三本目の柱
走るか、動かないか。
どっちかを、すぐ。
「二本目まで、どのくらい」
「千二百メートルです」
「走れる?」
「走れます。乗ってください」
アニカは迷わなかった。バレルの胴に足をかけて、ハッチの中へ体を落とした。座の枠に背中が当たった。
バレルが走り出した。
脚が地面を蹴るたびに胴ががたんと揺れた。かこん、かこんの間がなくなっていた。根を越え、倒木を踏み越え、低い枝を胴で押し分けた。ハッチの縁から見える森はどこもしんと静まり返っていた。音を立てているのはバレルだけだった。
揺れのたびに足もとで水の音がした。
ぴしゃ、と跳ねる音だった。走る揺れでひびから漏れる水が増えていた。アニカの靴が濡れた。
「バレル、漏れが」
「承知しています。走ります」
開けた広場が見えた。二本目の柱だった。
バレルは広場の真ん中、柱の根元まで走りこんで止まった。
「閉めます」
返事を待たずにハッチが下りてきた。
頭の上で、張り替えたばかりの革が縁に吸いついた。光が消えた。
真っ暗になった。
しばらく何も起きなかった。
それから遠くで音がした。
みしり。
一本の木がゆっくり身をよじるような音だった。続いてめきり、ともっと近くで。
音は増えていった。何百本もの枝が一度にしなる音。根が土の中で引きずられる音。それが四方から少しずつ近づいてきて、柱の広場のまわりで渦を巻いた。
鉄の胴が、外から押されたように一度きしんだ。
アニカは膝を抱えたまま背中を座の枠に押しつけていた。
背中の鉄の向こうで、バレルの体の回る音がしていた。ふだんと同じ速さだった。
「大丈夫です」
暗闇の中でバレルが言った。
「柱の広場の中は動きません」
「知ってるよ」
「知っていても、言います」
暗闇の中で、バレルの声が少しだけ近くなった。
「夜の凪は、私が先に聞きます」
アニカは背中で聞こえるバレルの回る音を数えた。
一つ、二つ、三つ。外の音が近づいても、遠ざかっても、その数え方は変わらなかった。
百を数えたあたりで、外の音が一度大きくなった。胴がまたきしんだ。
アニカは数えるのをやめなかった。
二百を過ぎたころ、自分の息が、その数え方にそろっていることに気づいた。
外の音は夜明け近くまで続いた。
いつ止んだのか、アニカは覚えていない。気づくと細い光が一本膝の上に落ちていた。上の息の穴から入る光だった。
ハッチを開けると朝だった。
広場の中の草は何も変わっていなかった。柱も井戸も昨日のままだった。
広場の外はちがっていた。
昨日の夕方に走りこんできた方角に、見覚えのある木が一本もなかった。走ってきた根の隙間はどこにもなく、見たことのない太い木が見たことのない間隔で並んでいた。
来た道は消えていた。
「道替えです」
バレルが言った。
「森の道が組み変わります。荷隊の人たちは、嵐と呼びます」
アニカはハッチの縁に腰かけたまま、ポケットから紙を出した。
門から一本目への線はそのままでいい。柱は動かない。一本目から二本目へ引いた線の横に、こう書き足した。
道は消える。柱は残る。
右へ伸びた短い線の先の?も、消さずに残した。
バレルの足もとの草が濡れていた。
アニカは何も言わずに井戸の水を汲んで、バレルの給水口に足した。昨日よりたくさん入った。
二本目を出てすぐ、太い倒木が根の隙間をふさいでいた。
嵐で倒れたばかりの木だった。幹の割れ目から、まだ白い木の肉がのぞいていた。
「越えられる?」
「越えられます。乗ってください」
「水、漏れるでしょ」
「少しだけです」
アニカは乗らなかった。倒木の枝に手をかけて自分で越えた。向こう側に下りてから振り返ると、バレルが脚を一本ずつ持ち上げてゆっくり幹をまたいでいた。走ったときのような水の音はしなかった。
三本目の柱までは丸一日かかった。
唸りは素直に太くなった。嵐のあとの森は、どこか空気が軽かった。アニカは歩きながら紙に線を引いた。
途中でバレルが言った。
「あなたの靴の底が二ミリまですり減っています」
「なんで分かるの」
「足音で分かります。石を踏んだときの音が、四日前より高いです」
「歩けるから、いいの」
「規定では」
「いいってば」
日暮れ前に三本目の柱の広場に入った。
一本目や二本目と同じ黒い柱だった。根元に苔むした石組みの井戸があった。
バレルが柱の根元で止まった。
止まったまま、動かなかった。
「どうしたの」
目の明かりが柱の根元の地面に向いていた。草の生えた、何もない地面だった。
「ここで、あなたを拾いました」
バレルはそこで言葉を切った。
森は静かだった。凪ではなかった。ただ、静かだった。
「訂正します。ここで、あなたと出会いました」
アニカは柱を見上げた。
苔に覆われたてっぺんが、暮れかけた空に黒く立っていた。
それから足もとを見た。
草の生えた地面だった。何もなかった。布の端も、荷車の轍も。十六年の雨が全部きれいにしていた。
アニカはしゃがんで、草の上に手のひらを置いた。
冷たかった。
しばらく、そうしていた。
立ち上がって紙を出した。
二本目から三本目へ引いた線の先の、小さな丸を見た。
鉛筆を丸の横に置いた。
何か書こうとして、書かなかった。
鉛筆をしまった。
「バレル」
「はい」
「記録、ここまでだったよね」
「はい。私の受け持ちはこの柱までです。この先は、私も知りません」
アニカは柱の向こうの森を見た。
それから荷物を下ろして、桶を出した。




