送り
翌朝、柱番の若いのが一人上着を羽織って戸口に立っていた。
「門まで送るよ。決まりだから」
若いのは灯りもラジオも使わずに先を歩いて、根の隙間を一度も迷わず選んでいった。アニカは後ろを歩きながらその足の運びを見ていた。継いだ靴の底が、ときどききしんだ。
七日目の昼すぎ、森が切れた。
森が切れたところに平たい大きな岩が一枚地面から盛り上がっていて、その上に坂のない街があった。どこまでも平らな石の上に煙突が何十本も立っていた。
岩に刻んだ石段を上がると、鍛冶街の門があった。
「ここから先は街だ。帰りは、また宿場に声をかけてくれ」
若いのは来た道を戻っていった。
槌の音がしていた。あちこちから。かん、かん、と鉄を打つ音が重なって街全体が一つの鍛冶場のようだった。炭のにおいがした。
門をくぐると、辻の真ん中で人が集まっていた。
新しい井戸ポンプが据えられたところだった。鉄の取っ手がまだぴかぴかしていた。男が一人ポンプの前に立って、杯から酒を少しずつポンプの口に注いでいた。注ぎながら低い声で歌う唄は、音程が少し外れていた。まわりの人たちも小さく声を合わせた。
アニカの街の祭りの唄とは、節がちがった。言葉もちがった。
でも、酒を注いでいた。
組合の倉は街の北の端にあった。
倉の裏に板屋根の長い小屋があった。
その下に止まった機械が並び、外した腕が札をつけて梁から吊るされていた。どれもきれいに油を拭われて、雨のかからないところに行儀よく置かれていた。
屋根の手前に、大きな天秤が据えてあった。
「部品取り場だ」
声がした。振り返ると、さっきポンプの前で唄っていた男が立っていた。五十に手が届きそうな男で、腕に組合の印の布を巻いていた。
「俺はここの目方を量ってる。止まった機械はここで預かる。使える部品は外して、ほかの機械に回す」
「バレルと同じ型の機械が、ここにあるって聞いたの。タンクを分けてほしいんだけど」
目方のおじさんはバレルを見上げた。返事のかわりに、天秤の皿に載っていた鉄の輪を下ろして、もう一度載せた。分銅を一つ足して、一つ戻した。帳面に何か書いて、線を引いて消した。
それから屋根の奥のほうを指さした。
「樽のは、あそこにいる」
屋根の奥に胴が四つ並んでいた。
バレルと同じ形だった。
三つは外側が赤く錆びて、ハッチがゆがんで開いていた。
四つ目だけ、ハッチが閉じていた。
胴の表面に手のひらの形に拭った跡が残っていた。毎日同じところを拭いているような跡だった。
バレルが四つ目の前に立って作業腕を伸ばし、胴の継ぎ目にそっと当てて、目の明かりで胴の表面をゆっくりなぞった。
「ハッチが中を守っています。タンクは乾いています。考える線の束にも、錆がありません」
「間に合った?」
「間に合いました」
おじさんは四つ目の胴を見ないで言った。
「そいつは、俺の相棒だった」
アニカはおじさんを見た。
「十二の歳から、そいつと量ってた。そいつが量って、俺が帳面に付ける。量り方も、そいつに習った」
おじさんは天秤のほうを顎でしゃくった。
「止まったのは、雪解けのころだ。旧い型を直せる者は、この街にはいない」
それから倉の向こうの大きな煙突を見た。
「来週から冬の炉に火を入れる。そしたら、ここのは全部釘になる。タンクがいるんなら持っていけ。あいつの中で、まだ働けるとこがあるんなら」
アニカはバレルを見た。
バレルは四つ目の胴の前に立ったまま動かなかった。
「バレル。もらっていいって」
「はい。部品をいただく前に、お願いがあります」
バレルの作業腕が、四つ目の胴のハッチの縁に添えられていた。開けようとはしていなかった。ただ触れていた。
「この方を、送らせてください」
バレルは言った。
「あなたの街の作法で」
おじさんが眉を寄せた。
「送る?」
アニカはおじさんのほうを向いた。どう言えばいいのか、少し考えた。
「あたしの街じゃ、働き終えた機械を見送るの。最後に一杯注いで、使える部品を分けて、使ってた人が名前を呼んでお礼を言うんだよ。外せない胴は溶かさないで、そのまま置いとくの」
「溶かさないのか」
「溶かさないよ」
おじさんは口をへの字に結んだ。
「俺たちは止まった機械に別れは言わない。部品はほかの機械の中で働く。胴は釘になって家の梁を留める。形は変わっても、ずっと働いてる。別れる必要がないからな」
