16.彼女の翌日
やってしまった。
これは、目を醒ましてから最初に浮かんだ言葉である。
あれが夢であるのならばよかった。だが、身を起こして周囲を確かめれば、ベッドには痕跡が残っている。特にシーツに残る血痕が問題だ。
(私ったら、なんてことをしてしまったの!)
頭を抱えるしかない。
『夜宴の黒花』でありながらも男性経験がない。隠していたその事実をアクシオに知られたかもしれないのだ。
(でも旦那様が気づいていない可能性だって――)
彼の言動や行動から考るべく、昨晩のことを思い起こす。
彼が囁いた言葉も吐息も、触れられた箇所の甘やかな疼きも覚えている。目隠しをしていたから余計に、彼の指先の動きも敏感に感じ取ってしまった。
(とても……良かったけれど……ってそういう話じゃない!)
こみ上げた羞恥心に耐えきれず、ヴィルエは枕に顔を埋めた。
(そもそも! 旦那様を揶揄って遊ぶのは私だったのに! あんな逆襲方法があるなんてずるいでしょう!)
普段のように強気に振る舞えなかったことが悔しい。
それもこれも、デールが仕込んでいた薬のせいだ。今はすっかり薬も抜けているものの、あの薬が効いてから体がおかしくなっていた。
少し触れられるだけでも雷に打たれたかのように刺激的で、そんな中でアクシオに抱き上げられたのだ。彼の体温が伝わるだけで蕩けてしまいそうになっていた。
だから、つい、甘えてしまった。
甘える子供のように彼の服を掴み、『行かないで』と懇願してしまった。
けれど、不思議と嫌だとは思わなかった。どうでもいい貴族が相手ならば早々に逃げ出していただろう。けれど相手がアクシオだったから、彼ならばいいと思ってしまったのだ。
それだけではない。彼が隣にいないことを寂しいと思ってしまう。抱きしめられた時の温度が忘れられない。
(でも……キスだけはしなかった)
それは彼が仮面をつけていたためではないだろう。どれだけ熱に浮かされようと、本能に支配されようと、唇だけは触れることがなかった。
彼なりの気遣いだったのだろうか。これは夫ではなく『夜梟』だからと遠慮したのかもしれない。
(ああ、もう! どんな顔をして旦那様に会えばいいの!)
目覚めた時にはアクシオの姿がなかったため、彼は自室に戻ったのだろう。しかし同じ屋敷にいるのだからいずれは顔を合わせてしまう。
どうしたものか――悩みながら手を動かした時、指先に昨晩のリボンが触れた。それはドレスの腰に結んでいたもので、昨晩はそれで目隠しをされていたのだが。
しかしこのリボンによってヴィルエは思い出す。
(あれは『夜梟』だから、旦那様ではない)
昨晩のヴィルエに触れたのは『夜梟』だ。だからアクシオではない。
ならばこの出来事も、実は男性経験がなかったというヴィルエが隠したかったものも、どれもアクシオの知らぬことなのだ。
「……より面倒なことになっているじゃない」
頭が痛い。面倒なことが続いている。
気持ちを切り替えるべく、ヴィルエは身を起こす。身支度を整え、乱れたベッドも綺麗に直す。使用人に任せても良いのだが、余計な噂を作りたくない。この出来事はミゼレーに話す気にもなれなかった。
そうしててきぱきと動いていると、ミゼレーがやってきた。
「おはようございます。今日は遅いお目覚めでしたね」
「ごめんなさいね。デールの屋敷から戻ってきたのに報告もできず、あなたに心配をかけてしまったでしょう?」
デールに警戒されぬよう一人で向かったため、ミゼレーは屋敷に残していた。心配をかけたと思っていたのだが、ミゼレーの反応はあっさりしていた。
「いえ。お疲れだと聞いていましたので」
「聞いていた……って誰から?」
「アクシオ様です」
その名が出た途端、ヴィルエの顔色が一気に青ざめる。まさかアクシオが全てを話してしまったのではないか。嫌な予感がして頬がひくついた。
「ど、どういう話をしたのかしら?」
「夜遅くに戻られたことや疲れて寝ていると聞いただけですが……」
安堵し、ヴィルエは胸をなで下ろす。
余計なことまで伝えられたのではないかと思ったが、ただの業務連絡だったようだ。
「今日はどうされますか? 具合が良くないようであればこのまま休まれますか?」
ミゼレーに問われ、思い出す。
刻限はすっかり昼。食事も取らずに眠っていたのだ。お腹が減っている。
「何か食べたいわね。後ほど食堂に行くと伝えてもらえる?」
ずっと部屋に籠もっていても、悶々と考えてしまうだけだ。それなら食堂に行って気分転換をした方がよい。
そう考えていたのだが――食堂に着いた後、ヴィルエは後悔することになる。
(なんで旦那様もいるのよ……!)
