今巴の姫と信長様:前
「三社の森の方へ向かったのだな?」
鞍を置く間ももどかしく、浩之は厩にいた小者に怒鳴った。
「へえ、なんだが大変な剣幕でいらしって、夏雲を駆って大変な勢いですっとんで行っちまいまして」
夏雲か。久恵お気に入りの真っ白な美しい牝馬だが、その脚の強さも政綱の栗毛の愛馬に負けない優駿だ。騎馬の技術も、梁田の家で中間(武家の下級奉公人)に使われるようになったここ十年足らずの間に棒術、馬術をやや習った程度の浩之ではとても及ばぬ腕前の久恵だった。しかし馬に飛び乗ると、浩之は必死で、もう姿も見えぬ久恵にどうか間に合えと祈りつつ全力でそのあとを追った。
と言うのも、近々、京の都から山科言継と数人の公卿が尾張を訪れるが、そのうちの一人は信長居城の清州城でなく、その城内にある梁田の屋敷に滞在するらしいという噂を厨まわりの小者が声高に交わしていた。
ご政務のご相談があるのではあろうが、それよりも、こうした貴人を迎える家では娘を伽に出すのが礼儀と言う。この屋敷にある娘と言えば久姫だけだが、御年は十五と頃合いだがあの馬に乗せれば戦場でもご活躍の今巴の姫が、おとなしく旅の雲上人さまの枕席になど侍ろうか。
そう立ち聞いた久恵が顔色を変えて飛び出していったと、宮川御前が裾を乱して浩之のもとに駆けてきたのだった。
「あの子は思い詰めると何をしでかすかわからぬ一徹者、あわてて身投げでもされたら大変じゃ。浩之、厩のどの馬を使うてもよいから追ってたもれ」
浩之が考えても、公卿の仮寝の妻などにされるとなれば、腹を立てて身投げでもしそうな久恵であった。三社の森に向かったとなると、奥深くで首でも吊ろうとしているのだろうか。
と、森に突進してゆく浩之の左手の野原に、ちらと白いものが目に入った。あわてて馬をとめて見ると間違いない、夏雲だ。
そちらに駆けてゆくと、手綱を枝に結んだその木の根元に膝を抱えている久恵が見えた。
「久恵さん!良かった!」
むっつりとした顔で、久恵が応えた。
「なんじゃ、血相を変えて」
なにも言わずに飛び出していくので、宮川御前も浩之もがひどく心配したと叱ると、久恵は口を尖らせた。
「なに、身投げじゃと。馬鹿な。そんな無駄なことをしてどうなるのじゃ」
「じゃ何を考えてこんなところでしょんぼりしてるんです」
「信長の殿が、今日あたりはこの道を通るかと思うて」
そうですか……、と浩之は視線を落とした。
久恵がもうずっと、信長にあこがれているのを浩之は知っている。
かなうはずのない片思いに、どんな良縁を持ち込まれても諾と言わない久恵のことを、浩之は一途とも可憐とも思って胸を痛めていた。今日も、彼の人の姿を一目みたい一心で飛び出してきたのかと思うとその乙女心がいじらしくて、浩之はとなりに座ってその肩をぽんぽんと叩いてやらずにいられなかった。その浩之の袖から、右手首あたりに古そうな火傷痕がちらりと覗いた。
しばらく無言のまま二人で座って草のそよぎを眺めていたが、やがて信長が二人の供を連れて森から姿を現したのが見えた。
「信長様じゃ!」
浩之が驚いたことに、久恵は見るなり素早く立ち上がって駆けだした。
「久恵さん!なにをするんです!道中でお声をかけたりしたらお咎めを受けますよ!」
慌てて追いかける浩之には全くかまわず、久恵は信長の馬の脚元近くまで駆けよって地に膝をついた。浩之もその一歩後ろで土下座だ。
「あ、これはお久ではないか」
信長より先に、すばやく立ちふさがっていた二人の近侍のうちの一人が声を出した。童名犬千代を改めた前田利家、今では信長直属の精鋭部隊・赤母衣衆の筆頭だ。
「何事じゃ、待ち伏せの上、直々のお声がけなど許されぬ。退がりなされ」
久恵は額を地面に打ち付けんばかりの勢いで、一息に叫んだ。
「ご無礼は重々承知!なれど今度ばかりはこの久恵の命をかけてのお願いにまかり越しました。この願いお聞き届けなくば、御慈悲にこの場でお切捨てくださいませ」
(何を言うんです久恵さん!)後ろからあわてた浩之の小声が聞こえたが、久恵は一顧もしなかった。
馬前の二人が困った顔で信長を振り向くと、信長はあきれた顔で久恵を見下ろしている。
父信秀に死なれ家督を継いだ頃から縄帯などを締めた奇妙な風采を改めた信長だったが、月代に髷を結った騎乗姿は鞍腰もびしりと決まり、いつどんな時代の人間が見てもこれはと感嘆するような男ぶりだった。
「なんじゃ気色ばんで。まあおもしろい。お久の命がけの願いとやら言うてみよ。そのうえで斬ってくれとあらば斬ってやらんでもない」
作者注:優れた技能を持った人を、過去の偉人のようだという意味を込めて今XXXとか呼ぶことがあったようです。今孔明(竹中半兵衛)とか、今楠木(志賀親次)とか。久恵さんたら巴御前みたいだよね!くらいに言われてた、ということで。




