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本能寺に開く扉は炎を上げて  作者: 瀬緒 遊
第三部:天下布武
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45 諜者

 菊王丸は今川の諸将が民百姓のことを言うのをほとんど聞いたことがなかった。

 義元も尼御台も、先代氏親も、実際に植え耕す領民を見舞ったことなど一度もなく、今思えば、もしかしたら思いやったことすらなかったのではないだろうか。


 今川家が上洛して政権をとることは崇高な目標ではあっただろうし、万民を救わんという気概ももちろんあっただろう。しかしそれも、ふんわりとした心象で、実際に土を相手に汗する者らの苦難を知りそれを慈しむといった香りが今川に漂っていたことはなかったように思われる。


 そうした批判が菊王丸に生まれたのは、尾張の萬松寺、大雲和尚のもとで桶狭間で受けた怪我を養っていたころだった。


 三河からの離散の者(土地を捨てて逃げて来た百姓)が、尾張の東には多くいた。それらの者の口から伝わって来た今川の評判の悪さに、顔が赤らむ思いがした。


 三河を占領する今川の下っ端は好き放題に百姓家に押し入っては米穀から娘までを奪って咎められもせず、三河兵は絶えず戦に駆り出されるため男はどんどん減って行き、女子供や老人の働きが追い付かないのに税の取り立ては過酷で、桶狭間を機に今川が三河を撤退したときには人々が隠していた米を出して餅をついて祝ったという。

 こうした今川の統率の杜撰ずさんや、怨嗟の的になる統治も、今川館では思いもせぬことだった。


 諜者として今川館に潜入していた政綱に対しては腹を立てていたが、政綱に手をついて謝された時、菊王丸の怒りはなにか知らぬ悲しみに変わって溶けてしまった。


「しかたのないことでありましょう。お互いに……信じるところのためにやったこと。武士とはそうであらねばならぬものでしょう」


 一度は殺してやろうとまで仇に思った政綱をそう言って許してしまったのは、これまでの自分を取り巻いていた世界の狭さに気づいて、菊王丸がすでにそれに降参してしまっていたからかも知れなかった。


 その菊王丸に、政綱は時代が待望している天下人は信長であり、今川ではあり得ないと説いた。


 今川が上洛に成功したとしても、これまでとあまり変わらぬ世の中が続くだけだ。寺社勢力と、三好や松永のような近畿の梟雄きょうゆうらに、次代氏真(うじざね)がとって食われるのが目に見えている。


 しかし信長は実力あらば出自に関わらず登用し、織田家一族が将軍家になろうなどとは考えていない。家のためでも領地のためでも、どこかの一部の人々のためでもなく万民のために戦っているのは信長だけだと。


 菊王丸は注意深く信長を観察した。

 夜分には少数の供を連れて傾奇者めいた着流しで踊りの輪に入って行き、そこの人々とさざめきながら団子などを食い、市の立つ日には店を冷やかして歩き、そうかと思えば名馬は見逃さない信長を見た。流通のために関所を撤廃したり、米や麦の実りを考えて戦を計画することを知った。


 こうしたことは、今川にはない風だった。

 父が討ち死にしたと聞かされても涙を見せなかった菊王丸だったが、馬で行く信長が殿さま、殿さまと田畑の百姓に呼びかけられ、差し出された瓜を手に取りそれをかじりながら行くのを見て、深くかぶっていた傘をとって空を見上げた。


 なんて青い空。なんて白い雲。つぅっと一筋、涙が流れた。

 お屋形様、と、空を仰いだまま心で旧主に語りかけた。

 駿河の百姓の誰があなたに瓜などもいでくれたでしょうか。世間は広うございましたぞ。わたしは、これまで考えもしなかった生き方をしようと思います。お許しくださいませ。


 刀傷が癒えた頃、菊王丸は政綱の前に手をついた。

「織田のためでも、梁田のためでもありませぬ。平和のため、民草が戦に泣く世を終わらせるため、家も名もないただひとりの菊王丸として働く気になりました。さしあたっては、あなたの役にたちましょう。お使いくだされ」


 それからの菊王丸は普段は萬松寺の寺僧として暮らし、必要な時に旅に出る諜者となった。

 この日は姉川戦のあとの浅井領民の声を集めたのだったが、その報告のために向かっているのは岐阜の梁田屋敷だった。

 

 斎藤家が美濃を治めていた時には稲葉山城と呼ばれていた城は、今は名を岐阜城と改められて、その城下町はかつて以上の殷賑だった。

 織田家の家臣の多くも尾張から岐阜へと屋敷を移していたが、梁田も、久恵の嫁いだ金森も、武家屋敷が立ち並ぶ一角に屋敷を構え、近所付き合いの親戚付き合いを交わしていた。


 着くと、知っている番の者が、久恵が訪ねて来て、政綱とともに厩のあたりにいると教えてくれた。

「どなたかもうお一方、お客がいらしったようじゃ」


 客がいるなら出直すか、待つか、と少し迷ったが、久恵と一緒の者なら気軽な客だろう、きっとそちらを切り上げて報告を聞くだろうと思い、菊王丸はそのまま厩に向かった。と、思わぬ怒声が聞こえて来てぴたりと足を止めた。


「兄さま、お許しくださいませ、このお方は久恵もさんざんお世話になった方……!」

「お前は下がっておれ!これはおおやけの取り調べ、御前ごぜんの侍女であろうと吟味するがわしの役務じゃ」


 見ると、女が一人地べたに座らされて、政綱に襟髪をつかまれている。小綺麗な身なりだったが、なんだろうと思われるほどふてぶてしい態度の女だった。

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