「うん」
「けどな」
おじさんは四つ目の胴の拭った跡を見た。
「そっちのやり方を止める決まりもない。やってみな」
おじさんはそれからバレルを見上げた。
「樽の。お前さんは、自分と同じ型のを送るのか」
「はい」
「平気か」
「平気かどうかは、記録にありません」
おじさんは鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。
アニカは部品取り場の屋根の下に荷物を下ろして、その真ん中から徳利を出した。
世話役のおかみさんが持たせた、祭りの新酒の残りだった。よその機械から何かもらうんなら、礼の一杯くらい持っていきな。
アニカが踏み台に乗って給水口を開けるあいだ、バレルは自分と同じ形の胴の同じ場所に、作業腕をそっと添えていた。
アニカは徳利を傾けた。
酒は細い筋になって給水口に落ちていった。音はしなかった。酒はタンクの底に少しだけ溜まった。
「最後の一杯」
アニカは言った。
次に部品を分けた。
タンクはバレルがもらう。明日、バレルを止めるときまで中に残しておくことにした。
それ以外の部品は、アニカが一つずつ外しておじさんに渡した。軸受けと小さな歯車と継ぎ目の金具。踏み台の脚が一本短くて、乗り直すたびにかたんと鳴った。おじさんは外した部品を一つずつ天秤に載せて、目方を帳面に付けた。量り直しはしなかった。札をつけて梁から吊るした。
最後に、名前を呼ぶ番になった。
アニカは一歩下がって、バレルの横に並んだ。
おじさんは胴の前に立った。
口を開いて、閉じた。
もう一度開いて、また閉じた。
バレルの目の明かりがおじさんのほうを向いた。
「同じ型の機械は、たくさんいました。私たちには番号はありました。名前は、使う人がつけるものでした」
おじさんは名前のかわりに、歌いはじめた。
昼に、辻の新しいポンプの前で歌っていた唄だった。新しい機械を迎えるときの唄。
鍛冶街には送りの唄はない。
おじさんは迎えの唄を最後まで歌った。屋根の外では槌の音が止まずに続いていて、外れた節がときどきその音に負けた。
アニカもバレルも黙って聞いていた。目の明かりが少しだけ低くなっていた。
アニカの手が、隣のバレルの胴に触れていた。いつ触れたのか、覚えていなかった。鉄は、中で回っている分だけ温かかった。
唄が終わった。
「ブンドウ」
おじさんが言った。
「長いこと、よくやってくれた」
屋根の下は静かになった。
おじさんは胴の冷たい鉄に手のひらを当てた。拭った跡の、いつもの場所だった。胴から手を離さず、長いあいだ動かなかった。
「さっきの唄はな。俺が見習いに来た日に、こいつが歌ってくれた唄だ」
屋根の手前の天秤のほうに顔を向けて、そう言った。天秤の皿には、分銅が一つ載ったままになっていた。
「それから三十六年、二人で量った。……そして今年の春、命を全うしたんだ」
アニカの手は、まだバレルの胴に触れていた。
日が傾いて、アニカは水を汲みに辻の井戸へ行った。
新しいポンプは取っ手を三回押すと冷たい水を出した。水袋が二つともいっぱいになってから、アニカはもう一度だけ取っ手を押した。
部品取り場に戻ると、バレルとおじさんが屋根の下で並んで立っていた。何か話していたようだったが、アニカが来ると二人とも黙った。
「何話してたの」
「目方の話です」とバレルが言った。
おじさんはそっぽを向いて梁の札を数えていた。
その晩は、柱番に教わった宿に泊まった。
部屋に入ると、バレルが言った。
「明日の朝、私を止めてください」
アニカは靴の紐をほどく手を止めた。
「タンクを替えるには中の水を全部抜きます。水を全部抜けば、私は止まります。止まっているあいだに替えてください」
「一日かかるよ。錆も落とさなきゃいけないし」
「はい。ですので一晩、お一人になります」
バレルの目の明かりがアニカを見ていた。
「よろしくお願いします」
アニカは紐をほどき終えて、靴を揃えて置いた。
「……分かった」
横になると、すぐに眠った。
夜中に一度目が覚めた。部屋の隅にバレルの目の明かりが点いていた。
ぽたり、と鳴った。
これで最後の夜だと、アニカは思った。
また眠った。




