聖母火刑
「なあ、いいかげん離れてくれ……」
「無理!」
「苦しいっての」
「だって怖いんだもん」
暗がりで、固く目を閉じたみつきが、うんざりした様子の春人に抱きついて震えている。
かといってここはお化け屋敷ではない。
よもぎ町キリスト教会。
壇上に聖母マリアの像がある礼拝堂。
その片隅の、こぢんまりした懺悔室。
そこに2人は、ずっと身をひそめているのだった。
ついさっき、下から「チチチ」と鼠の声がした。
しかも、みつきの靴の上をトコトコ這ったらしい。
「ひ……」
とっさに春人の胸へ顔をうずめ、悲鳴の爆発をふさいだ。
で、今に至る。
「なあ、大丈夫なのか?」
「ちっとも」
「そうじゃなくて。例の妖怪が現れなきゃ、僕たちただの犯罪者だよ?」
「なんで早く出てきてくれないの……発火鼠さん」
鼠の妖怪より、普通の鼠のほうが怖いのか。
一方で、みつきの霊的知識には感心する。
ルサンチマン——弱者の憎悪を表す語だ。
それが、数日前に寺を全焼させた妖怪”発火鼠”の正体である。
実際、バケモノの目撃情報があって、しかも火元は判明してない。
必ず"次"がある。
そして標的は、宗教施設だろう。
神仏ほど妖怪にとって忌々しい存在もないからだ。
だとしたら、ここしかない。
それがみつきの予測だった。
よもぎ町。
それが2人の住む町の名前である。
四方木と書いて、よもぎ。
周囲を山に囲まれているからだ。
そのため邪気が滞り、怪異の温床であるらしい。
「だから、あたしや春人くんが必要なの」
みつきは、こともなげに言ったのだった。
さて、待てど暮らせど、変化は無い。
周囲が闇のため、閉所にいる実感が失われ、わざわざまとわりつくみつきがうっとうしい。
春人は、気を紛らわせようと、みつきが立てた発火鼠撃退プランをおさらいした。
発火鼠は、教会を内部から焼こうとする。
すなわち、礼拝堂に入ってきて、そこらじゅうに火を付けはじめる。
この時点では、春人もみつきも、懺悔室を出ない。
懺悔室には、みつきが結界を張っており、発火鼠は入ってこれないからだ。
全てが炎に包まれ、発火鼠が油断したところで、武器を使って動きを封じる。
武器といっても水鉄砲だ。
ただし、聖水入り。
これを2人とも携えている。
ありったけ撃ちこんでやれば、じゅうぶん倒せると、みつきは言った。
ただし、自分たちが炎に巻かれる前に発火鼠を始末する必要がある。
機を窺いすぎてはならない。
根比べであった。
しばらくして、春人が目だけを落とした。
みつきが、自分の胸の中で表情を変えるのを感じたのだ。
みつきは春人の唇に人差し指を当てて言葉を封じながら
「来る……」
ささやいた。
かろうじて音のしないなまあたたかい風が外に吹いている。
それにまぎれて、やはり足音を立てずにひしひしと歩く何者かの気配を、春人も感じ取っていた。
ポケットの銃に手を伸ばす。
キイイイイ……
礼拝堂の入口の大扉が開いた。
風のせいとも取れる開き方だ。
教会の内部の大気がグウッとうねり、どす黒い妖気になった。
何かが、入ってきたのだ。
「あなくちおしや、うらめしや」
身の毛のよだつ声がした。
言葉のわかる鼠が無理にしゃべったら、こうなるだろうという声だ。
「あなくちおしや、うらめしや」
二度と聞きたくない声が、何度もくりかえされる。
「あなくちおしや、うらめしや」
声は、闇の中を、マリア像のほうに移動していく。
ズゾゾゾゾゾ……
柔らかく湿ったものが、固く乾いたものに押し当てられる音がして
ボウッ
闇に火が灯っていた。
懺悔室の窓からのぞいていた2人は、マリア像がちょうど火あぶりの刑を受けているように足元から燃えてゆくのを見た。
それだけではない。
そのかたわらに、恐ろしく巨大な鼠の顔が、浮かびあがっていたのである。
満面の笑み——表現としては、まさしくそうだった。
が、まるで死面のような、生気のない笑みだ。
笑みであって、笑みでないものを顔に浮かべて、発火鼠はマリアの火刑を見物している。
すぐさまマリアは火柱になって、その火柱も勢いを失い、ついには黒こげの炭人形だけが残った。
完全な闇が帰ってくる。
「おいたわしや、マリア様。かような姿におなりなすったか」
さも悲しそうに言ったのち
「ぎひひひひひっ」
狂おしい笑い声を発した。
そこだけなら、りっぱに獣の咆哮だ。
「おうおう、聞いたぞ、聞いたぞ。知っておるぞ、知っておるぞ。しょうこともなき哀れな野鼠が、つい今しがた言うておったぞ。人間が2人、隠形しておるとな」
2人は固唾を飲んだ。
「さあて、どこにおるのやら。そこにかしこに付け火して、焙り出すがよろしかろうか」
もう、行くしかない。
「だめっ!」
みつきの制止を振りほどき、春人は懺悔室から躍り出ていた。
ひたすら闇、闇、闇である。
「く、くそっ」
春人は、がむしゃらに聖水を撃ちまくった。
が、悲しいまでに手ごたえがない。
広がる闇の中から、それよりなお濃い漆黒の靄が、春人めがけてすっとんでくる。
「危ない!」
みつきの叫びに、すさまじい衝突音が重なった。
春人はてっきり、自分がふっとばされたのだと思った。
違った。
