21 菊見の宴
毎年秋の重陽の節句には、菊見の宴を張るのが今川館の習わしだった。
諸事に御所風を好む家風であったので、この日も内庭には雅やかな管弦が流れ、侍女の端までが美しく季節を模した衣装を凝らしている。
であれば、武家の棟梁であっても鉄漿で歯を染め、置眉し、連歌をたしなみ蹴鞠を眺むということにもなった。共色で豪華な刺繍を施した直衣はずっしりと重たげで、固太りのこの宴の主人、今川治部大輔義元によく似あっていた。
その広大な内庭には、抱えの庭師たちが一年かけて丹精してきたとりどりの菊花が、その姿、色彩、香りのもっとも引き立つようにと苦慮した設けの位置に所せましと飾られている。春の桜に劣らぬ花の宴であった。
その豪奢の中にありながら、義元はいらいらとした様子で後ろに控える小姓に声をかけた。
「菊王?」
はい、と応えたのは、これも華やかな小袖を身に付けた美しい少年だった。
小姓も身の飾りと、美童を好む風はいずれの家にもあったかもしれないが、今川ではそれも随分だった。目鼻の整った子であれば家格にもそれほどこだわらず積極的に教練したので、自然、数多いその中から採り上げられた数人の少年らは行儀作法から文武のいずれにも秀で、しかも容色抜きんでた者たちとなった。そしてこの菊王丸は、その中でも文武両道、眉目秀麗類なしと折り紙付きの逸材だった。
「彦五郎を急がせよ。もう膳が運ばれる頃合いじゃ。」
はい、と菊王丸はすぐに立って義元の嫡男、彦五郎氏真を探しに行った。
菊見よ連歌よと風雅を装っても、戦乱の世にあってはただ季節の花を愛でるだけの宴ではもちろんなかった。
つい四、五年前に氏真の正室にその娘を嫁がせた北条氏、武田を代表して出席している重臣穴山氏をはじめ、外交内政それぞれに重要な人物が招かれている。この席に、新当主氏真が欠けていてはいかにも客あしらいが悪かった。
先ほど蹴鞠を披露したので今頃は客から賛辞を受けているだろうかと見当をつけた菊王丸は、公家方の客が多くいる方へ向かってみたがみつからず、では着替えかと二の丸へと急ぎ回った。
思った通り氏真は自分の居間にいたが、衣装をつけるどころか腹ばいに伏せて脚を揉ませているのを見て、この人のだらしなさをよく知っている菊王丸もややあきれた。
「若殿、お屋形が急げと仰せでございます。もう膳を運ばせると」
ああ、よいよい、と、起き上がりもせずに応えた。
「待たせておいても良いし、待たずに初めてくれても良い。先ほどの蹴鞠に疲れて、脚がだるうての。菊王、おまえも見ていたか?中御門殿なども感心してな、都にもこれほどの蹴り手はあらぬなどと言うておられたが、媚びもあろうな。貧乏公家も辛いものじゃな」
菊王丸はそう言う氏真には返事もせず、脚を揉んでいる若い男に言った。
「玄深殿も、もう切り上げてくださいませ」
は……、と、その男は手の動きだけを少し止めて、困ったように首を傾げた。
今川の嫡男の氏真と、当主義元の言いつけで来た小姓の菊王丸。どちらに従えばよいか判断できぬという色を見せた。
氏真自身、この美しい小姓に下がれと一喝しないのは、父からの使いであることに加え、菊王丸が血筋で言えば従弟にあたる近さであり、今川一族の一員としてこの宴にしても成功裏に運ばせねばという真剣な憂慮を持った一人でもあったからだ。
「わかったわかった。菊王、蹴鞠で疲れた脚をちょいと揉ませたらすぐに行くほどに、そう伝えて膳はもう運ばせてしまえ」
では、と急ぎ足で去る菊王丸を見送ると、氏真は寝そべったまま手を叩いて侍女を呼び、急いで酒をと言いつけた。
「やれやれじゃ」
ふたたび脚をさすりはじめた玄深に向かって、氏真はちらと笑って見せた。
「おまえなどにはわからんじゃろうな、城主の若殿のと言うても馬鹿馬鹿しいばかりぞ。堅苦しく長たらしい宴なぞ、疲れるばかりで辛いものじゃ。酒のひとつも飲んで景気をつけねばやっておられぬ」
玄深はどちらともつかぬ愛想悪いを頬にうかべ、灯火にあてていた錫の小さな杓を手に当てて、溶かした油の温度をみた。
そうして運ばれてきた酒を、氏真は行儀悪く手酌で腹ばいのまま飲みながら、玄深がちょうどよく温めた油をその脛にたらりと流すのをゾクと感じた。
右の親指が一本だけ短い、その温かく力強い手が油を伸ばし、滑りの良くなった肌を下から上へと押し流すようにさする。疲れた筋肉に心地よい、絶妙な力加減。女のようなしつこさの、甘ったるい匂いを立てる白檀や伽羅とは全然違う、控えめなのに忘れがたい甘やかな、安らぐ香り。
蹴鞠というのは、悠長に見えてなかなかに消耗する運動であった。その直後で疲れてもいたし空腹でもあったところに、酒が入って、この按摩だ。まもなく氏真は、すうすうと軽い寝息を立てて手に杯を持ったまま寝落ちしてしまった。
玄深はそれと気づくと、静かにそばにあった小袖を広げ、眠っている氏真にそっとかけて秋の肌寒を防いでやった。
そして音を立てないように注意深く自分の道具をまとめると、側御用の侍女に「お休みのようでございます」と、その人を起こさぬように低めた声で伝えて立ち去って行った。




