事件師/鰐沢鯱 第1話
第一話 取りに来ない給料袋
鰐沢鯱が、すすきのの交差点で立ち止まった。
向かいにいた黒服が、その顔を見て足を止めた。
鯱は眉間に深い皺を寄せ、手にした紙袋を睨んでいる。
「……鯱さん」
「おう」
「何か、あったんすか」
「六個ある」
「はい?」
「事務所に二人だろ。まさえの店に三人。俺を入れて六人だ」
黒服は少し考えた。
「事務所の二人って、鯱さんと澪さんですよね」
「そうだ」
「鯱さん、二回いません?」
鯱は袋を覗いた。
鯛焼きが六匹、口を開けていた。
「……一匹、身元が浮いたな」
「食べればいいじゃないすか」
「お前、頭いいな」
一匹渡され、黒服は笑った。
すすきので鰐沢鯱を知らない者は、珍しくない。
ただ、困った末に彼の名前を聞く者は多かった。
*
スナック〈こまち〉は、まだ開店前だった。
鯱が扉を押すと、まさえがカウンターの向こうから言った。
「鯛焼きより、返してほしいものがあるんだけど」
「愛情か」
「傘。三本」
「まとめて言うなよ。常習犯みたいだろ」
「みたい?」
笑いながら袋を置いた鯱は、奥の席にいる若い男に気づいた。
コートを着たまま、両手を膝に揃えている。
卓上には、茶封筒が一枚。
「こちら?」
「美月の弟。拓海くん」
「美月ちゃんの」
鯱は向かいに座った。
美月は週に三晩、この店で働いていた。いつも靴の踵を丁寧に磨いている娘だった。以前、鯱がそれを褒めると、母親の形見だから、と少し照れて答えた。
「姉が、帰ってこないんです」
拓海の声は掠れていた。
「いつから」
「一昨日。電話しても出なくて。昨日、部屋にこれが」
封筒から出てきたのは、折り畳まれた便箋だった。
しばらく札幌を離れます。
探さないでください。
お金は、必ず返します。
鯱は最後まで読み、卓上に戻した。
「何の金だ?」
「俺の、専門学校の金です。姉ちゃんが払ってくれてて……でも、借金してたなんて知らなくて」
「借金の話は、誰から聞いた」
「関口さんです。姉の知り合いだって。立て替えた金が残ってるから、行き先が分かったら教えてほしいって」
まさえが唇を結んだ。
「関口なら知ってるよ。飲食店に女の子を紹介してる男」
「姉ちゃん、俺が学校辞めれば——」
「学校の話は、いったん置こう」
鯱は拓海の前に鯛焼きを置いた。
「昼、食ったか」
拓海は首を振った。
「じゃあ食え。熱いうちなら、少しうまい」
「冷めてるよ」
まさえが言った。
鯱は鯛焼きを触った。
「……急いで食わなくていい」
拓海の口元が、わずかに緩んだ。
その間に、まさえが別の封筒をカウンターから持ってきた。
表に、美月、と丸い字で書いてある。
「あの子の先月の給料。取りにも来ないの。前に振込先を聞いたときも、現金がいいって」
「いくら」
「十八万六千円」
鯱は封筒を見た。
「部屋に、普段履いてる黒い靴はあった?」
拓海が顔を上げた。
「ありました。玄関に」
鯱は頷いた。
「まず、無事か確かめよう」
*
美月は、一時間半後に見つかった。
鯱が電話をした弁当屋の女将が、近くの小さなビジネスホテルに弁当を届けていた。
最初、女将は何も言わなかった。
『見つかると困る事情だってあるでしょう』
「そうだな。じゃあ、俺の番号だけ渡してくれ。弟が心配してる。居場所は、本人がいいと言うまで誰にも話さない」
二十分後、知らない番号から着信があった。
*
ホテルのロビーに下りてきた美月は、スニーカーを履いていた。
鯱を見ると、目を伏せた。
「ママ、怒ってますよね」
「傘の件では、かなり」
「……私のことです」
「心配してる」
鯱はそれだけ言った。
美月が腰を下ろすまで待ってから、隣の椅子に座る。
「関口に、いくら借りた」
「最初は、三十万です。拓海の学費が足りなくて」
「返した分は?」
「四十二万。でも、紹介してもらった店を辞めたから違約金があるって。あと、部屋を紹介した手数料とか……残り、八十万って」
「その金額、紙でもらったか」
美月はスマートフォンを取り出した。
画面には、短い催促が何十件も並んでいた。
鯱は途中で口を挟まず、一つずつ読んだ。
最後の数件で、指が止まった。
〈弟の学校に相談してもいいんだぞ〉
〈お前が無理なら弟に働いてもらう〉
鯱は画面を美月へ返した。
「これ、残しておいてくれ」
「警察とかに話したら、拓海に知られるから……」
「弟には、どこまで話していい?」
美月はすぐには答えなかった。
ロビーの自動扉が開き、冷たい風が二人の足元を通った。
「……借りたことは、話していいです。でも、学校を辞めるなんて言わせないで」
「俺からも話す。あとは、二人で決めよう」
美月は膝の上で手を握った。
「鯱さん。私、お金、あんまり」
「今日はママから鯛焼き代を回収する」
「ママに売ったんですか?」
「そこは、これから交渉だ」
*
関口は、指定された喫茶店へ十分遅れて来た。
「鯱ちゃん。久しぶり」
「おう、関ちゃん」
「美月の件? いやあ、参ったよ。人助けすると、これだからさ」
鯱は笑って、向かいの椅子を指した。
関口は座るなり、店員にコーヒーを頼んだ。
「で、どこにいるの、あの子」
「会いたいのか」
