37 朧月夜の人
宮川御前の使いで、浩之が麻江のもとに訪れたのは久恵の祝言が五日後に迫った日だった。
信長直属の精鋭部隊・赤母衣衆のひとり、金森長近が長らく久恵を望んでいたのだが、極秘の任務に就いていた政綱はその間、信長の勘気に触れて出奔したということになっていた。政綱が許されるまでは、と両家で足踏みしていたのだが、これが桶狭間で一番功労とされたのだから、めでた重ねで祝言をと急がれたのだ。
これへの祝いは久恵の主人である美濃御前からも届いていたが、それとは別に、久恵を気に入っていた麻江からも届いており、それへの返礼に浩之が使われたのだった。
「これはこれは、ご丁寧に痛み入りまする」
美濃御前の、ということは、信長の居城の奥の女中らの束ねをしているこの侍女頭は、梁田家からのこの使いを自分の居間に通して、からかうように馬鹿丁寧に礼を言った。
「と申して、そなたがただの使いではなかろう事は承知よ。なんぞわらわに用があってのことであろう。藪をつつかず、きりきり申せ。まさかわらわに惚れたというのでもなかろう」
女だてらに、昨今堺の街から流行り出したとかいうトバコとやらいう煙を長いキセルで吸いながら、麻江は切りつけるように浩之を促した。
「あなた様に惚れたと申すが、なぜそのように不思議なことでございましょう」
畳に両手をついたまま、浩之が言った。
「特にそのお声、心に残って離れませぬ」
キセルを手にしたまま、麻江は流し目に浩之を見下ろした。
「お歌など歌えば、さぞかしと思われます。春の野の、夕暮れなどに歌われれば」
浩之がそういうが早いが、麻江は不意に立ち上がり、裾をさばいてその縁側から外に出た。
「ついて来やれ。庭など歩きながら話そうぞ」
庭下駄を足に、しばらく無言で浩之を従えて麻江は歩いて行った。やがて広く開けた丘の上にしつらえた、藤棚の下の長椅子に浩之を誘って座った。誰にも聞かれたくない用談をする者のために置かれた、まわりに身を隠す藪もない一画だった。
先に浩之が口を開いた。
「あなたは、いつからこの時代にいるのです?」
麻江は急に、座っていた両足をぐんと伸ばすと着物の裾が割れるのも構わず行儀悪く足を組んだ。
「バレたかな、とは思ったんだよね。あんたが未来から来た人だとは知らなかったから。あれでしょ、桶狭間の日でしょ」
はい、と浩之は頷いた。
あの日、麻江は眼下の戦場を見て「兵どもの夢の跡」とつぶやいた。なにも不審にも思わず、浩之も「夏草と言うには早い時期だが」というようなことを返したが、あとで急に気が付いたのだ。
「夏草や兵どもが夢の跡。あれは俳句ではありませんか、江戸時代の。たしか小林一茶でしたか」
「教養のない人だね、芭蕉だよ。百年以上時代が違う」
一茶でも芭蕉でも、どちらでもよかった。聞きたかった質問をした。
「あなたは十二、三年前の那古野で、春の夕方に歌を歌っていたことはありませんでしたか。菜の花畑に、の、朧月夜を」
そうだよ、と麻江は簡単に言った。
「あれは若御台の縁談相手を見ておこうと思って、那古野に来た時のことだったわ。あんまり景色がきれいで、ついそれで思い出された歌なんか歌ってしまった。そしたら叫んだり、石を投げたり、紙飛行機を飛ばしたりして来る馬鹿がいたんで、それには近づかないことにしたんだった。すっかり忘れてた。桶狭間まではね」
また同じ問いを、この二十五にも四十五にも見える女に浩之は繰り返した。
「あなたはいつからこの時代にいるのですか」
そうだね、と麻江は空を見上げて思い返そうとしているような顔をした。
「もう……五十年近くになるかな?庄五郎がまだひよっこの頃だから」
「庄五郎とはどなたですか」
「道三。斎藤道三の最初の名前。十四、五歳で油売りだったたころの」
「あなたはおいくつなんですか?」
蒼白な顔いろでそう訊く浩之に、麻江は面白そうな顔をした。
「あんたはいつからこっちにいるの?気が付かなかったの?こっちにいる間は年を取らないって」
浩之はがくんと顔を上向けて、目を閉じてため息した。
こちらに来たのが三十二歳の時。正直、老いと言うのがわからなかった。言われてみれば、四十五歳になっているはずだが、鏡で見る自分の姿にも、毎日見る手指の肌にも老いの影が見られないのは奇異なことだった。
「あんたはここで何がしたいの?成り上がってみようとしている風には見えないけど」
「僕は元居た時代に戻りたいだけです。家族がいます」
「じゃあ私と同じようなものだわ。わたしも夫と子供が二人いたの」
「元の時代に帰れる方法を知っているのですか?」
真剣な目をしてそう訊く浩之に麻江は笑った。
「知ってたらとっくに帰ってるって。私が知ってるのは、どうやらここでは未来から来た人間は年を取らないみたいだってことだけ。だから私は、このままなんとか死なないで、私が元居た時代まで生き続けるの。そして家族と再会する。それが目標」