用意が出来たと聞いて食堂に行けば、既にアクシオがいた。彼も遅い時間の食事をとっているようだ。
彼もヴィルエの到着に気づいたらしく、視線がこちらに向く。しかし気まずそうにふいと反らしてしまった。
ヴィルエは無言で席につく。アクシオも無言のままだ。
ヴィルエの分の食事が運ばれても食堂は静寂に包まれ、居心地の悪い場所となってしまった。アクシオも同じように感じているのか、時折ちらちらとヴィルエの様子を確かめているものの、彼が何かを言うことはない。
(言いたいことがあるなら言えばいいじゃない)
アクシオの行動をもどかしく感じる。何よりも苛立たせるのは、昨晩の様子と違いすぎることだ。
(意地悪なことも、あんなことも、こんなことも……とにかく色々したくせに!)
荒々しかった昨晩の様子と一転していることに腹が立つ。
こうなれば、とヴィルエから口火を切った。
「旦那様も、随分と遅い時間に食事をされるのですね?」
話しかけられると思っていなかったらしく、アクシオは「え?」と間抜けな声をあげていた。ヴィルエは淡々とした口調で続ける。
「旦那様はいつも朝が早いでしょう? 遅くまでお休みされていたんですか?」
「は? それはお前も……いや、少し眠れなかっただけだ」
彼の動揺が手に取るようにわかる。
ここにいるのはいつも通りの、可愛いと思ってしまう反応をするアクシオだ。笑ってしまいそうになるが、ここは我慢する。
「……俺よりも、お前の体調はどうだ?」
「何の話です?」
アクシオとしては、昨晩の出来事があるために体調を案じているのだろう。しかしヴィルエが素知らぬ顔で聞き返したため、何も言えなくなってしまったようだ。
(だって『夜梟』は知っていても、旦那様は知らないんですものね)
困惑しながら言葉を探している姿が面白い。じっと彼を睨んで待っていると、ようやく探し当てた言葉を口にした。
「夜遅くまで出かけていたと聞いた。だから疲れているんじゃないか、と思ったんだが」
「ああ。その程度ですか」
は、と鼻で笑うように答えた瞬間、アクシオが眉根を寄せた。
「私、慣れていますもの」
「はあ? お前……」
彼は勢いよく立ち上がり、何かを言おうとしていた。しかし寸前で気づいたらしく、ぐっと堪えて言葉を呑み込んでしまった。
「夜会に行くことには慣れていますから。帰りが遅くなることだってよくありますわ――あら、旦那様ったら何かありまして? 慌てているようですけれど」
「くっ……」
言い返せなくなったらしく、悔しそうにアクシオが席に戻る。
(ふふん。あれで私に勝ったと思わないことよ)
勝ち誇った気分になりながら食事を続ける。
アクシオはまだ気まずそうにしていたが、しばらく経つと気持ちを変えたらしく、いつも通りの様子になった。
「明日は用事があるか?」
「出かける予定はありませんが」
アクシオから予定を問われるのは初めてのことだ。何かあったのだろうかと顔を強張らせるヴィルエだったが、続いて彼が語ったのは意外なものだった。
「明日、ニーベルジュ領の視察にでる。お前も一緒に行くか?」