みつきが、自分をかばって、盾になったのだ。
ふっとんだみつきは、したたかに壁にぶつかった。
「エホ……」
壁に背をあずけ、ズルズル沈んでゆく。
意識が消える前に、イチかバチか、賭けるしかない。
見えない闇の中、みつきは白衣の合わせをこじあけた。
「ぐううううう。おのれ、小娘」
発火鼠は、顔を振って悶えていた。
衝突の寸前、みつきの撃った聖水が、顔を捉えていたのだ。
顔の右側が、硫酸をかけられたようにバチバチ鳴っている。
「おのれ、おのれえ」
左側に笑み、右側に怒りの表情でもって、春人とみつきを交互に見比べた。
みつきがすでに気を失い、春人が手に武器らしきを持って立っているのを夜目にとらえると、
「それか、それが得物かあ...」
再度、春人に向かって突進した。
春人は、死の恐怖と、みつきが犠牲になったパニックとで、裏返っていた。
「ひいいいいいっ」
やぶれかぶれに声のするほうに走っていき、頭から突っ込んだのだ。
吐気のする感触に出会っていた。
無限に伸びる、なまあたたかいもの。
痴漢の手に包まれたみたいな……。
妖怪の体というのは、こういうものなのか。
そして、春人と発火鼠のぶつかり合いは、引き分けだった。
正しくは、水滴どうしが結ぼれるように、いっしょになってもんどりうったのである。
理由があった。
さきほど春人がことごとく外した聖水が床をたっぷり濡らし、発火鼠の足裏を焼いた。
これで、速度が大幅に緩んだのだ。
完全な偶然ではあるが。
ゴロリゴロリと転がった末、それでもやはり上になったのは発火鼠であった。
「小僧、小僧おおおおお。小癪な真似を」
「あああああ!」
春人はがむしゃらに手足をばたつかせ、発火鼠を顔と言わず腹と言わず叩いた。
が、これはもはや抵抗の手立てがないことを伝える効果しかなかった。
発火鼠は、焼けただれた顔で嘲笑し
「馬鹿め、なんのこともないわ。わが身を焦がす永遠の怨念、ぬしにもくれてやろうぞ」
グーッと舌を垂らし、春人の顔面に添わせ
ズ……
舐めあげようとした。
奇跡が起こった。
ボトン
さきほど焼かれて炭になったマリア像の頭部がもげて、床に落ちたのだ。
頭部は、サイコロのようにあちこち無軌道に転がったのち、みつきのそばでパカリと割れて止まった。
中はまだ、しっかりと燃えていた。
普段、白衣の胸元で、そのふくらみを支えているものが、赤々とていねいに照らしだされる。
それを見た春人の瞳孔が、ギュンと引き絞られた。
血沸き、肉躍り、骨軋む。
「ギアアアアア!」
ガキン、ゴキン、バキョッ。
体が、いびつに膨れあがる。
目を皿のようにした発火鼠が、鞠のように上へ跳ねた。
春人が、下から蹴りとばしたのだ。
発火鼠は、顔からドシンと落下し、それでもどうにかよつんばいになった。
腹の肉がゴッソリなくなっている。
赤黒い恐竜になった春人は、右の後ろ足の鉤爪でつかみ取った妖怪肉を、サッカーボールのように跳ね上げ、バクリと食いつき、喉をそらして飲みこんだのだった。
「あなくちおしや、うらめしや」
発火鼠の言葉には、これまでで一番、心がこもっていた。
春人は、前足の鉤爪で、自分の頬をつうっと傷つけ、それをグイと見せつけ『ほら、舐めてみろ、得意技だろう?』というしぐさをした。
立っているのが精いっぱいの発火鼠に、春人がジワリとにじり寄る。
ジワリ、またジワリと接近してゆく。
そして、会話よりもなお近い間合になったところで
「きいいっ」
発火鼠が、春人に牙をむいた。
窮鼠猫を噛む——発火鼠が春人の頭部をかみ砕くかと思うタイミングで、口を開けたままピタッと止まった。
口の中の赤い舌に、春人が逆に嚙みついたのである。
妖怪の執念を、太古の視力が上回った。
春人は、くわえたまま冷たい目でパチリとまばたきし、一気に頭を引きぬいた。
ブチンッ
発火鼠は、絶叫のかわりに紫色の液体をボダボダ吐きちらしながら、礼拝堂を縦横無尽に駆けまわった。
体がみるみる縮んでゆく。
普通の鼠になるかという手前で、力尽きてグッタリ倒れた。
鼠ではなくなっていた。
なんと猫の死骸だった。
「自分をあえて下位に置くのが、ルサンチマンの本質なのかもね」
春人の真横で、みつきが言った。
おい もう大丈夫なのか!?
春人がそういう目で見たのを無視しして
「あのさ、激辛だと思うよ。あの舌、怨念の塊みたいなもんだから。もう食べちゃった?」
みつきが言い終えるより早く、ある意味では変身の時以上のすさまじい熱が
全身を覆った。
「ギュギ!?」
「あ、暴れるの待って。これ以上、教会メチャクチャにできないから」
言って、春人に抱きつき、歌うように呪文を唱えた。
視界が光に包まれ、体重が消える。
気づくと春人は、人間の姿であおむけになり、荒い息をしていた。
なじみの天井が見えており、みつきがのぞきこんでいる。
「ふうー、霊手繰の術、2回目。ちょっと慣れてきたかも」
言って、部屋の中をしげしげ見まわした。
壁も床も扉も物も、破壊され、この世のものとは思えない惨状だ。
「でも、教会が守れて、マリア様もきっと喜んでくれるよね!」
心底うれしそうに春人の鼻をつっついた。
春人は、はっきりルサンチマンを感じた。




