一人の夜
朝、部品取り場の屋根の下でバレルの水を抜いた。
胴の下の栓を開けると、水が桶に流れ出した。最初は勢いよく、だんだん細く。
「残り二リットルです」
バレルが言った。
「一リットルです」
「半リットル」
目の明かりが少しずつ暗くなっていった。
「……おやすみなさい」
それが最後だった。
目の明かりが消えた。
栓から落ちる水の音も止んだ。
胴の中で回っていた音がいつ止まったのか、アニカには分からなかった。気づいたときには屋根の下はもう静かだった。
手順は紙に書いてあった。ゆうべ宿で、バレルが言うのを書き留めた。
一、ブンドウの胴からタンクを外す。底の酒をこぼさない。
二、バレルのタンクを外す。
三、線の束の錆を落とす。
四、新しいタンクを入れて継ぎ手を締める。
五、水を六リットル入れる。
アニカは一つずつやった。
四つ目の胴のハッチを開けた。
継ぎ手は固かった。何十年も誰も外していなかった。油を差して待って、また回した。三つ目の継ぎ手が外れたのは昼前だった。
タンクを支える金具を外して両手で抱えた。底で、ゆうべ注いだ酒が小さく揺れた。アニカは息を止めて、傾けないように胴の外へ引き上げた。思ったより軽かった。
板の上にそっと置いた。酒は、こぼれていなかった。
次にバレルのハッチを開けた。
底板を外して灯りを差しこんだ。タンクは乾いていた。ひびは底の継ぎ目に一本、髪の毛ほどの細さで走っていた。
同じ手順で外した。今度は手がもう覚えていた。
外したタンクを灯りにかざした。
底の継ぎ目のひびは、内側から見るとはっきりしていた。髪の毛ほどの線の両側が、わずかに黒ずんでいた。ひと月あまりぶんの水が、ここから少しずつ出ていったのだった。
アニカはそのタンクを、部品取り場の板の上に置いた。四つ目の胴から外したタンクと、並べて置いた。同じ形だった。片方にだけ、ひびがあった。
タンクの下の銅の線の束が見えた。
茶色く変わっているところに酢を含ませた布を当てた。目方のおじさんが分けてくれた酢だった。布をそっと動かすと茶色が少しずつ落ちて、下から銅の色が出てきた。
強くこすると線が切れる。
布を押す指に、力を入れなかった。一本ずつ。束の外側から内側へ。
日が暮れた。
灯りを足して続けた。
夜になると、部品取り場の屋根の下は冷えた。
槌の音は止んでいた。鍛冶街の人たちは、夜はちゃんと眠るらしかった。
アニカは銅の線の束から顔を上げた。
隣にバレルの胴があった。
目の明かりは点いていなかった。
「夕食、まだ食べてないよ」
アニカは言った。
返事はなかった。
「……規定値の何割って、言わないの」
返事はなかった。
胴の中で回る音もしなかった。工房の夜には、いつもその音があった。眠っているあいだも背中のほうでずっと。
アニカは堅パンを一つかじって、また布を手に取った。
夜半近く、アニカはもう一度バレルの胴を見た。
「三本目の柱のこと」
アニカは言った。
「帰ったらちゃんと聞くからね。あのとき、なんで言い直したのか」
返事はなかった。
「……やっぱり、聞かないかもね」
灯りの芯が、ちりと鳴った。
錆は夜半に落ち切った。
アニカは四つ目の胴から外したタンクをバレルの胴の中に下ろした。底の酒を揺らさないように、息を止めて下ろした。
金具を留めた。継ぎ手を三つ締めた。
締めながら、アニカの手が止まった。
灯りがタンクの奥の軸のつなぎ目を照らしていた。つなぎ目の金具が片側だけすり減って薄くなっていた。その横の小さな歯車も歯の先が丸くなっていた。
タンクとは関係のないところだった。
今すぐどうなるものでもなかった。
アニカはしばらくそれを見ていた。
それから底板を戻した。
ハッチを閉じた。
新しいタンクの底には、少しだけ酒が残っていた。
昨日ブンドウに注いだ、最後の一杯だった。
アニカはそれを捨てなかった。
その上から井戸の水を足した。
桶に一杯。二杯。柄杓を傾けて、細い筋にして給水口へ注いだ。六リットル。いつもの量だった。
注ぎ終えて栓を閉めた。
何も起きなかった。
アニカは胴の横に毛布を敷いて座った。膝を抱えて、目の明かりのあたりを見ていた。
遠くで、鍛冶街のどこかの鶏が一度だけ鳴いた。まだ早すぎる鳴き方だった。
屋根の外で、夜が少しずつ白くなりはじめた。
まぶたが重くなった。
かすかな音がした。
胴の奥のほうだった。
水が細い管を通っていく音だった。とく、とく、と。注いだ水がどこかへ巡りはじめていた。
アニカは毛布から体を起こした。
音は胴の底から上へ、ゆっくりのぼっていった。
それから別の音がした。軸が一つ回りはじめる音だった。続いてもう一つ。
胴の上の目の明かりのあたりが、ぼうっと明るくなった。
消えた。
アニカは膝を抱えた手に力を入れた。
もう一度、ぼうっと明るくなった。
今度は消えなかった。
二つの明かりがだんだん強くなって、まっすぐアニカの顔を照らした。
「おはようございます」
バレルが言った。
それから胴をゆっくり傾けた。深々とした、丁寧なお辞儀だった。起き上がって、もう一度傾けた。
「……あたし、水車じゃないんだけど」
「底に、お酒が少し残っていましたので」
バレルはもう一度、お辞儀をした。
アニカは毛布の上で膝を抱え直した。
「昨夜の夕食を、召し上がっていませんね」
「……堅パン、一個食べたよ」
「記録します。規定値の四分の一です」
「数えないでってば」
「数えます」
胴の中で何かが回っていた。いつもの速さで。
アニカは胴の下を見た。
石の床は乾いていた。
「漏れてないね」
「漏れていません」
バレルは少し間を置いた。
「冬を越せる日数を、計算しました」
「何日」
「残りの日数は、算出できません」
目の明かりがアニカを見ていた。
「十分に長いので」




