案内なし
バレルが井戸の縁に作業腕をかけて、桶を下ろした。
桶は底に当たる前に、こつんと止まった。
アニカは井戸の縁から中をのぞいた。石組みの壁を太い根が一本斜めに突き破っていた。割れた石が井戸の中に落ちて水の通り道を塞いでいた。
「枯れたんじゃないね。割れてるだけ」
「石を除ければ、水は戻るはずです。三日かかります」
「そんな時間はないよ」
残りの水を量った。バレルの水袋には一日分。アニカの水袋にも一日分。四本目までは記録がない。どのくらいかかるかも分からない。
四日目の朝、三本目の柱の広場を出た。
アンテナを回すと、背中のほうで三本目の唸りが太く鳴った。前のほうは静かだった。
根を越え、枝をくぐった。ときどき止まってアンテナを回した。背中の唸りは少しずつ細くなって、やがて聞こえなくなった。前からは何も鳴らなかった。
どの柱からも遠い、長い静けさだった。
「方角は合ってる?」
「荷隊で五日という道のりからすると北東のはずです。はず、です」
「はずばっかりじゃない」
「記録がありませんので」
根のあいだに、車輪が一つ見えた。
荷車だった。半分が地面に沈んでいた。荷台を太い根が貫いて上へ伸びていた。木は荷車を抱えたまま育っていた。
荷台の脇の根に、靴が片方はさまっていた。大人の革の靴だった。木の皮が靴の口のところまでかぶさっていた。
「柱の広場の外です」
バレルが言った。
「近づかないでください」
アニカは近づかなかった。
ここで人が呑まれたんだ。
柱の広場まであと少しのところで。誰にも見つけられずに。
次にここに靴を残すのは、自分かもしれない。急にそう思った。
気を取り直して、地図を出して×を描こうとした。
鉛筆の先が紙の上で滑った。描き直した。また滑った。三度目に芯が折れた。
指が震えていた。止めようとしても止まらなかった。
バレルの作業腕が伸びてきてアニカの手首を包んだ。鉄の指は冷たかった。指の震えが少しずつ小さくなった。
アニカはバレルの胴に片手をついたまま歩き出した。
三十歩ほど行ったところで口が勝手に動いた。
「あたしが呑まれたら」
「お断りします」
「まだ何も言ってない」
「お断りします」
「……工房の道具は、キノコにあげて。使い方は知らないだろうけど、売れば冬が越せるから。地図は、裏口に来た若い衆に。あの人なら使える」
バレルは返事をしなかった。かこん、かこん、と鉄の脚だけが鳴った。
「聞いてる?」
「聞いています。記録はしません」
「記録してよ」
「しません」
バレルの作業腕は、アニカの手首を放さなかった。
アニカはそれ以上言わなかった。言わないで、歩いた。
昼を過ぎたころ、右の足もとで、ぱた、と音がした。
歩くたびに、ぱた、ぱた、と鳴った。アニカは気にしなかった。
しばらくして、足の裏がぬるりと滑った。
根に腰を下ろして靴を脱いだ。底がつま先から半分はがれて口を開けていた。靴下が赤く濡れていた。根の角で足の裏を切っていた。
「二ミリでした」
「知ってる」
アニカは布を裂いて足に巻いた。バレルが作業腕で靴を押さえ、アニカがはがれた底を紐で甲に縛りつけた。結び目がうまく締まらなかった。三回目で締まった。
顔を上げた。
鳥が鳴いていなかった。
風の音もなかった。虫の声もなかった。いつからなのか分からなかった。
バレルの目の明かりが遅れて森のほうを向いた。
「凪です」
柱は、どちらも遠かった。
「入ってください」
アニカは靴を片手に持ったままハッチによじ登った。座の枠に体を押しこんだ。
ハッチが下りてきた。光が消えた。
音は、すぐに来た。
みしり、めきり、とおとといの晩と同じ音だった。違うのは、それがすぐ外で鳴ったことだった。
根が土の中で引きずられる音が胴の真下を通った。胴が持ち上がって斜めに傾いた。アニカの肩が鉄の壁に当たった。外で何かが胴の表をこすっていった。長い音だった。
足の傷が音に合わせるように脈を打った。
アニカは膝を抱えた。背中の鉄の向こうで、バレルの体の回る音がしていた。ふだんと同じ速さだった。
「夜の凪は、私が先に聞くと言いました」
暗闇の中でバレルが言った。
「昼でしたが、聞き逃しました」
「あたしの靴のせいでしょ」
「私の耳のせいです」
「靴」
「耳です」
