47 流産
嫁いでそろそろ十年になるお寧々が、妊娠に間違いないと医者に言われた時の感激はどれほどのものだっただろうか。
十四で嫁に来て、今年で二十三。体は若く、頑強といってよいほど健康だったが、これまで子が出来なかった。もしや自分か夫の体に不備があるのかと案じていたことから一転、有頂天になるほど神にも仏にも感謝した。
この上は無事の出産を願って子宝安産に霊験あらたかという社に参篭せんと、こじんまりとした輿行列で山道を進むところを、暴れ狂う二頭の馬に襲われた。
馬は酒か毒でも飲まされて上から突き落とされたものか、異常なほど興奮して口から泡をふいて山肌を真っ逆さまに駆け下りて来て、お寧々の行列に真横からぶつかった。
のどかな目的の一行でもあったため護衛なども最低限で、槍を立てていた二人が輿を守ろうとしてまず蹴り飛ばされて、あとは蹴ったり踏んだり噛んだりする二頭の馬の前に、死人こそ出なかったが何人かの怪我人を出した。
いや、死人は一人いた。
お寧々の胎にあった子がこれで流れてしまった。
輿は《《どん》》と横に倒されたきりで、別段山道を転がり落ちて行ったというほどの大袈裟ではなかったが、お寧々はこの襲撃に打ちのめされた。
この行列を襲うとなれば、夫の出世をねたんだ者とは考えにくい。自分個人の不幸を願った者がいたに違いないと思うとそれが恐ろしかった。
普段は落ち着いた気丈な人だったが、妊娠のために精神的に不安定でもあった。夫の藤吉郎が姉川の戦いの後から横山城を任されて屋敷を留守にしており、それが心細くもあった。
藤吉郎の母をはじめ家族は懸命に励ましたが、お寧々は泣いたり怯えたりで夜も眠れぬようになって数日、思わぬ大量の出血を見て、医師は気の毒そうに子は流れたと告げた。
政綱は手下の一部を裂いてこの件を調査した。個人的に藤吉郎とは打ち解けた付き合いだったし、下手人の究明は家中取り締まりの面から見ても必要だった。
やがて、暴れ馬は二頭とも貸し馬だったこと、借りに来たのは女だったこと、銭を払ったこと、その払った銭はこれだと出されたものを調べていくうちに、麻江に行き着いたのだった。が、そうと分かって政綱はちょっと困惑した。
これが先の世から来た者とは知れているし、美濃御前の腹心でもあるので、おっとり囲んで縄を掛けることもできかねた。ために日ごろ付き合いのあった久恵への訪問の誘いを罠に手下を使わず捕らえることにしたのだが、実は久恵は麻江についてはこれまで知らされずにいたので、そうと聞かされてびっくりした。
久恵に黙っていたのは、女同志の個人的な仲を壊すこともあるまいとの、浩之、政綱、和尚の三人の気遣いだったが、そのため久恵は変わらぬ自然な態度で麻江に接してこれた。それが、これは未来の人物のことなど、浩之のことも含め、まったく知らされていない人間と麻江に思い込ませることになっていた。
その麻江が言う。
「秀吉、いや、藤吉郎とお寧々の間には子供は生まれていない。そういう歴史なの。生まれちゃったら大変なことになるよ、日本の歴史そのものが根本から変わっちゃうかもしれない」
確かに目覚ましい出世をしている男だが、あの藤吉郎の子孫ひとりでそのような大事に、の疑問は、当然菊王丸に次の質問をさせた。
「では藤吉郎どのは、歴史上の重要人物ということか?」
そう《《すらり》》と聞いた菊王丸に、他は批判めいた沈黙に沈んだ。
「我らは、これから先に起こることはできるだけ知らぬ方が良い。そうした不自然は、わしら自身の負担になるじゃろうて」
やがて諭すようにそう言った和尚を馬鹿にするように、麻江が笑った。
「そうでしょ、知りたくないんでしょう?でもお久、教えてあげましょうか。例えば、あんたの大好きな信長の殿が、どこでどんな死に方をするかとか」
久恵はビクと肩を震わせたが、それとほとんど同時に、これまで一声も出していなかった浩之が突然強い口調で切り出した。
「やめなさい麻江さん。ここにいる人たちは、あなたのその、わけのわからない腹立ちの八つ当たりをしていい人たちじゃありません」
ほんの少しにらみ合って、フン、と不貞腐れたように麻江は目をそらした。
「じゃこれだけ教えてあげるよ。あの藤吉郎って男は怒らせないほうがいい。調子よくて陽気なように見えるけど、残酷で冷たくて、遠慮がいらないとなるとどんなことでもやる人間だよ」
それはよい、と和尚が皮肉を口調に込めて言った。
「それで麻江どのはわれらの言いなりと決まった。この件の咎人はこれこの女ぞと、そうした人物に告げ口されてしまっては困るであろうからの」
さっと麻江は顔色を変えた。この人が良くて保守的な者らは、未来からの人物の存在をあくまで隠そうとして、この件もうやむやに終わらせてしまうだろうと高をくくっていたのだ。
しかしたしかに、藤吉郎がこれを知れば、理由の吟味など二の次にして麻江を殺してしまうだろうと思われた。
「仕方がない、あんたたちに付き合ってやるわ。あんたたちのその、余計なことを聞くのは怖いし、歴史を動かすようなでかい責任も持ちたくないから、史実にちょっぴり乗っかって安全な方に寄っかかって、善行したつもりのいい気分でいたいっていう、都合のいいわがままにさ」
もうよい、と、和尚がパンと音高く手を叩いた。
「わしらが願うところは戦乱の終結、それだけじゃ。それが史実に正しいのなら、それを後押しすることは今この世を生きる我らの務め。そこでおぬしらに聞かねばならぬことがある」




