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修理屋の少女は、育ててくれた旧式ロボットを直しに迷いの森を渡る  作者: 歯車
森渡り

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9/14

見積もりの裏

 バレルが背中の給水口を開けた。


 水袋から水を足す。


 とく、とく、とく。


 湿った森の中で、その音だけが耳に残った。


 注ぎ終えるとバレルは給水口を閉め、水袋の残りの重さを目で量る。


「出発します」



 森の中は、道があるようでなかった。


 木の根が地面の上を幾重にも這い回っている。そのあいだに、人が一人通れるくらいの隙間がところどころ開いていた。


 それが道らしかったが、隙間はすぐ根に塞がれ、別の隙間が別のほうへ逃げていく。


 アニカはラジオの箱を耳に当てた。


 バレルがアンテナと呼んでいる、箱の上の細い針金をゆっくり回す。


 北東を向いたとき、箱の中で低いものが鳴った。


 鍋の底で湯が沸きはじめる手前の、あの音。


「鳴った」

「それが柱です。いちばん太く鳴るほうへ歩きます」


 アニカは箱を耳に当てたまま、北東へ歩き出す。


 苔の根を越え、低い枝をくぐり、倒木をまたぐ。ときどき足を止めては針金を回す。


 歩くほどに、唸りは太さを増した。


 バレルが後ろからついてくる。


 鉄の脚が根を踏むたび、かこん、と鳴る硬い音。その余韻だけが、湿った空気に吸われて消えた。



 歩きながら、アニカは唸りの聞こえ方を覚えていった。


 近づくほど太くなり、少しでも向きが逸れると細くなる。


 箱を左右に小さく振っていちばん太いところを探し、そこへ向かって三十歩。また止まって振る。その繰り返しだった。


 途中の小川で、バレルが先に脚を入れて深さを測った。


「膝までです。乗ってください」

「自分で渡れるよ」

「水が冷たいです。十一度です」


 言われるまま、アニカはハッチに足をかけた。


 縁から見下ろすと、バレルの脚のまわりで冷たい水が細く割れて流れていく。


 対岸で下りると、バレルの脚からは水が垂れていた。


 小川の水なのか、ひびの水なのか。アニカには分からなかった。



 昼すぎに、一本目の柱に着いた。


 思っていたより、ずっと太い。


 大人が三人で抱えても手が届かない黒い柱。石とも鉄ともつかない肌で、てっぺんは木々の頭より高かった。


 柱のまわりだけ、森が丸く広場のように開けている。


 根も倒木もなく、短い草の上に薄い日が差していた。


「この広場の中では、道は変わりません」


 バレルが言った。


「森がどれだけ荒れても、ここだけは動きません。荷隊は柱から柱へ渡ります」

「森全部が、こうならいいのにね」

「そうなれば、柱は要りません」


 柱の根元には、石を組んだ井戸があった。


 アニカは桶を下ろして冷たい水を汲み、布でこして水袋に詰め直してから、バレルの給水口にも足した。


 昼は柱の根元に座って堅パンをかじる。


 バレルが荷物の中から、八百屋の親父にもらった人参を一本出した。


「召し上がってください。一本目の柱なので」

「関係ないでしょ、それ」

「規定値の話をしています」


 アニカが人参をかじると、土の味がして、それから少し甘かった。



 井戸の縁に腰を下ろして、アニカはポケットから紙を出した。


 見積もりの紙だった。


 数字の面を下にして膝に広げると、紙の裏は何も書かれていない白。


 鉛筆の先で、紙の下のほうに小さな丸を一つ描く。街の門だ。


 そこから斜めに線を引いてもう一つ丸を描いたのが一本目の柱で、線の横には『半日』と書き添えた。


「地図ですか」

「組合の地図は見せてもらえないんでしょ。じゃあ、描くしかないじゃない」


 バレルの目の明かりが、紙の上の線をなぞる。


「門から一本目までの方角は北北東です。少し東に寄りすぎています」

「どのくらい」

「指一本ぶんです」


 アニカは線を指で消して引き直した。


 見積もりの数字が紙の裏から少し透けて見えている。


 アニカは、紙を裏返さなかった。



 一本目の柱の広場で夜を越した。


 ハッチの中の座枠に毛布を敷いて、アニカは膝を抱えて眠った。


 背中の鉄越しに、バレルの体の中で何かが回り続ける音が伝わってくる。


 ぽたり、と。


 闇の中で、ときどき水滴が鳴っていた。



 二日目の朝、水の計算をした。


 一本目の井戸は水が細く、こして詰められたのは一日分と少しだけ。


 夜のあいだに漏れたぶんを足すと、水袋は頼りなく軽くなった。


 バレルは一日に七リットル。二本目の柱までは丸一日。


 今日のうちに着けば、汲める。


 バレルが給水口を開けるため、背を向けた。


 その隙に、アニカは自分の水袋からカップ半分ほどをバレルの袋へ移す。袋の口を指で押さえながら。


「何か、おっしゃいましたか」

「……何も言ってないよ」



 二本目へ向かう途中、昼をだいぶ過ぎたころだった。


 アンテナを回していたアニカの手が止まる。


 前の唸りとは別に、右のずっと奥で、もう一本細いのが鳴っていた。


「バレル。右にも何か鳴ってる」


 バレルは立ち止まって右を向いた。


「私の記録には、あちらに柱はありません」

「でも、鳴ってるよ」

「記録にない柱も、ラジオは見つけます。唸りはどの柱も同じですので」


 アニカは紙を出し、今いるあたりから右へ短い線を引いた。


 線の先に、丸の代わりにこう書く。


 ?


「寄らないのですか」

「今日は二本目でしょ。寄り道する水なんて、ないよ」


 アニカは紙をしまって箱を耳に当て直し、また二本目の唸りのほうへ歩き出した。



 日が傾きはじめたころ、前を歩いていたバレルが止まった。


 目の明かりが、まっすぐ前を向いたまま動かない。


「凪です」


 アニカには、まだ何も聞こえなかった。


 けれど、頭の上で鳥が鳴きやんだ。


 木々の頭を渡っていた風の音が細くなった。足元から虫の声が消えていく。


 耳に当てたラジオの箱まで静まり返り、二本の唸りはどちらも途絶えた。



 風が、止んだ。

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