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本能寺に開く扉は炎を上げて  作者: 瀬緒 遊
第三部:天下布武
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40 手紙

 お市が居間に戻ると、そろそろ満で一歳になる長女のお茶々が目を覚ましていた。母を見てすぐ手を伸ばしてきたお茶々を抱きとると、お市にふとある考えが浮かんだ。

 

「お茶々が腹にあった時、岐阜の美濃みの御前ごぜん肌油はだゆを送って来てくださったが、あれはもう切れておったな」


 いえ、まだあったような、とお芳が応えた。牛の乳から作るというその油は肌にも髪にもよいが、妊娠中にむくんだお市の手脚を揉むのにも重宝していた。


「少しやぐらに上がっただけで、もう脚がだるくてたまらぬ。浮腫みがひどい。幾分か残ってあるくらいでは心もとない、あの油を急ぎ送ってたもれと岐阜に手紙を書こう」


 そう言って、お芳が手早く用意した紙に向かって筆をとっていたところに、長政が来ると先ぶれがあった。昼日中ひるひなかに長政が妻子の部屋をたずねるのは、ついぞなかったことだった。


「よいのじゃ、よいのじゃ。ちょいとお茶々の顔を見とうなって寄っただけじゃ、かまうな」

 

 気さくにそんなことを言いながら部屋にやっていたこの大男が浅井長政だ。

 父久政(ひさまさ)の代に六角ろっかく家に臣従した浅井家を、彼が若干十六歳にして野良田のらだの戦いに大勝し再び独立させたのは、くしくも桶狭間の戦いと同年の永禄三年(1560)。戦上手なだけでなく義理堅く情に厚いと、若年ながら浅井家中では圧倒的な信望を得ている当主だった。


 かしこまって迎えるお市にも、体の具合は、とその身重みおもを気遣う言葉をかけた。が、お市が手紙を書いていたと聞くと、用心ぶかく抑えた警戒の色を眉のあたりに漂わせ、書き物机の上に目をやった。お市はわざとそれには気づかぬ声で、


「岐阜に、按摩あんまに使う油の催促に出す手紙です。ほほほほ……、美濃御前も、嫁に行ってもお市の図々しさは変わらぬと苦笑いなさるでしょう」


 どれ、と手を出すと、お市は屈託なく、たった今書いたその手紙を夫に手渡して見せた。たしかに油の催促と、お茶々の様子、春の琵琶湖の眺めの美しさなどを書いただけの手紙だった。


 お市はそれを長政の目の前で折りたたみ、ふと気づいたように手を止めて、催促をして置いて文箱が空では、いくら実家に対しても体裁が悪いとつぶやき、さっきまでお茶々に折って遊ばせていた折り紙の細工をいくつか入れた。


 折り紙などただのようなものだが賑やかしにはなるし、子の成長をいくらかでも伝えることができるだろうと言いながら、お市はその文箱を色美しい紐でくくって閉じると、誰かに急ぎ運ばせてほしいと夫に手渡した。


 それを手にして部屋を出た長政は、お市はまだ何も気づいてないようだとほっと安堵の息をついた。いずれはこの妻も、必ず知ることになるのではあるが。


 同じころ、部屋ではお市が、長政の織田家への背信をもう確信していた。岐阜へ送ったあの手紙、どうか美濃御前に意図が伝わりますようにと祈りながら。


***************************************


 小谷から岐阜まで、早馬を使えば半日かからぬ距離だった。その日のうちにお市からの文箱を手にした美濃御前は、はて、と首をかしげた。

 油なら、どう使ったとて先に送ったものがまだ充分あるはずだ。壺を割りでもしたのだろうか。


 若狭侵攻と見せかけての越前攻めは、もう明らかになっている頃だ。

 信長が三万からの大軍を引っ提げているからには、すでにいくつかの城を落としているかもしれぬ。二年前の上洛戦では一晩で箕作みのつくり城を落とし、近江の名族六角氏を追い払いもした信長だ。酒色に溺れ足利将軍に頼られながらも上洛を試みようともしなかった朝倉義景ごとき、降すには数日とかかるまい。


 とは思いながらも、それも何の支障もなければの話、と美濃御前の眉は晴れなかった。御前は、この頃の信長ほどたやすく人を信じることはなかった。

 日本海に近い越前まで攻め込んで、その後ろを襲われての山岳戦になっては、地理に暗い信長が圧倒的に不利であった。近江から越前にかけてのあたりには、まだ六角の残党がいる。そして朝倉には攻めてくれるなと再三言っていた浅井がいる。

 

 そうした不安を持っている美濃御前の手に届いた、浅井の本拠地小谷からの文箱だった。何も重要なことは書かれていないが、お市に限って、意味のない手紙などを送ってくるとも思われない。

 しかし何度読んでも、あの油を早く送ってほしい、お茶々の成長が早い、春の小谷は変容が早いなどとしか書いていない。早い?


 早いということばを使いすぎてはいないか、と美濃御前は気づいた。そして、手紙にばかり気をとられていたと、かさかさと音をたてて文箱に詰められた折り紙細工を手に取ってみた。鶴や箱などに交じって、あの空を飛ぶものが入っているのを見たとたん、はっと気づいた。飛んででも行かねばならぬ、迅速な行動が必要ということか?


「誰か、誰かおらぬか!留守役の……留守役の福富どのをここに!ただちに!」

 高く響いた美濃御前の声に応えて、侍女が小走りで去って行った。


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