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修理屋の少女は、育ててくれた旧式ロボットを直しに迷いの森を渡る  作者: 歯車
森渡り

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8/14

四歩目

「私のために危険を冒すのは、規定にありません」


 バレルが言ったのはそれ一度きり。


 朝、倉の棚から下ろした古い水袋を、アニカは埃の立つまま作業台に投げ出した。


「規定、規定って。新しいタンク買うお金、どこにあると思ってるの。直したほうが安いの。安いほうを取るの」

「冬の入りに森を渡る見込みを計算しました」

「聞かない」

「聞いてください」

「渡れないかどうかは、行ってから決める。計算するなら水の計算して。何リットル要るの」


 バレルはしばらく黙っていて、それから言った。


「……承知しました」


 目の明かりはもういつもの高さにある。


「では、道中あなたを運ぶのは私の仕事です」


 それきりバレルの口から止める話は出なかった。




 支度には三日かけて、一日目はハッチの縁の革の張り替えにあてた。古い革はひびだらけで、閉めても隙間から光が漏れる。嵐の夜に中を守るのは閉めたハッチだけだ。新しい革は三度測ってから切り、縁に沿って膠を引いて、指で押さえたまま乾くのを待つ。乾いたところで一度閉めてもらい、中で目を開けた。縁の隙間から光は一筋も入ってこない。


 小さいころはよくここに乗せてもらった。蓋が閉まると、上の小さな穴から落ちてくる一本の光の筋。それを指でつかもうとしては、つかめないまま蓋が開くのを待ったものだった。


 二日目にはバレルが倉の奥から油紙の包みを出してきた。包みの載っていた棚のいちばん上にはあまり開けない箱があって、アニカの目は一度だけそっちへ行った。


 包みの中は鉄の枠で、背もたれが曲がっていて、肘を置くところもある。


「座の枠です。昔、柱から柱へ人を乗せて運んだころのものです」


 バレルは作業腕でハッチの中に枠を下ろし、胴の内側の金具に一つずつ留めていった。最後の金具が留まると、人が一人膝を抱えて座れるだけの席ができていた。


「乗ってみてください」


 ハッチの縁をまたいで乗ると、背中が鉄の枠に当たった。窮屈ではない。


「昔は、枠なんかなくても入れたのに」

「昔のあなたは、底に座れば収まりました。……ぴったりですね」

「いつ測ったの」

「毎日です」




 三日目は作業台に向かい合って水の計算をした。


「私は一日に六リットル。漏れる分を入れて七リットルです。あなたは二リットル。柱の根元には井戸がありますので、柱ごとに汲み直します。持っていくのは二日分です」

「十八リットル」

「重さは私が持ちます」




 話はどこからか坂じゅうに回っていた。坂の途中の八百屋では、親父が籠から人参を五本つかみ出した。


「正気かね。冬の入りに森を渡るなんぞ」

「正気だよ」

「旦那まで連れて。……ほれ、一本は旦那の分じゃ。いや、食わんか」


 パン屋のおかみさんは堅パンを袋にいっぱい。


「柔らかいのは三日でカビる。こっちのがええ」


 粉挽きの親方は「やめとけ」とだけ言って、新しい水袋を一つ置いていった。




 夕方には世話役のおかみさんが工房に来た。手に小さな徳利を下げている。


「祭りの新酒の残りだよ」

「お酒なんて、あたし」

「あんたが飲むんじゃないよ。よその機械から何かもらうんなら、礼の一杯くらい持っていきな」


 それ以上のことは、おかみさんは言わなかった。


「……ありがと」


 徳利は両手で受け取って、荷物のいちばん真ん中にしまった。




 日が沈むころになって、キノコが坂を駆け上がってきた。轍の道を行き来して山菜を売る行商の息子で、アニカとは同い年なのに背は頭一つ高い。


「アニカ! 森を渡るって本当か? 世話役のおかみさんに聞いたぞ。なんで言わないんだよ」

「今、言ったよ」

「今じゃ遅いだろ!」


 キノコは息を切らしたままアニカの両肩をつかんだ。笠の縁が頭の上にかぶさってくる。


 二人のあいだにバレルの作業腕がすっと入ってきた。


「規定により、アニカから二歩以内に近づくときは、先に申し出てください」

「そんな規定、いつできたんだよ」

「今です」


 キノコの手が肩から離れた。


「冬の入りに、荷隊の道でもないところを?」

「仕事だよ」

「バレルの、だろ」


 アニカは答えなかった。


「……止めても、行くんだろ」


 笠の縁を上げたキノコの目が、まっすぐアニカを見ていた。


「いいか、凪の話をするから、ちゃんと聞けよ。俺、轍の道で二回遭ってる。二回とも柱のそばだったから助かった。森がいきなり静かになるんだ。風が止んで、鳥も虫もぴたって黙る。それが凪。凪が来たら、そのあと必ず荒れる。だから近くに柱があったら走る。なかったら、その場から動かない。どっちにするか迷ったら駄目だ。迷ったやつから、呑まれる。荷隊の人が言ってた」

「走るか、動かないか」

「そう。どっちかを、すぐ。決める前、三日、工房にこもってたって聞いたぞ。アニカ、考えこむ癖あるだろ。俺、そこだけ心配で」


 言ってしまってから自分の口を手でふさいだかと思うと、キノコはアニカの背中を一回ばしんと叩いた。


「帰ってきたら、うちに飯食いに来いよ。母ちゃんにごちそう作らせとくから」

「じゃあ、ごちそうにしてよ」

「するする。だから、ちゃんと帰ってこい」




 出発の前の晩、アニカは作業台の釘から見積もりの紙を抜いた。


 しばらく数字の面を見ていたが、やがて折ってポケットに入れた。


 炉の火は灰に埋めなかった。水をかけて、消した。


「戻ったら、また火を入れます」とバレルが言った。

「あたしが入れるよ」




 夜明け前に工房を出た。坂を下りて崖の下を抜ければ、街のいちばん北にある森の門だ。


 門の脇にはキノコが立っている。


「早いね」

「行商の朝は、もっと早いんだよ。……べつに、見送りに来たんじゃないからな」


 門番が掲げた灯りが、アニカとバレルの顔を照らした。


「どこへ行く」

「鍛冶街」


 門番は灯りの下で、長いあいだ黙っていた。


「止める決まりはない。森は誰のものでもないからな」


 それから門番は灯りを足もとに置き、両手で閂を外した。


「帰ってこい」


 門をくぐる前に、アニカは一度だけ振り返った。


 門の内側でキノコが笠の縁を少しだけ上げた。


 その向こうに、崖の下の帳場の灯りと、坂の途中の八百屋の軒と、坂の上の工房の屋根が見える。煙突から煙が出ていないのは、ゆうべ火を消してきたからだ。


「行きましょう」とバレルが言った。

「うん」




 門を出ればすぐに境目だ。


 枯れた草の地面がある線のところで終わって、その先に並ぶ森の木々のあいだは、夜明け前の暗さよりもまだ暗い。


 八歳の夏に南の畑の石垣の先で初めて境目に立ったとき、バレルが決めた。境界線から三歩まで。それより先へは行かない。


 アニカは一歩、出た。


 二歩。


 三歩。


「境界線から三歩までの規定を」


 バレルが言った。


「一時、止めます」


 四歩目を踏んだ。


 背中で鳴っていた街の音が消えた。


 水車の音も、誰かが戸を開ける音も、犬の声も。木々のあいだに入ったとたん、森がそれを全部吸いこんだようだった。

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