見積もりの裏
バレルが背中の給水口を開けた。
水袋から水を足す。
とく、とく、とく。
湿った森の中で、その音だけが耳に残った。
注ぎ終えるとバレルは給水口を閉め、水袋の残りの重さを目で量る。
「出発します」
森の中は、道があるようでなかった。
木の根が地面の上を幾重にも這い回っている。そのあいだに、人が一人通れるくらいの隙間がところどころ開いていた。
それが道らしかったが、隙間はすぐ根に塞がれ、別の隙間が別のほうへ逃げていく。
アニカはラジオの箱を耳に当てた。
バレルがアンテナと呼んでいる、箱の上の細い針金をゆっくり回す。
北東を向いたとき、箱の中で低いものが鳴った。
鍋の底で湯が沸きはじめる手前の、あの音。
「鳴った」
「それが柱です。いちばん太く鳴るほうへ歩きます」
アニカは箱を耳に当てたまま、北東へ歩き出す。
苔の根を越え、低い枝をくぐり、倒木をまたぐ。ときどき足を止めては針金を回す。
歩くほどに、唸りは太さを増した。
バレルが後ろからついてくる。
鉄の脚が根を踏むたび、かこん、と鳴る硬い音。その余韻だけが、湿った空気に吸われて消えた。
歩きながら、アニカは唸りの聞こえ方を覚えていった。
近づくほど太くなり、少しでも向きが逸れると細くなる。
箱を左右に小さく振っていちばん太いところを探し、そこへ向かって三十歩。また止まって振る。その繰り返しだった。
途中の小川で、バレルが先に脚を入れて深さを測った。
「膝までです。乗ってください」
「自分で渡れるよ」
「水が冷たいです。十一度です」
言われるまま、アニカはハッチに足をかけた。
縁から見下ろすと、バレルの脚のまわりで冷たい水が細く割れて流れていく。
対岸で下りると、バレルの脚からは水が垂れていた。
小川の水なのか、ひびの水なのか。アニカには分からなかった。
昼すぎに、一本目の柱に着いた。
思っていたより、ずっと太い。
大人が三人で抱えても手が届かない黒い柱。石とも鉄ともつかない肌で、てっぺんは木々の頭より高かった。
柱のまわりだけ、森が丸く広場のように開けている。
根も倒木もなく、短い草の上に薄い日が差していた。
「この広場の中では、道は変わりません」
バレルが言った。
「森がどれだけ荒れても、ここだけは動きません。荷隊は柱から柱へ渡ります」
「森全部が、こうならいいのにね」
「そうなれば、柱は要りません」
柱の根元には、石を組んだ井戸があった。
アニカは桶を下ろして冷たい水を汲み、布でこして水袋に詰め直してから、バレルの給水口にも足した。
昼は柱の根元に座って堅パンをかじる。
バレルが荷物の中から、八百屋の親父にもらった人参を一本出した。
「召し上がってください。一本目の柱なので」
「関係ないでしょ、それ」
「規定値の話をしています」
アニカが人参をかじると、土の味がして、それから少し甘かった。
井戸の縁に腰を下ろして、アニカはポケットから紙を出した。
見積もりの紙だった。
数字の面を下にして膝に広げると、紙の裏は何も書かれていない白。
鉛筆の先で、紙の下のほうに小さな丸を一つ描く。街の門だ。
そこから斜めに線を引いてもう一つ丸を描いたのが一本目の柱で、線の横には『半日』と書き添えた。
「地図ですか」
「組合の地図は見せてもらえないんでしょ。じゃあ、描くしかないじゃない」
バレルの目の明かりが、紙の上の線をなぞる。
「門から一本目までの方角は北北東です。少し東に寄りすぎています」
「どのくらい」
「指一本ぶんです」
アニカは線を指で消して引き直した。
見積もりの数字が紙の裏から少し透けて見えている。
アニカは、紙を裏返さなかった。
一本目の柱の広場で夜を越した。
ハッチの中の座枠に毛布を敷いて、アニカは膝を抱えて眠った。
背中の鉄越しに、バレルの体の中で何かが回り続ける音が伝わってくる。
ぽたり、と。
闇の中で、ときどき水滴が鳴っていた。
二日目の朝、水の計算をした。
一本目の井戸は水が細く、こして詰められたのは一日分と少しだけ。
夜のあいだに漏れたぶんを足すと、水袋は頼りなく軽くなった。
バレルは一日に七リットル。二本目の柱までは丸一日。
今日のうちに着けば、汲める。
バレルが給水口を開けるため、背を向けた。
その隙に、アニカは自分の水袋からカップ半分ほどをバレルの袋へ移す。袋の口を指で押さえながら。
「何か、おっしゃいましたか」
「……何も言ってないよ」
二本目へ向かう途中、昼をだいぶ過ぎたころだった。
アンテナを回していたアニカの手が止まる。
前の唸りとは別に、右のずっと奥で、もう一本細いのが鳴っていた。
「バレル。右にも何か鳴ってる」
バレルは立ち止まって右を向いた。
「私の記録には、あちらに柱はありません」
「でも、鳴ってるよ」
「記録にない柱も、ラジオは見つけます。唸りはどの柱も同じですので」
アニカは紙を出し、今いるあたりから右へ短い線を引いた。
線の先に、丸の代わりにこう書く。
?
「寄らないのですか」
「今日は二本目でしょ。寄り道する水なんて、ないよ」
アニカは紙をしまって箱を耳に当て直し、また二本目の唸りのほうへ歩き出した。
日が傾きはじめたころ、前を歩いていたバレルが止まった。
目の明かりが、まっすぐ前を向いたまま動かない。
「凪です」
アニカには、まだ何も聞こえなかった。
けれど、頭の上で鳥が鳴きやんだ。
木々の頭を渡っていた風の音が細くなった。足元から虫の声が消えていく。
耳に当てたラジオの箱まで静まり返り、二本の唸りはどちらも途絶えた。
風が、止んだ。




