20 若者は駿府に立たん
ここは駿河の駿府、尾張の那古野からは五十里(二百km程度)ほどの距離にある城下町。
京の都を模して造られたこの街では、荒廃した京を逃れてきた多くの公卿が領主今川氏の庇護のもと、有職故実から和歌、聞香、歌舞音曲と、都風の文化を隆盛させていた。
この駿府の大通りで、一人のほっそりとした、優しい三日月眉の若者が大荷物を背負ってあちらを見上げ、こちらを眺めしながら歩いてきた。
玄深と名乗るこの若者は、これまで見たことのない上品と優雅とを餅屋の店先にまで漂わせるこの街並みに、これまで美濃や尾張の街や市を立派なものだと感心していた自分の見聞の小ささにはじめて気づかされた。かと言って、別段怖気づいたりなどはしていない。
背に負った荷物の中身は、割れぬように厳重に包んだたくさんの小さな壺。
これを元手に今川館に入り込み、この美しくも振興した駿河の国の国主、今川家の贔屓になってやろうと意欲に燃えている若者だった。
まず玄深は、大通りに立派な構えを誇っている大店を選んで入って行った。
気取った店で、手代ですら道行きの行商など鼻もひっかけぬという顔をしていたが、玄深が壺の中身を言うと聞き耳を立ててそろばんをはじいていた番頭がさっと立ってきた。
「へえ、そうしたものをお持ちでしたら、わたしどもの店でも扱ってもようござんす。」
「いやなにも、ぜひにも扱ってもらわねばならぬというのでもござりませぬ。もうすでに、いくつかのお店に出入りしてござりますので」
玄深はわざと田舎者らしさを隠さずに、気負わぬのんびりした話しぶりで、
「しかし何しろ新奇なお品、なるだけ多くの方に見知っていただかねばなりませぬゆえ、ひとつふたつのお店から、ひとりふたりのお得意だけに渡ってしまっては甲斐もない。そのため、小分けにわけた少量を、ひとりのお客様に一つ限りしか売らぬとのお約束、これを守っていただけますれば……」
こうして、玄深の歩いた後には、小奇麗な小さな壺を十か十二かを渡されて、さて得意先の誰に売ろうかと思案する商人たちが残されていった。
これがちかごろ、尾張の富裕な者や織田家に近い重臣らの間ではやり始めた美濃の肌油が、駿河の中心地に入り込んだ第一歩だった。
もくろみ通り、どの店ももっともっとと仕入れを注文してきた。それを玄深は、やいのやいのという商人にぺこぺこ頭を下げて品薄を詫びながら、それでもできるだけ噂が広まり欲しがる者が増えるようにと、少しずつ納めていった。
玄深が待ち望んだ機会が舞い込んでくるのに、半月とかからなかった。
今川館に出入りしている公卿のひとりが、どうやったものか玄深の滞在する宿屋を突き止めて使いの者に手紙を持たせて来た。その手紙には、ぜひとも会って、まとまった量の肌油を売ってほしい、今川家の棟梁義元に献上したい、とあった。
会心の笑みを浮かべ、玄深は丁重に、ありがたく参上すると返答した。
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「ほほう、ではそなたの一家が美濃の牧場で、代々その油を作ってきたと」
会った公卿は、あちらに媚びを売りこちらに便利使いされして有力者に庇護され体面を維持することには長けており、しかもそれを恥じてもいないというお殿様だった。
「代々と言いましても、祖父、父の二代。わたしどもがやっと三代目でございます。」
「それで充分じゃ」
手にした扇を半開きにして、その麿さまはホホホと笑った。
「それであれば、歴史ある作り手と言えぬこともない。どうせ珍しいものを献上するなら、箔も付けたが良いからの。これこの油、昨今尾張の田舎でもてはやされてござりますが、もとは美濃の道三公ゆかりの由緒。それを代々作って来た一家の、これが継ぎ手でござりますとなると、ほお、と聞いてもらえるものじゃ」
あ、お殿様、と玄深は言いにくそうに、
「わたしは油作りの継ぎ手ではございませぬ。それはわたしの兄が継いでおります。私は手がこんなものでございますから、満足な仕事はできませず」
と、さっきからちらちらと横目で見られていた右手を、わかるように前に出して見せた。親指の、第一関節あたりから先がない。
「牧場では牛だけでなく馬の世話もしておりましたが、うかつにも馬に指を噛まれてしまいまして」
麿さまは置き眉の眉を大仰にしかめて見せた。
「それは災難な。で、それでそなたは何をしておるのじゃ。その油の行商か」
いいえ、と玄深は首を振った。
「按摩でございます。この油を使ってお体を揉んで、痛みを楽にし、お疲れを直したりいたします。玄深というのは按摩になって付けた名でございます」
作者注1:今川館の場所はわかっていないようです。冒頭に五十里としたのは、だいたい現在の静岡から名護屋までの距離を基にしました。だいたい。
注2:按摩。揉み療治や指圧、もしくはそれを施術する人のことです。マッサージ師くらいに思ってください。




