42 金ヶ崎から
山城国(今の京都南部)と若狭(福井)の堺にあたるその場所では、いくつもの寺や城から動員された小者らで戦場のような喧噪だった。
あちこちで炊き出しの粥や汁の大鍋が煮えており、襷掛けの女などが飢え渇いて帰還した兵らに忙しくこれを振舞っていたし、あちらでは大きな水桶や飼葉の山が、無事に主人らを連れ帰った殊勲の馬らを労わっていた。医者がいる、その手伝いに傷を洗ったり縛ったりの者がいる。帰還者や死没者の記録を取る者がいる。
ここは金ケ崎からの軍兵を迎えとる織田の一陣だった。帰還者はみな疲労の極みにあり、もちろん負傷した者も多い。
「まだまだじゃ、殿の部隊が戻ってくるまでにはまだ数日はかかるじゃろう」
渡された柄杓の水を口に含んで、プーっと霧のように吐き出すと、金森長近はやっと人心地ついたようにそう言った。
これもここ数日の撤退戦からの生存者の一人であったが、全身土埃でないところなど一寸もなかった。渇いた血がそこここにこびりつき、足は履いていたものが擦り切れてほとんど裸足、薄汚く髭の生えた顔には疲労に落ちくぼんだ目ばかりがぎらぎらと光り、その苦闘をさぞかしと思わせた。
「殿は明智殿と、徳川殿、池田勝正殿に、藤吉郎と聞いたが」
話している相手は梁田政綱。長親にとっては義理の兄であり朋友でもあるが、この場では何よりも織田の諜報部隊の一将であった。
「おお、金ケ崎城に残り、お味方が引くまで支え切ったわ。敵をあしらいながらの退却をはじめたらしいが苦しかろう。わしもひと眠りしたら、退却の援助に向かう」
そう言う長親に、政綱はそっと口を寄せて耳打ちした。
「今回のこれは近江の浅井、朝倉、六角の話ではない。義昭将軍が糸を引いている。本願寺にも、叡山にも、甲斐にもじゃ」
聞いた長親はその眼に恐怖に近い驚きを見せ、政綱を見返した。
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信長がほんの十数騎の供に守られて京に到着したのはこの二日前だった。
これは途中で近江西部の土豪朽木元綱に助けられたので、後からの帰還者ほどやつれた様相にもなっていなかったが、それでも命からがらの旅だった。
政綱は今川家に潜入する際に指を欠損したため、槍働きから諜報活動へと転身していたが、ちょうどこの頃は在京していた。
京の政権の奪還を狙う三好三人衆や、信長から殿中御掟などという行動の制限を課され憤然としている義昭将軍などの不穏な動きを見張っていたのだが、急遽、越前、近江での浅井の背信の報せを受けて信長を待ち受けていた。
風呂を浴び、着流しのまま湯漬けを掻っ込む信長の前に伺候した政綱は、手短に報告したが信長は驚かなかった。
「義昭公な、そうであろうな。あれは日本国の膿を出す腫物みたいなお人じゃ。あれがおれば、膿もそこに集まってくれて始末がするのに手間がかからぬというものじゃ」
足利将軍家には、もう何代も前から実権を保つ力が失われていた。
現将軍義昭公は、もともとは将軍職の相続権もなく寺に入れられていた人だった。しかしその兄の十三代将軍・足利義輝が三好三人衆に殺害されたのを機に、松永に幽閉されたり、そこから脱走して各地の有力者を頼って亡命したりしたあげく、しばらく越前の朝倉義景の庇護をうけた末に信長に渡りをつけてきた。
つまり、自分で動かせる兵などほとんど持っていないが、将軍家という肩書と、放浪中にあちこちで作った縁故とを持ち、何者かを扇動する技術は充分身に付けたという人物だった。
信長のおかげで上洛でき、幕府を再興し、信長の建造した二条城に住み、箸から沓まで信長の世話になっているこの将軍が、密書をあちこちに出して打倒信長を画策しているという。
さぞや怒ろうかと思っていた政綱は、信長の恬淡とした様子が少し以外だった。これまでの信長は怒るときには雷のように怒る人であるのに、この人は扱う軍も大きくなり、使う人も多くなって、感情よりも理性が勝つようになったのだろうか。
「明日から数日は京で過ごす。将軍に謁見したり、御所の改修作業を見舞って発破をかけたりして、これこの通り信長は健在ぞと京雀らに見せてやらねばならぬ」
ここで動揺を見せないということが、何より肝要な京の情勢だった。すぐにも転戦というなら、そう進言せねばと政綱も思っていた。
「それからは」
頷いて、政綱はそう訊いた。各地でこれから起きて来る反信長の動きと団結が固まらないうちに、どこか一か所まず叩いておかねばならない。その後の動きをくじくためにも、信長軍の精強を喧伝させるような戦をして勝ってみせることが必要だった。
「いったんは岐阜」
信長は答えた。そして言った。
「それから浅井じゃ」
そう言った信長を見て、政綱は自分の顔色が変わったのを見られないように平伏した。ぞっとして、冷や汗が脇から流れた。
怒っていないのではなかった。怒り方が変わったのだ。落雷のような怒りではなく、氷のような冷たく確固とした怒りで長政の裏切りを怒っている。
こうした信長はこれまでとは比較にならぬほど怖く感じられ、政綱は背を氷でなでられたように慄然とした。




