四歩目
「私のために危険を冒すのは、規定にありません」
バレルが言ったのはそれ一度きり。
朝、倉の棚から下ろした古い水袋を、アニカは埃の立つまま作業台に投げ出した。
「規定、規定って。新しいタンク買うお金、どこにあると思ってるの。直したほうが安いの。安いほうを取るの」
「冬の入りに森を渡る見込みを計算しました」
「聞かない」
「聞いてください」
「渡れないかどうかは、行ってから決める。計算するなら水の計算して。何リットル要るの」
バレルはしばらく黙っていて、それから言った。
「……承知しました」
目の明かりはもういつもの高さにある。
「では、道中あなたを運ぶのは私の仕事です」
それきりバレルの口から止める話は出なかった。
支度には三日かけて、一日目はハッチの縁の革の張り替えにあてた。古い革はひびだらけで、閉めても隙間から光が漏れる。嵐の夜に中を守るのは閉めたハッチだけだ。新しい革は三度測ってから切り、縁に沿って膠を引いて、指で押さえたまま乾くのを待つ。乾いたところで一度閉めてもらい、中で目を開けた。縁の隙間から光は一筋も入ってこない。
小さいころはよくここに乗せてもらった。蓋が閉まると、上の小さな穴から落ちてくる一本の光の筋。それを指でつかもうとしては、つかめないまま蓋が開くのを待ったものだった。
二日目にはバレルが倉の奥から油紙の包みを出してきた。包みの載っていた棚のいちばん上にはあまり開けない箱があって、アニカの目は一度だけそっちへ行った。
包みの中は鉄の枠で、背もたれが曲がっていて、肘を置くところもある。
「座の枠です。昔、柱から柱へ人を乗せて運んだころのものです」
バレルは作業腕でハッチの中に枠を下ろし、胴の内側の金具に一つずつ留めていった。最後の金具が留まると、人が一人膝を抱えて座れるだけの席ができていた。
「乗ってみてください」
ハッチの縁をまたいで乗ると、背中が鉄の枠に当たった。窮屈ではない。
「昔は、枠なんかなくても入れたのに」
「昔のあなたは、底に座れば収まりました。……ぴったりですね」
「いつ測ったの」
「毎日です」
三日目は作業台に向かい合って水の計算をした。
「私は一日に六リットル。漏れる分を入れて七リットルです。あなたは二リットル。柱の根元には井戸がありますので、柱ごとに汲み直します。持っていくのは二日分です」
「十八リットル」
「重さは私が持ちます」
話はどこからか坂じゅうに回っていた。坂の途中の八百屋では、親父が籠から人参を五本つかみ出した。
「正気かね。冬の入りに森を渡るなんぞ」
「正気だよ」
「旦那まで連れて。……ほれ、一本は旦那の分じゃ。いや、食わんか」
パン屋のおかみさんは堅パンを袋にいっぱい。
「柔らかいのは三日でカビる。こっちのがええ」
粉挽きの親方は「やめとけ」とだけ言って、新しい水袋を一つ置いていった。
夕方には世話役のおかみさんが工房に来た。手に小さな徳利を下げている。
「祭りの新酒の残りだよ」
「お酒なんて、あたし」
「あんたが飲むんじゃないよ。よその機械から何かもらうんなら、礼の一杯くらい持っていきな」
それ以上のことは、おかみさんは言わなかった。
「……ありがと」
徳利は両手で受け取って、荷物のいちばん真ん中にしまった。
日が沈むころになって、キノコが坂を駆け上がってきた。轍の道を行き来して山菜を売る行商の息子で、アニカとは同い年なのに背は頭一つ高い。
「アニカ! 森を渡るって本当か? 世話役のおかみさんに聞いたぞ。なんで言わないんだよ」
「今、言ったよ」
「今じゃ遅いだろ!」
キノコは息を切らしたままアニカの両肩をつかんだ。笠の縁が頭の上にかぶさってくる。
二人のあいだにバレルの作業腕がすっと入ってきた。
「規定により、アニカから二歩以内に近づくときは、先に申し出てください」
「そんな規定、いつできたんだよ」
「今です」
キノコの手が肩から離れた。
「冬の入りに、荷隊の道でもないところを?」
「仕事だよ」
「バレルの、だろ」
アニカは答えなかった。
「……止めても、行くんだろ」
笠の縁を上げたキノコの目が、まっすぐアニカを見ていた。
「いいか、凪の話をするから、ちゃんと聞けよ。俺、轍の道で二回遭ってる。二回とも柱のそばだったから助かった。森がいきなり静かになるんだ。風が止んで、鳥も虫もぴたって黙る。それが凪。凪が来たら、そのあと必ず荒れる。だから近くに柱があったら走る。なかったら、その場から動かない。どっちにするか迷ったら駄目だ。迷ったやつから、呑まれる。荷隊の人が言ってた」
「走るか、動かないか」
「そう。どっちかを、すぐ。決める前、三日、工房にこもってたって聞いたぞ。アニカ、考えこむ癖あるだろ。俺、そこだけ心配で」
言ってしまってから自分の口を手でふさいだかと思うと、キノコはアニカの背中を一回ばしんと叩いた。
「帰ってきたら、うちに飯食いに来いよ。母ちゃんにごちそう作らせとくから」
「じゃあ、ごちそうにしてよ」
「するする。だから、ちゃんと帰ってこい」
出発の前の晩、アニカは作業台の釘から見積もりの紙を抜いた。
しばらく数字の面を見ていたが、やがて折ってポケットに入れた。
炉の火は灰に埋めなかった。水をかけて、消した。
「戻ったら、また火を入れます」とバレルが言った。
「あたしが入れるよ」
夜明け前に工房を出た。坂を下りて崖の下を抜ければ、街のいちばん北にある森の門だ。
門の脇にはキノコが立っている。
「早いね」
「行商の朝は、もっと早いんだよ。……べつに、見送りに来たんじゃないからな」
門番が掲げた灯りが、アニカとバレルの顔を照らした。
「どこへ行く」
「鍛冶街」
門番は灯りの下で、長いあいだ黙っていた。
「止める決まりはない。森は誰のものでもないからな」
それから門番は灯りを足もとに置き、両手で閂を外した。
「帰ってこい」
門をくぐる前に、アニカは一度だけ振り返った。
門の内側でキノコが笠の縁を少しだけ上げた。
その向こうに、崖の下の帳場の灯りと、坂の途中の八百屋の軒と、坂の上の工房の屋根が見える。煙突から煙が出ていないのは、ゆうべ火を消してきたからだ。
「行きましょう」とバレルが言った。
「うん」
門を出ればすぐに境目だ。
枯れた草の地面がある線のところで終わって、その先に並ぶ森の木々のあいだは、夜明け前の暗さよりもまだ暗い。
八歳の夏に南の畑の石垣の先で初めて境目に立ったとき、バレルが決めた。境界線から三歩まで。それより先へは行かない。
アニカは一歩、出た。
二歩。
三歩。
「境界線から三歩までの規定を」
バレルが言った。
「一時、止めます」
四歩目を踏んだ。
背中で鳴っていた街の音が消えた。
水車の音も、誰かが戸を開ける音も、犬の声も。木々のあいだに入ったとたん、森がそれを全部吸いこんだようだった。




