に抜いてくれる店は少ない」


「食え。いい年して」


 出汁の湯気だけが、二人の間を動いた。


「小宮山に、何を言われた」


 倉田の背中が動かなくなった。


 鯱は名刺をカウンターに置いた。


「紬ちゃん、心配してたぞ」


「帰れ」


「まだ何も食ってない」


「客じゃねえだろ、今日は」


 鯱は黙った。


 倉田が振り返った。


「お前にだけは、知られたくねえんだよ」


 その顔を見て、鯱は椅子から腰を浮かしかけ、座り直した。


「……そうか」


「頼むから、帰ってくれ」


 鯱は名刺を取った。


 入口まで歩き、そこで一度止まった。


「紬ちゃんには、話してやれよ」


 返事はなかった。


     *


 小宮山は、その日の夕方、鯱からの電話に応じた。


 会う場所は、すすきのの外れにあるラウンジだった。


 まだ客はおらず、小宮山は奥の席でパソコンを開いていた。


「倉田さんのことでしょう」


 鯱が座る前に、小宮山は言った。


「話が早いな」


「娘さんが心配されるのは分かります。でも、これはご本人の判断ですよ」


「店を閉めることが?」


「ええ。古い店を続けるにも、潮時がありますから」


 小宮山は微笑んだ。


 鯱は、机に置かれた書類を見た。


 〈くら田〉の店名が入っている。


「何の契約だ」


「営業譲渡です。設備も含めて、こちらで引き取る。倉田さんも身軽になれる」


「いくらで」


 小宮山は答えず、別の紙を取り出した。


 古い新聞記事のコピーだった。


 鯱は目を落とした。


 二十九年前の日付。


 傷害事件。


 逮捕された男の名は、倉田修司。


「ご存じなかったですか」


 小宮山の声が柔らかくなった。


「酒場で相手に大怪我をさせてるんですよ。服役もしてる。娘さんも、知らないようですね」


 鯱は記事から目を上げた。


「それが、店の値段とどう繋がる」


「私はね、今の時代に、こういう話が広まるのは気の毒だと思ってるんです」


 小宮山はコピーを指で揃えた。


「お嬢さんは、これからお父さんの店を継ぐんでしょう。結婚だってある。だから、穏便に済むうちに——」


「いくらだ」


「五十万です」


 冷蔵庫も、製氷機も、食器も。


 三十年近く磨かれたカウンターも。


 全部で五十万。


 鯱は、もう一度その数字を聞き返した。


 小宮山は同じ金額を言った。


「明日の午後に署名をいただく予定です」


「記事、もらっていいか」


「どうぞ」


 鯱は折らずに、持ってきた鞄へ入れた。


     *


 夜の〈くら田〉は、満席だった。


 鯱は暖簾の外で待った。


 客が一人帰るたびに、店の奥から倉田の「あいよ」が聞こえた。


 最後の客が出たのは、午前零時を少し回ったころだった。


 鯱が入ると、倉田は疲れた顔で言った。


「しつこいな」


「よく言われる」


 カウンターの端に、新聞記事を置いた。


 倉田はそれを見て、椅子に座った。


 長い沈黙の後、口を開いた。


「喧嘩だった」


「ああ」


「だが、途中からは違った。相手が倒れても、やめなかった」


 鯱は何も言わなかった。


「酔ってた。腹も立ってた。そんなもん、理由にならねえ。相手は目を悪くした。俺は刑務所に入った」


 倉田は、指の節を親指で擦った。


「出てきてから、働いて、払うものを払ってきた。それで帳消しになったとは思ってねえ」


「紬ちゃんには」


「言えなかった」


 倉田は俯いた。


「母親が死んでから、あいつと二人だった。運動会で弁当を作れば喜んでくれた。店を継ぎたいって言われたときは……」


 そこで声が途切れた。


 鯱は、おしぼりの袋を指で弄んだ。


「俺に知られたくなかったのは?」


 倉田は少し笑った。ひどく疲れた笑いだった。


「昔、お前に偉そうなことを言った」


「何か言われたか」


「覚えてねえのか」


「だいぶ怒られたからな。絞ってくれ」


「拳を握ったままじゃ、飯は食えねえって」


 鯱の手が止まった。


 二十年ほど前。


 まだこの街で、自分の居場所も分からずにいたころだった。


 揉め事の後、血のついた手を卓上に置いた鯱へ、倉田が濡れた布巾を投げた。


 あの晩のことは、覚えていた。


「自分ができなかったくせにな」


 倉田が言った。


「お前に、どの口で説教してたんだって話だ」


 鯱は布袋から、小さな保存容器を出した。


 昨日の煮物の残りだった。


「親父」


「何だ」


「これ、温めてくれ」


 倉田が顔を上げた。


「話、聞いてたか」


「聞いてた。腹も減ってる」