胴がまた傾いた。アニカはバレルの回る音を数えた。一つ、二つ、三つ。
外の音は夜明け近くまで続いた。
ハッチを開けると、知らない森だった。
昨日歩いてきた根の隙間はどこにもなかった。荷車も見えなかった。見たことのない太い木が見たことのない間隔で並んでいた。
アニカはラジオを耳に当ててアンテナを回した。
どちらに向けても何も鳴らなかった。
「方角は」
「私の中の磁石では、北東はあちらです。どれだけ流されたかは分かりません」
バレルの作業腕が一本の木を指した。
北東へ歩いた。右の足を地面につくたびに布の下で傷が開いた。昼を過ぎても何も鳴らなかった。
バレルの足が遅くなった。かこん、かこんの間が少しずつ開いていった。
「水、もうないの?」
「残り一リットルです。漏れる分を入れると、日暮れまでもちません」
アニカは自分の水袋を外した。まだ半分以上入っていた。昨日から飲む量を減らしていた。
栓を抜いてバレルの給水口に傾けた。
「やめてください。いただいた水の一割は、漏れます」
「九割は残るでしょ」
バレルは黙った。水袋が空になった。
アニカは根に腰を下ろした。
小刀を出して折れた鉛筆を削った。地図を広げた。三本目の丸から伸びた線が、白いところで途切れていた。
荷車のあったあたりに×を描いた。今度は線が曲がらなかった。
それから北東へ線を一本引いた。まだ何もない白いところへ、まっすぐ。
「四本目まで、行くよ」
「はい」
アニカは立ち上がった。もうバレルの胴には手をつかなかった。
日が傾いた。
ときどき止まってアンテナを回した。何も鳴らなかった。止まるたびに木の影が長くなった。
夜の森は歩けない。凪の前触れが闇では読めない。
四度目に止まったとき、左のずっと奥で細いものが一本鳴った。
「鳴った。左」
「はい」
唸りの太くなるほうへ歩いた。足の布はもう赤かった。木々のあいだが暗くなっていった。
木の向こうがぽっかり開けた。
柱の広場だった。
広場の草を踏んだとき、アニカの膝から力が抜けた。
しゃがみこんで柱の根元の地面に手をついた。土は冷たくて、乾いていた。動かない土だった。
助かった。
そう思ったのは、土に手をついてからだった。
背中でバレルの脚が止まる音がした。かこん、と一つ。
「生きてるね」
「はい。あなたも、私も」
柱の根元に苔だらけの井戸があった。底の水は少し濁っていた。布で二度こして、アニカは飲んだ。それからバレルの給水口に足した。
アニカは柱の根元に座ったままラジオを耳に当てた。
アンテナを回した。来たほうでも行くほうでも、細い唸りが鳴った。
「両方、聞こえる」
「はい。三本目も、四本目も。この柱を通れば、もう迷いません」
アニカは地図に丸を一つ描いた。
その横に書いた。
?
その下にもう一行書いた。
ここに来れば、迷わない。
翌日の昼、四本目の柱の広場に着いた。
広場の中に石を積んだ低い建物が二つあって、煙突から煙が上がっていた。
建物の戸が開いて、年寄りが一人出てきた。後ろにもう二人。三人とも厚い毛皮の上着を着ていた。
年寄りはアニカとバレルを見た。それから来た方角を見た。
「どっちから来た」
「南西だよ。森の門から」
「森の向こうから、案内もなしに来た者は、初めてじゃ」
後ろの二人が顔を見合わせた。若いほうが言った。
「この時期に、女の子と樽の機械の二人きりで?」
「樽じゃないよ。バレル」
年寄りの目がアニカの足の赤い布に落ちた。
「入れ。汁がある」
柱番の三人は鍛冶街の人だった。
鍛冶街の道は、この宿場の柱番の家の者が代々案内する。
「道を覚えた者が勝手に渡って呑まれる。昔、それが続いたんじゃ。だから道は案内と一緒に渡る。そう決めた」
年寄りはアニカの椀に汁をよそいながら言った。
「止めはせん。森は誰のもんでもない。じゃが、たまげた」
アニカは汁を飲んだ。熱くて、塩が強かった。
椀を持つ手がまだ少し震えていた。アニカは椀を両手で持ち直した。
三杯目をよそわれた。井戸の水は好きなだけ汲んでいいと言われた。バレルの給水口を満たし、空の水袋にも水を詰めた。
寝る前に、年寄りが革の切れ端と太い糸を置いていった。何も言わなかった。
アニカは灯りの下で割れた靴の底を継いだ。一針ずつ、きつく。




