36 戦国の人に
「ご老師様、あの者についてご存知のこと、すべて聞かせてくださりませ」
萬松寺の客殿で、大雲和尚と向かい合っているのは宮川御前だった。
和尚はいつもにもまして静かな様子で、黙って御前を見返した。
「はじめてあの者をご老師様からお世話いただいたのはもう十二、三年も前になりましょうか。流行り病で家族を亡くした絹問屋のお倅と、その時はうかがいましたが」
その通りじゃ、と和尚は短く言った。きっ、と一歩も引かぬ気概を見せて御前は和尚を見つめ返した。
「ご老師様、わらわはけっしてあれを胡乱な者と疑ってこう申すのではありませぬ。浩之がこれまで梁田の家に誠実に尽くしてくれたのは、奥を取り仕切っているわらわが一番よく知ってございます。……しかしあれがどういう人間なのか、それがいつまでもわかりませぬ」
和尚はまた短く返した。
「何をわからねばならぬのじゃ」
「なぜ浩之は、ああも久恵を大事にしてくれるのでございましょうか」
一息に問うた御前に、さすがに和尚も目をつぶった。
「あれは二日も熱を出して寝込んでおりました。久恵が狼藉者に襲われたところを助けて、その二人を叩き殺したその日の夜から熱が下がらず丸二日……。久恵は付き切りで看ようとしますが、祝言の決まった娘を雇い人の部屋に夜通し二人で置いておくこともなりませず、わらわもできるだけ浩之の部屋についておりましたが、あれは昏々と眠り続けながら何かうわごとを言って、涙を流すのです」
宮川御前は涙を浮かべて、両の手を握り合わせて和尚に訴えた。
「ご老師様は覚えておいででしょうか、久恵がまだ九つか十か、やっと馬に乗り始めたころに我が家が火事になりかけたことがありましたのを」
和尚は無言で頷いて、浩之の背から右腕にかけて残る古い、大きな火傷の跡を思い浮かべた。
「母屋には火は回らずすみましたが、厩がやられました。飼葉や寝藁があったために火が早く、われらが気が付いた時にはもはや手も付けられぬ火勢で。ああ、今思い返してもたまりませぬ、火と煙に巻かれた馬どもの悲鳴のいななきが……」
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「駄目じゃ久恵、下がれ!危ない!」
泣き叫び、燃えさかっている厩に飛び込もうとする久恵を政綱が抱きとめていた。
家人らが水よ火消しよと立ち騒いではいたが、もう誰の目にもどうしようもないほど火が回っていた。入口付近に積んでいた干し草の山から、厩の中に続く寝藁へと燃え移るのが早く、火がもう壁から梁まで届いてしまっていた。
誰もがもう、生きたまま煙に巻かれて焼かれてゆく何頭もの馬の蹴り騒ぐ音とその狂ったようないななきに耳をふさいでいた。
久恵が毎日世話をし、その背に乗り、鬣を梳いてやった馬たちであり、久恵から人参を与えられては甘えてその手をなめる馬たちだった。目の前に見るその馬たちの酸鼻に絶叫する久恵を、政綱も他の誰もただ抱きとめて厩が焼き尽くされるのを待つしかできなかった。
と、そのわきを浩之が、水に浸した火消しの叩き布を被って走り抜け、火に飛び込んでいった。
わあ、とまわりのみなが驚き騒いだ。あれは気が狂ったか、今更なにをしたとて、一頭も助けることなどできぬ。むしろ飛び込んだ本人が焼死体をひとつ増やしただけと、口々に言い騒ぐうちに、時を置かずに浩之は火から駆け戻って来た。
まわりの数人が大急ぎでその背についた火を叩き消したり水をかけたりしている間にも、政忠(政綱と久恵の父)が怒鳴りつけた。
「何を考えているのじゃ馬鹿者が!あの火に飛び込んだとて、何ができたというのじゃ!」
煙と煤をかぶった浩之は火傷の痛みに歯を噛み締めながら、政忠ではなく、目を丸くして呆然としている久恵に向かって言った。
「馬を……みな、介錯してやりました……久恵さん、みな、もう楽に……」
それまで誰も気が付かなかったが、その火傷を負った手には焼けた血が刃にこびりついた懐剣が握りしめられていた。そしてこれも言われてやっと気づいたが、もう厩からは馬の騒ぎ狂う音が聞こえなくなっていた。
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「あとで火事場を検めると、たしかにどの馬もきれいに首を裂かれてございました。あれは久恵が愛した馬のために、命がけで火の中に飛び込んでいったのです。もう脚や尾に火がついて助けようもなくなった馬を、火の恐怖と苦痛から救うために」
和尚ももちろんその件は聞いている。浩之は先の世では子らに異国の言葉を教える師匠であったが、異国語の他にも子らの心身の健康や成長のために必要な知識を学んだと言っていた。
「久恵さんは愛情深く、共感する能力の高い子です。そういう子は、愛した動物に死なれた時に深刻な精神的な症状を起こすことが多くあります。現に、かわいがっていた犬が死んだ時には寝付いていました。それがあんな凄惨な死に方をされたら、久恵さんは馬たちを救えなかったと自分を責めて、きっと心を病んでしまうだろうと思いました」
そう話す浩之に、和尚は子供らを飢えさせず病ませずに育て上げれば充分なこの時代と、精神の健康までを大人の責任と考える先の世との水準の違いを知ると同時に、浩之の久恵にたいする愛情の強く確かなことを思い知った。が、宮川御前にはこう言った。
「……あれは流行り病でなくした自分の息子と、お久を重ねて見ているのであろう」
それだけのことでござりましょうか、と、御前は目に涙をためて和尚に詰め寄った。
「浩之の持つ優しさが、他の誰とも違うのです。見ていれば、あれは鼠や烏などの獣でさえ殺すことに心を痛めているのがわかりまする。それが久恵のために人を殺してしまって、熱を出して泣き寝入りしているのです。……ご老師様、わらわは、どうやってあれに報いることができましょうか」
悲し気に目線を落とし、ようやく和尚は言った。
「何も……。何もできまい。浩之は、あれは、この戦乱の世に生きるほかにないのじゃ。そしてこの世に生きるからには、人を殺めることを避けられぬことがある。それは誰にも、どうにもできることではなかろうが」




