39 お市の方
確かにとても美しいお人だ、とお芳はその後姿を見やって思う。
尾張一、いや三国一の佳人と前評判も高くやってきたこの人の嫁入り衣装の姿は、たしかにこれは、と浅井家中の者らを感嘆させたものだった。
でも「あのお方はどのような?」と訊かれるたびにお芳は、はた、と戸惑ってしまう。それはおきれいな方で、と答えるには、お市の方は美貌以上のなにものかを持っていた。
お市の方は、お芳がこれまで知っているどの女とも違っていた。
これまで浅井家に生まれた女や、浅井に嫁いできた女たちは、どれも婚家や実家の無事のために心を砕き、その二家の間で争いが起こらぬようにとはらはらしながら、男たちの思惑に気を揉みながら生きてきた。おそらく浅井に限らず、この時代の武家の女はみなこうしたものとお芳は思っていた。
それが織田信長の妹、お市の方は違った。
織田に反すれば浅井は滅ぶぞと、夫であり浅井家当主の長政を脅す。信長は恐ろしいぞ、裏切るまいぞ、と。
女も美しくあれば、こうも男に強気の僭越ができるものかと当初お芳は驚いたが、今はもう驚きもしない。何か、ただの無遠慮や臆面のなさだけではない、真剣なものがお市をそう言わせているらしいことに気が付いてきている。が、それが何かがまだわからなかった。
そうしたことに思いを馳せている侍女を後ろに従えて、そのお市の方は眼下遠くの輝く湖面を眺めているようだった。場所は小谷山の頂上近く、琵琶湖を一望する小谷城の本丸のやぐらである。お市の方は、膨らみ始めた腹を打掛で隠すようにして立っていた。
小谷城は、小谷山(伊部山)からその尾根や谷へと、素直に南北に細長く築かれた山城だった。
一番上は城主長政の居る本丸。その下に中の丸、京極曲輪、そして隠居の久政(長政の父)の居る小丸と続き、それに隣接して小丸を守る赤尾曲輪とで構成されている。曲輪が互いに補い合う、強固な作りだった。
お市の方は、顎をやや上げて遠くを見ているふうの姿勢で立っていたが、実は目線だけを下に、さっきからしげしげと出入りしている伝達の早馬を気にしていた。
なんだろう。何事か起こったようだ。
気になるが、後ろに控えている侍女のお芳がそろそろ部屋へ戻れと言う頃だ。これはまめまめしく働いてくれるが、それでも浅井家からつけられている侍女なだけに、なんらかの変事があったとしたらそれをお市に悟らせまいとするはずだ。
旗を立てた一騎がまた駆け込んできたのを見たのを最後に、お市はくるりと振り向いて、晴れ晴れとした笑顔を作って言った。
「ああ、琵琶湖は春が一番美しいの。いつまでもこうして眺めていたいものじゃ」
お芳もそれに応えて微笑んで、
「琵琶湖は春も、夏も、秋も美しうございます。陽が差す日なれば冬にでも……しかし今日はまだ肌寒うございます。お腹のややにもさわりましょうほどに、そろそろお部屋にお戻りくださいませ」
素直にそれに従って、ほほほと軽い笑い声まで立てて歩きながら、実はお市の胸はどきどきと騒いで落ち着かなかった。
最後に入って来た伝令の馬が立てていたのは、確かに隅立て四つ目の紋を入れた旗……六角家の使者だった。なぜだ?おかしい。
六角家は長らく浅井氏と敵対していた南近江の名家だが、二年前に信長の上洛軍と戦って破れ、ずっと南の甲賀郡へと追い落とされて、もうこのあたりには拠点もないはずだった。
それでなくても六角は長政の祖父の代からの宿敵で、これに対抗するために協定を結んだ越前の朝倉家には今も頭が上がらないという浅井家だ。なぜこの、山の頂上に位置する本丸にまで、今は落ちぶれたかつての敵の六角家の伝令を通しているのだろう。なにかよっぽどの……。
そこまで考えたお市は、自分の顔色が変わるのをお芳に見られまいと、歩みをやや早めた。
兄の信長が、若狭(今の福井県)の武藤氏を攻めると大軍を動かしているところだった。若狭であれば、とすんなり領地を通した浅井家だったが、その際にも家中ではとかくの口がやかましかった。
義昭将軍を擁して上洛を果たしてからこっち、織田殿の厚かましさはどうであろう。義昭公のお名を使って、朝倉義景殿に、指図がましく上洛せよと言い送っておるそうな。そしてそれに応じぬ朝倉に対して一戦も辞せぬなどと。何様になった気でおるのやら。
浅井は織田と同盟を結ぶと決まった時に、とくに義理のある越前には侵攻してくれるなと念を押していたという。しかしお市ははじめからこれを危うく思っていた。天下布武を志す兄信長なれば、朝倉に限らず従わぬものは倒しに行くはずだ。
もし、この若狭侵攻が実は口実で、信長は本当は越前の朝倉を攻めているのだったら?それを六角の残党が報せに来たのだったとしたら……長政はどうするだろうか、と、お市は忙しく思案した。唇には、そうとはとても見えぬ機嫌よさげな微笑みを浮かべて。




