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本能寺に開く扉は炎を上げて  作者: 瀬緒 遊
第二部:尾張から駿河へ
19/51

18 十年

 血で濡れた大包丁を地面に置くと、浩之は足元に横たわるいのししを見下ろして両手を合わせた。


 動脈からの血を流し終えたらしいその猪はまだ体温も温かく、鼻梁びりょうも濡れ濡れとして、いましがたの命の終わりをこれ見よと浩之に見せつけるようだった。


「いやぁ、これでもう一安心」

「浩之どののおかげで、大助かりじゃ」


 この獣の退治の成功に喜ぶこれらの人々はほとんどが文盲で、書ける字と言えば自分の名前くらいというのが大半だった。


 現代の大学教育まで受けた浩之による、いわば一般教養程度の能力でする距離の計測や面積の計算などは彼らからすれば十分に尊敬に値する特殊な技能で、その設置する柵や罠の正確さがあればこそ今度もやっと、憎いあばれ猪を仕留めることができたのだった。


 彼らは手に手にこの猪を殴るのに使った棒などをまだ持ったまま晴れ晴れとした顔をしており、いたましさに眉のあたりを曇らせているのは浩之一人だった。


 この百姓たちは、これまで田畑を食い散らかし、踏み荒らし、掘り返しなどして大きな損害を与えてくれたこの山の獣を退治したことに安堵するばかりで、悲しみや哀れを覚える欺瞞ぎまんのひとかけらさえ持たなかった。浩之はこれをこの時代の人々の健全さだと思うと同時に、自分がこの健全さを身に付けてしまったらもうおしまいだという寒さも感じていた。


 口々に礼を述べるこの場の人々に笑みを返しながら、浩之は令和からこの時代に飛ばされてきてから過ぎた、これまでの十年ほどの年月を思いやった。なぜなら、得体のしれない人間として浩之と親しもうとしなかった人々の中でも、これらの人々が最も頑固で、最後まで浩之を受け入れようとしなかったのだから。


 戦国時代に現れてからの当初の数日間を萬松寺の大雲和尚のもとで過ごし、その後の十年を浩之は梁田家の中間ちゅうげん(下級奉公人)として生活してきたが、それは疎外感との格闘だった。


 梁田家の他の奉公人たちは、着物を始終着崩れさせて、少し歩けば鼻緒はなおずれに血をにじませて難渋するこのおかしな男と、長いこと親しもうとはしなかった。


 大雲和尚を引受人としてやって来て、政綱の若殿に贔屓にされているこの男は、自分たちが当たり前にできる多くのことをできないようだが、一方で、自分たちのできないいろいろなことをできるらしい。


 彼らは浩之からなにか異質なものを感じ、いじめることもしなかった代わりになじもうともせず、仲間内で笑いさざめいている時も、下されものを分け合うにも浩之には声をかけず距離を置き、おはようの挨拶に笑顔を見せるようになるまですら一年もかかった。


 数世紀の時空を離れた異世界に突然ひとりほっぽりだされ、冷たくかたくななこうした人々のしうちに、ひと月足らずで浩之はげっそりと痩せた。


 一日中ほとんど口もきかず、ただ言いつけられるまま水を汲んだり運んだり、掃いたり拭いたりの仕事に体を動かした。


 夜には、風呂に入ってベッドに眠るという生活はなんて贅沢だったのだろうか、洗って陽に干したシャッキリしたシーツでもう一度眠れたら死んでもいいなどと思いながら、明日目が覚めたときにはそうしたベッドで智之の泣く声や奈都美の淹れるコーヒーの香りがありますようにと、どんな必死の願いを持つ人でもこれほどではなかろうと思われるほどの真摯さで祈って眠った。


 やつれてゆく浩之の様子に、政綱は頻繁に萬松寺への使いの用をわざと言いつけ、浩之が大雲和尚と会う機会を多く作ることでその精神を支えようと工夫し、その和尚は会うたびに話を聞き、話を聞かせして浩之を励まし、時にはただ静かに横にならせて心身を休ませた。


 こうした政綱の心使いと、厳しくも優しい和尚に会って過ごすひとときは浩之にとって大きないたわりだったが、実はもっとも強力な支えであったのは当時六歳の久恵だった。


 久恵は賢い子供だったが、それにもまして気性が明るく思いやり深かった。


 久恵は自分の手習いの時間には傍に浩之を呼び、共に筆を手にして字を覚え、うまやに一緒に行っては飼葉かいばを整え掃除をし、馬の背やたてがみいたり、犬と遊んだりして過ごした。


 そうすることで、この無邪気な幼い者は自分でもそうと知らないうちに、浩之の絶望的な孤独と、不安と、寂しさと、もう少しでこの時代のあらゆる人々をさげすみ憎みそうになる心の傾斜とを一手に引き受けて、その堰の崩壊を防ぎきった。


 くりやの者が鼠を叩き殺すのを見て眠れなくなったとき、薪も割れず火もおこせないのを役立たずと罵られたとき、何にあたったのかひどく腹を壊してここで死ぬのかと思うほど衰弱してしまったとき、久恵がいなかったら自分はとうに死んでいたか、そうでなくとも暗い顔をしてぶつぶつと独り言をつぶやき誰彼に対して卑屈や敵意を持つ、いかれた人間になっていただろう。


 そう回想にぼんやりしていた浩之の耳に、その久恵の声が聞こえた。


「おお!あの悪い猪、とうとう仕留めてか?」

 その日の務めを終え美濃御前のもとからの家路の途中に通りかかったのだ。


「おかえりなさいませ、久恵さん。」

 あれから十年、人懐こさはそのままに、武家の女としての行儀作法から武術まで立派に身に付けた十六の娘になっている久恵を、浩之は馬上にまぶしく見上げた。


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