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本能寺に開く扉は炎を上げて  作者: 瀬緒 遊
第三部:天下布武
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43 近江の将

「なに、討ち漏らしたと?」

 思わず床几から腰を浮かせて、長政は叫んだ。が、すぐに座りなおした。


「いや、算を乱して散り散りになったのを見失っただけじゃろう。よく確認せよと申し送れ」


 信長率いる遠征軍は、大きいだけに旗本だけでなく客将も幾人か、少なくない兵を率いて加わっていた。

 池田勝正も松永弾正も、いったんは降伏してその家臣とはなっているが、腹では尾張の織田などに京を制圧されて面白く思っているはずがない。この機会に信長軍の内部から火の手を上げて、ただでさえ困難な撤退をさらに混乱させるだろう。


 それを、浅井、朝倉、六角の、山岳の地理を熟知した兵らが前から後ろから攻め立てているのだ。満足に眠るどころか、立ち止まることもできぬ行軍に疲労し、討ち取られるだけでなく山道を滑落するものも多かろうし、逃亡兵も降人も大勢出るはずだ。


 そう踏んでいた長政が、まさかと狼狽したのは、主将信長を討ち損じたばかりでなく、その殿しんがりの一隊が全滅もせずに帰京したと確認された時だった。まさか信長の軍に、そのような整然とした軍律と統率と、なにより団結とがあったとは。


 朝倉家への義理が信長背信の大きな理由ではあるが、もちろん理由はそれひとつではない。


 義昭公からの使者に会い、すでに六角と朝倉だけでなく、伊勢長島や石山本願寺、将軍家とは敵対している三好三人衆までが呼応して決起する手はずが整っており、しかも甲斐の武田にまで誘いをかけていると言うのを聞いた時だ。信長とはこれほど敵が多かったのか、織田との同盟は利よりも負荷が重すぎたかと反問し始めたのがそのひとつ。

 

 そしてもうひとつの理由は琵琶湖にあった。

 日本国のほぼ中心に位置し四方をつなぐ大水運である。日本海の海産物を、もしくははるか陸奥の国(今の青森)からこっち、東山道を通ってくる本州内陸部からのすべての物資を京へ送る、日本の物資輸送の心臓である。これを抑えるものは京の都への袋の口を抑えるのも同じだった。

   

 それゆえ、古来から琵琶湖と共に生きて来たこのあたりの人々は、戦のたびに作った作物を焼かれ奪われする人間ほど切迫には戦乱の終結を望んではいなかった。むしろ戦争は、兵糧や武器運搬のために水運を生業とする士族を潤した。


 そもそもこの同盟に不同意だった国人、土豪らも少なくなく、この者らは、越前には朝倉に頑張っていてもらわねばならぬ、なぜならそのすぐ隣は加賀の国、一向宗徒の国だと長政を説いた。

 もし信長が越前を制覇したら次は当然加賀侵攻、あの命知らずの一向一揆衆を相手にした戦に行けと近江の兵が必ず命じられることになる。信仰に凝り固まったあの者らを相手の、血みどろのいつ終わるとも知れない泥試合に駆り出されるぞと。


 これがもうひとつの、そして決定的な理由と重なってくる。そう、そもそも信長のいう戦国の終結とは何を意味するのか。

 それは信長を頭にした体制を敷いて、信長に従うということではないか?だれがそんなことを望もうか。

 足利将軍も、その幕臣の池田にしても、また反骨の松永にしても、自領にしがみつく徳川にしても思いは同じだろうと思われた。

 戦国の終結などという聞こえの良い大義名分を掛け声にしているだけのこと、誰もそんなものを求めてもおらず、本気にもしてはいないと長政は判断した。


 これは一言で言えば、長政の時流の読み違いだった。世がすでに戦による荒廃に疲れ果て、盟主を待望しているとは読めなかったのだ。

 

 京を支配下においた信長と結んだ際の有利を考えて結んだ同盟であったが、こうして長政はその離反を決心した。


 そして信長を首にせんと攻めてみて、信長が諸将から意外な支持と協力を得ているのをみて首をかしげる長政の目の前に今、怒れる信長が立っている。


 そういえばひとりだけ、はじめから信長の掛け声を真に受けていた人間がいた、と、長政は奥に渡って行った。 

 そこでは変わらず落ち着いた様子のお市が、手をついてこの夫を迎えた。


 座って、お市が手ずから淹れた茶を手にして長政は言ってみた。

「そなたの兄者は無事に京都にお着きしたそうな」

 

 もう長政の離反を聞かされていたお市は黙ったまま、そうですか、というような顔をしてその夫を見返した。

 その顔色を見て、静かに長政は言った。

「案じてはおらなんだか」

 

 お市は変わらず落ち着いて、

「兄のことは案じておりませぬ」

「では何を」


 そう訊かれてお市は長政から目をそらし、どうしようもなく悲しいように答えた。

「腹にあるややのことでございます」

 

 長政はその意をわかったように、思いやり深い眼でお市を見やった。 

 この時はじめてお市の目に、感情の波が揺れて見えた。 

 この人は、私のことを愛してくれている。私がこの人に対してもう幻滅と失望しか抱いていないことを承知して、なお愛してくれている。そして私の胎にはこの人の子が育っている。なんて悲しく、救いのないことだろう。


「生まれてくるのが女でありますように。どうぞ男の子ではありませんようにと願っております」

 真実しか口にできない気がして、思い切ってそう言ったお市に、なぜかと長政がきいた。先に生まれたのは女、今度は嫡男を望むのが本当だ。


「男なら、きっと兄に殺されまする」


 こらえかねたように涙をこぼした妻の口からそう聞いた長政は、ひと呼吸おいてその意味したところを理解すると、たまらず手にしていた茶碗を柱に投げつけた。侍女の悲鳴にかぶせて、それは高い澄んだ音を立てて砕け散った。


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