 倉田は動かなかった。


 鯱は容器を、少しだけ押し出した。


「紬ちゃんに話せ。嫌われるかもしれない。怒るかもしれない。それは、俺にはどうにもできん」


 倉田の喉が動いた。


「でも、あの小宮山に、紬ちゃんの返事まで決めさせるなよ」


 厨房の冷蔵庫が、小さく唸った。


 やがて倉田は容器を取り、立ち上がった。


「……葱、入れるぞ」


「今の話と関係ないだろ」


     *


 翌日の午後一時。


 小宮山が〈くら田〉へ来ると、カウンターには鯱と紬が座っていた。


 倉田は厨房に立っていた。


「皆さん、お揃いで」


 小宮山は鞄を置いた。


 紬の目が赤いことには、触れなかった。


「では、早速ですが」


「売らねえ」


 倉田が言った。


 小宮山の手が止まった。


「倉田さん。昨日までのお話と違いますね」


「悪かった。売らねえ」


 小宮山は紬を見た。


「お父さんから、昔のお話は?」


「聞きました」


「それなら、お分かりでしょう。これが世間に——」


「私に言われても困ります」


 紬の声は震えていた。


 それでも、小宮山から目を逸らさなかった。


「父のしたことを、私が許して済むわけじゃないです。怪我をした人がいるんだから」


 倉田は俯いた。


「でも、それであなたが、この店を安く買える理由にはならないですよね」


 小宮山は笑おうとして、やめた。


 鯱が口を開いた。


「昨日の話、終わった後で記録にした。今日も、俺が聞いてる。何か広めると言うなら、その話も残す」


「脅してるんですか」


「お前が何をするつもりか、確認してる」


 小宮山は鞄の持ち手を握った。


「私は商談に来ただけですよ」


「じゃあ、断られたな」


 鯱は出口を見た。


 小宮山は書類を鞄へ戻した。


 扉の前で振り返る。


「鰐沢さん。あなたにだって、人に知られたくない話くらいあるでしょう」


 鯱は椅子から立たなかった。


「あるよ」


 あっさり答えた。


「それを使う話なら、俺のところへ来い」


 小宮山は、今度こそ出ていった。


     *


 小宮山とのやり取りは、その日のうちに相談先へ持っていくことになった。


 店に残った三人は、しばらく黙っていた。


 先に口を開いたのは紬だった。


「私、まだ怒ってるから」


 倉田が頷いた。


「店を閉めようとしたことも。私に何も言わなかったことも」


「ああ」


「昔のことも、すぐには整理できない」


「ああ」


「それしか言えないの?」


 倉田は困った顔になった。


 鯱が、そっと席を立った。


「じゃ、俺は——」


「鯱さんはいてください」


 紬に言われ、座り直す。


「二人だと、この人、仕込みに逃げるんで」


「俺、立会人なのか」


「はい」


 鯱は腕時計を見た。


「一時間くらいなら」


 実際には、二時間かかった。


 途中で澪から電話が来た。


 事情を聞くと、彼女は言った。


『よかったじゃないですか。相談所らしい仕事で』


「何も喋ってないぞ、俺」


『今日は、そのほうが役に立ってるんでしょう』


     *


 一週間後。


 〈くら田〉の前で、鯱は脚立を押さえていた。


 上では、馴染みの電気屋が看板の照明を直している。


「器具ごと替えなくても、今日はこれでいけますよ」


「助かる」


「礼は大将に言ってください。昼飯つけてもらうんで」


 店の中では、紬が座敷を拭いていた。


 倉田の過去が消えたわけではない。


 娘がすべてを受け入れたわけでもなかった。


 ただ、春になる前に、週末だけ店を手伝うことになった。


 看板に灯りが戻った。


 古い木の板に、〈くら田〉の三文字が浮かんだ。


 倉田が暖簾を持って出てきた。


「飯、食ってけ」


「今日は何だ」


「焼き魚」


「骨、多い?」


「魚に聞け」


 鯱は笑って、店へ入ろうとした。


 紬が呼び止めた。


「鯱さん。そこ、頭」


 遅かった。


 暖簾の棒が、額に当たった。


 鈍い音がした。


 電気屋が脚立の上で肩を揺らし、紬が口元を押さえた。


 倉田だけが、真顔で言った。


「二十年通って、まだ高さを覚えねえのか」


 鯱は額を押さえ、看板を見上げた。


「店が長く続くと、建物も縮むんだな」


「お前はもう、黙って入れ」


 紬が今度は声を出して笑った。


 倉田は厨房へ戻りながら、皿を一枚余分に出した。


 鯱の分の魚は、骨が外してあった。


(第二話・了)

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