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本能寺に開く扉は炎を上げて  作者: 瀬緒 遊
第三部:天下布武
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48 鬼と化け物

 姉川の戦いに勝利はしたが、信長はますます厚く敵に囲まれてしまっていた。


 浅井、朝倉はまだ健在で、六角の残党もいる。近畿では義昭将軍に、三好三人衆。

 石山本願寺の法主顕如(けんにょ)は、全国の本願寺門徒に打倒信長を号令した。本願寺はもとより、長島で、加賀で、信仰に死を恐れない数万人が、信長こそが仏敵ぞと一歩も引かぬ構えで立ち向かってくる。

 そして平安の昔から国家鎮護の道場として人心を集めている日本の信仰と学問の最高峰、比叡山延暦寺が浅井を援助している。


 政綱が訊いた。

「一向衆はこれまでも土地の大名と戦火を上げてきたのじゃ、相手が織田じゃとて同じであろう。しかし問題は叡山じゃ。これが味方についているうちは、浅井と朝倉を片付けることはできぬ。どうやって信長の殿は延暦寺の荒くれ法師どもに手を引かせたのじゃ。その手立てがわかれば、わしらもその後押しができる。それだけを、手短に教えて欲しい」


 クスッ、と麻江が笑った。浩之を見て、あなた知らないの?と言って、

「手を引かせるなんてしないわよ。信長は比叡山を焼いてしまうもの。一堂残らず、一人も逃さずの殲滅よ」


 一瞬、全員が、何を言われたのかわからぬという顔をした。そして、はっと気づいたように息を飲んで、

「まさか!まさか、そんなことを!」

「え、叡山を……、延暦寺を焼き落とす……?」


 浩之も驚いた。比叡山の焼き討ち。言われてみれば聞いたことがあるが、それはこの時代の信長の所業とは覚えていなかった。しかし今この叡山が人々にとってどれほど大きな象徴であるかはよくわかる。


 聞いた男たちが驚きに声を上げる中、久恵は両手で口元を覆って、どきどきと自分の血が脈打つのを耳に聞いた。


 やるかも知れない。信長様なら。

 あのお方は革命の人だ。誰であれ殺さねばならぬ時は殺すお方だ。それが金襴の袈裟の大知識でも、骨の固まらぬ小坊主でも。


 叡山で生臭坊主が女を引き入れたり、荒法師どもが弓矢どころか火器をもてあそんで世の騒動に乗っかるのは責められても仕方なかろうが、専心、国家安泰を願って厳しく務める学侶も当然多数あられる。厨や畑で働く在家の世帯も多い。それにほんの幼児、もしくは生まれてすぐに出家と決められ、叡山で暮らしている幼い者らもどれほどいるだろう。仏の膝元で、それが争いから逃れた場所と信じて。


 怖ろしくて涙があふれた。あのお優しい、《《しろや》》を幸せな猫と言ってくれた信長様を、こんな鬼にしなければ平和とは得られないものなのか。


 驚愕する人たちがその対応を協議し始めたのを置いて、浩之は麻江を誘って外に出た。


「久しぶりだね、十年ぶり?あんたはどこかに行っちゃったと思ってた」

「お久しぶりです」


 変わりはないかの問いが問えぬ、変わらぬと決まっている二人だった。


「秀吉の子は、淀君の産んだ子だけです。あなたがあんな乱暴なことをしなくても、きっとそうなっていたはずです」

「わからないわよ。ここがパラレルワールドじゃないって、あんた保証できるの?違った未来になる世界線だったらどうするの」


 真夏の真昼だった。遮るもののない桑園の丘の上で、蝉がやかましい。

「あなたは、お子さんが二人いたと言っていましたね。その子たちに会うためですか?」

「煙草が欲しいわ。紙巻の」


 浩之の問いを無視する麻江に、かまわず浩之は続けた。

「あなたがそうして、元の世界に帰る希望を無くさないのがすごいと思います。ぼくはもし家族と再会できたとしても、もう元のようにはなれないだろうと思ってしまっています」


 そうかもね、と麻江は短く言った。


 この十年で、久恵には二人の男児が生まれていた。

 その世話をしながら、やはりその子らを愛するようになり、あの子供だった久恵がもう同年代になっていること、これからは老いていくばかりなことを、このごろはよく考える浩之だった。


「四百年か、五百年か、それほど長い間を生きて、親しくなった人がみな老いて死んでいくのを見送って、その間に人を殺したり、殺されるのを傍観したりして……。僕は、自分がどうかなってしまわないかと怖くなります。人間らしく生きていけるだろうかと」


 麻江は浩之よりも長くこの時代にいただけに、そんなことについてももう浩之よりも深い考えに行き着いていたらしい。即座に、軽く笑いもしながら言った。


「まさか、人間らしくなんて無理でしょ。人を亡くすことに慣れていって、そのうち人のことが、犬とか猫みたいな自分よりも寿命の短い別のものみたいに思えて来て……そしたらもうそれは人間とは異質な何かなんじゃない?化け物よ、そんなの」


 と、こんなことを話し出した。

「海に行ったのよ。家族みんなでね。一九五五年、戦争が終わって十年経って、やっとそういうゆとりができてきた頃の話。上の子が六歳、下の子が四歳。とってもかわいい子たちよ。それが溺れたの」


 浩之は、桑の葉をぷちんと摘んで手でもてあそんでる麻江を見つめた。

「私が宿に、タオルだかなんだかの忘れ物を取りに行ってる間にね。二人を助けようとして夫も死んだ。人が溺れ死ぬのって、あっという間よ」

 

 驚いて、悔やみも口にできないでいる浩之に、麻江はぎょっとするほど近くに踏み込んできた。首元に麻江の息がふれた。


「だから私はどうしても《《あの》》一九五五年の夏に行かなきゃいけないのよ。あの事故を防ぐために」


 くるっと振り返って、浩之に背を見せた。


「そしてその夏溺れて死ぬのは私一人。そうして、五百年近く生きた化け物の人生が完結するのよ」

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