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本能寺に開く扉は炎を上げて  作者: 瀬緒 遊
外伝その一:今巴の姫と信長様
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今巴の姫と信長様:後

 久恵は額に砂粒をいっぱいつけた顔を上げた。


「信長様、この久恵に一夜のおしをお申し付けくださいませ。さあればこの久恵、どのような宿無し公卿のとぎを申しつけられようとも、産んだ子は殿の子と信じて育てて生きてまいれます。甲斐性かいしょうなしのどじょうひげさまのお子なぞは、まっぴらごめんでござります」


 供の二人も信長も、なんだかわからぬ顔をした。


「あ、あの、わたしから申し上げます」

 後ろから浩之がしどろもどろに説明すると、まず供の二人が顔を見合わせて、くっと笑いをみ殺した。


 と、ほとんど同時に信長が自分の口元を抑えて馬の首にうつ伏した。その動作があまり急だったので供の二人はドキと緊張したが、見ると信長は肩を震わせている。


「殿、どうなされました。急にお加減でもお悪く……?」


 近侍のもう一人、これも赤母衣あかほろのひとり金森かなもり長近ながちかが眉を憂慮に寄せてさっと近寄ると、信長は突然顔を仰向けて、喉の奥まで見えるような大笑いだった。


 一通り笑うと、笑い涙のにじんだ目元をぬぐって、足元で小さく口を開けたまま信長を仰ぐ久恵を見下ろした。


「悪く思うな、お久よ、おまえの必死の願い、決して馬鹿にしたものではない。ものではないが……」

 またくつくつと止まらぬ笑いを笑って、供の二人に向かって言った。


「甲斐性なしのどじょう髭とはまたよく言ったものじゃのう。今後あの者らの髭を見るたび、わしは笑いが止まらず苦しい思いをする事になろうぞな」


 もう久恵は真っ赤になってうなだれている。

 笑われてみれば、実際に父にも母にも伽に出よと命じられてもいないのに、下人げにんどもの口さがない噂を聞きかじって、早とちりに息巻いてしまった自分が滑稽にも阿呆にも見えることに気が付いた。しかも場所もあろうに道端で、女の方から殿のお添い寝を願って腹をかかえて笑い飛ばされるとは。この恥の上はこの場で本当に切り捨ててもらわねばと久恵は唇を噛んだ。


 自分までいたたまれない思いでひたすら土下座の額を地につけていた浩之の耳に、これは同じ人物の声かとつい顔を上げて見てしまったほど親しみを感じさせる、温かい声音こわねが聞こえた。


「笑いすぎて斬る気も失せたが、お久の願い、これはかなわぬ。なぜならばおまえは何者かのたねだけもろうて、親元でててなしを育てる女子おなごにないからじゃ」


 涙をいっぱいにためた瞳で、はっと久恵が顔を上げた。


「おまえは相応の家に嫁入って、奥の一切取り仕切り、自分の子も側女そばめの子もみなおのれの子として育て上げよ。公卿の旅寝の伽になど出す気であれば、わしが政忠を叱ってやるわ。しかし、やれやれ、あやつにそもそもそんな気があったかどうか」


 そう言い捨てると信長は馬首をめぐらせて、またからからと笑い声を響かせて馬を歩ませて去って行った。


「久恵さん……」

 立ち上がって、まだ地べたにぺたんと座り込んでいる久恵に浩之は手を差し出した。


「あなたがあこがれていらっしゃる信長様、今日はぼくも惚れてしまいました。それからあなたのことも、今日は惚れ直してしまいました。おかわいらしくて、ひたむきな方だと思っていましたがそれだけじゃなく、あなたは簡単に身投げなどする意気地なしではありませんでした」


 久恵は浩之に手を取られて立ち上がった。

「当たりまえじゃ。戦国の女ぞ」


 つないでいた馬のもとまで戻りに歩いている間、久恵は浩之に言うでもなくこう漏らした。

「信長様は、あの方は、誰とも違う。どうにもならぬ思いでいる者の胸に、壁に窓を開けたように新しい風を入れてくださる」


 新しい風。そうかもしれないと浩之も思った。


「これだから、兄さまもあの方のために尽くしていらっしゃる。信長様はああして闊達にしておられるが、苦しい思いをしておられるはずじゃ」


 信長の後見となっていた美濃の道三公が息子の義龍に討たれてから、同腹の弟信行がその母土田御前にも推されて信長に対立し、今年弘治二年(1556)には稲生の戦いにまで発展していた。


 浩之はと言えば、もうこちらの時代に来てから十年近くもの年月を過ごしてしまっていた。


 毎晩眠る前に決まって「明日目が覚めるのはあの部屋のあのベッドの上で、奈都美の淹れるコーヒーの香りがありますように」と祈っているが、ほんの時たま、ひどく疲れた日や、政綱の作戦の支援に集中している時などはその祈りも祈らぬうちに眠りに落ちることもあるようになった。


 未来に帰れるあてはまったく見つからず、朧月夜おぼろづきよを歌っていた女性についても、政綱の懸命な調査にも関わらずひとつの手がかりも得られなかった。


 その間、浩之の絶望的な孤独を支え続けてくれたのは大雲和尚と梁田兄妹であったが、特に久恵との親しみは格別だった。人は何者かを愛さずには生きていくことができないものだと、骨身に染みるように知ってしまった。


 もし今、もといた時代に帰れたとして、赤ん坊だった息子が十一歳になっているのだとしたら、僕は智之を久恵ほどに愛せるだろうか。

 あの厩での火事の時、実は、この燃え盛る火に飛び込んだら未来へ帰れるのではないかと言う気が、不思議な確かさで感じられた。なぜ僕はあの時、あの厩の火の手から逃げ出て行ったのだろう。帰れたかも知れないのに。死んだところで、それでもよかったのに。


 そんなことを思いながら、長い黒い髪をひとまとめに束ねた後姿を見つめて馬を歩ませる浩之に、久恵は振り返った。


「しかし残念じゃった。命がけとまで言えば信長の殿も抱いてくれるじゃろうと思うたのに」


 あははと笑う久恵の声が、智之をあやして笑う奈都美の声を思い出させた。


 ……後日の談に、この日信長の供をしていた金森長近が久恵をいたく気に入って、どうしても妻にと梁田の家に縁談を持ち込んだことをここに付け加える。

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