「そりゃ。金の話、残ってるから」
「持ってきた?」
関口は鞄から明細を出した。
鯱は目を通した。違約金、紹介料、事務手数料。下段に、残額八十万円とある。
「これ、美月ちゃんに最初から説明してたか」
「してるよ。あの子、都合の悪いこと忘れるから」
「そうか」
鯱は電話をかけ、相手の許可を取ってスピーカーにした。
関口が以前、美月を紹介した店の経営者だった。
『うちから違約金を請求したことはないですよ。紹介料は関口さんに払ってます。美月さんからも取ってたんですか?』
関口が手を伸ばした。
「いや、ちょっと、俺から説明——」
「後でお前から連絡してくれ。今は俺が確認してる」
鯱は礼を言い、電話を切った。
関口は椅子に座り直した。
「鯱ちゃんさ。この商売、綺麗事だけじゃ——」
「三十万を貸したことは、本人も認めてる。返した四十二万の記録もある。ここから先は、本人の了解を取って弁護士に見てもらう」
「大袈裟にするなって。こっちも、面倒見てきたんだから」
「その話も、そこでしてくれ」
コーヒーが来た。
関口は店員が離れるまで黙っていた。
それから、顔を寄せた。
「俺を潰しても、あの弟は学校に通うんだよな」
鯱の手が止まった。
角砂糖を一つ、皿へ戻した。
「関口」
初めて、呼び方が変わった。
「今のは、どういう意味だ」
「いや、だから——」
「学校で何をするつもりなんだ。聞いてる」
声は低くも、大きくもなかった。
隣の席では、二人連れが旅行の話を続けていた。
関口は口を開き、閉じた。
以前、店を任された若い男が売上金を持って消えたとき、関口は鯱に捜してもらったことがあった。男は三日後に戻った。鯱がどこから連れてきたのか、最後まで話さなかった。
その鯱が今、自分の返事を待っていた。
「……何もしないよ」
「なら、そんな言い方をするな」
関口が視線を落とした。
「俺、間に入ってるだけなんだ。上からも言われてて」
「誰に」
「それは勘弁してくれ」
「分かった。お前が説明できない分は、こちらも確かめる」
鯱は明細を複写していいか尋ねた。
関口は頷いた。
席を立つとき、鯱は伝票を持った。
「ここは払う。俺が呼んだからな」
その言い方があまりに普段どおりで、関口は礼を言い損ねた。
*
話が全部終わるまでには、三週間かかった。
美月は弁護士と面談し、振込記録と関口からの連絡をまとめた。鯱も一度、同席した。
その間、美月は〈こまち〉に戻り、拓海は学校へ通った。
関口から二人への連絡は止まった。
まさえが給料袋を渡した晩、拓海は店の前まで迎えに来ていた。
「これ、ママから」
美月は封筒を弟に見せた。
「でも、これからは学費のこと、ちゃんと二人で話す。私が全部どうにかするって言ったの、間違ってた」
拓海は俯いた。
「俺、何にも知らなくて」
「私が言わなかったんだもん」
まさえはグラスを拭いたまま、こちらを向かなかった。
鯱も黙っていた。
やがて拓海が、持ってきた紙袋を差し出した。
「鯱さん。これ、お礼です。バイト代、入ったから」
中にはプリンが四つ入っていた。
「気を遣わせたな」
鯱は真剣に数えた。
「俺、ママ、美月ちゃん、拓海。ちょうどだ」
「私は?」
背後から声がした。
事務員の澪が、開いた扉の前に立っていた。
鯱は紙袋を閉じた。
「……これは、まだ確定した配分じゃない」
「私の分、食べてください」
美月が笑うと、拓海も「俺のも」と言った。
まさえが冷蔵庫を開けた。
「スプーン五本出しな。分けりゃいいでしょう」
*
店を出るころには、細かな雪が降っていた。
向かいの居酒屋から、店主が鯱を呼び止めた。
「おい。煮物、持ってけ」
「俺、そんなに腹減って見える?」
「鍋、明日返せよ」
少し先では、花屋の女将が手招きした。
「これ、事務所に飾りな。売れ残り」
「うち、花瓶ないぞ」
「前にあげたでしょう。二つ」
澪が鯱を見た。
「ペン立てと、割り箸入れですね」
「用途が広いな」
「洗ってください」
両手が塞がったところで、背後からまさえが追いかけてきた。
「鯱! 傘!」
「今日は降ってないだろ」
「雪が降ってるでしょうが!」
傘を一本、脇に挟まれた。
澪が笑いながら、その傘を開いた。
鯱は鍋と花を抱えて、少し屈んで傘に入った。
「……また四本になった」
「返せば減ります」
二人は、店の灯りが重なる歩道をゆっくり歩いた。
途中で三度、鯱の名が呼ばれた。
そのたびに振り返るので、煮物は事務所に着く前に冷めた。
事務所の扉には、小さな紙が挟まっていた。
〈鰐沢さんへ。
父が、あなたには頼るなと言っています。
だから来ました。
明日、もう一度来ます。〉
名前はなかった。
鯱は一度読み返してから、澪に渡した。
「明日、午前中は空けといてくれ」
「何時に来るか、書いてませんけど」
「じゃあ、朝からいる」
「起きられます?」
鯱は答えず、鍋の蓋を開けた。
大根のいい匂いがした。
「澪。これ、温め直せるか」
「話、変えましたね」
窓の外では、すすきのの灯りがまだ明るかった。
鯱は机の端に置いてあった割り箸を全部抜いて、流しへ向かった。
まず、花を生けることにした。
(第一話・了)




