初霜
出発の朝、アニカは部品取り場の屋根の下で紙を広げた。
見積もりの紙の裏だった。
門から一本目、二本目、三本目、四本目、鍛冶街。曲がりくねった線が紙の端から端まで伸びていた。その線の脇に短い線が二本、横へ出ていた。どちらの先にも?と書いてあった。
アニカは鍛冶街の丸から門の丸まで、指で一本まっすぐになぞった。
指は二つの?の近くを通った。
「バレル。これ見て」
バレルの目の明かりが紙の上をなぞった。
「行きの道は私の見回りの順路でした。旅の道ではありません。曲がっています。四本目の柱は宿場を通るために、さらに北へ寄っています」
「?の柱をつないだら」
「柱は同じ四本です。道は、まっすぐになります」
「何日かかるの」
「三日です。荷隊の道より二日早く着きます」
「なんで荷隊は、こっちを通らないの」
「?の柱には柱番がいません。井戸も古いはずです。大勢の荷隊が水を汲めばすぐに尽きます。荷車は根も越えられません」
目の明かりが、二つの?の上で止まった。
「それに、存在を知らないだけかもしれません。私の記録にも、ありませんでしたので。……私たち二人なら、通れます」
バレルは少し黙った。
「初霜が、近いです」
アニカは紙をたたんだ。
「じゃあ、こっちにするよ」
目方のおじさんは部品取り場の屋根の下で見送った。
アニカは残りのお金を差し出した。タンクの目方の分だった。おじさんは半分だけ取った。
「半分は、送りの手伝い賃だ。俺が払う側なんだがな」
「どういうこと?」
「分からなくていい」
出がけに、アニカは屋根のいちばん奥を見た。ブンドウの胴の隣に、ひびの入ったバレルの古いタンクが置いてあった。
「あれ、溶かすの?」
「溶かせりゃな。どっちも昔の鉄だから、冬の炉でも溶けない。溶けないもんは、置いとくしかない」
おじさんはそっぽを向いて言った。それから、空になった徳利に鍛冶街の酒を詰めてくれた。
「迎えの酒だ。ちょっと辛いぞ」
「宿場の人に、よろしく言っといて。帰りは寄れないから」
「俺から言っとく」
おじさんはどの道で帰るのかは聞かなかった。
鍛冶街の門で、アニカはラジオを耳に当てた。
ゆっくり回した。南西のほうで、細い唸りが一本鳴っていた。行きに一晩転がりこんだ、二つ目の?の唸りだった。四本目の宿場に寄らなくても、まっすぐそこへ行ける。
鍛冶街を出て半日で、前の唸りが太くなった。
行きに泊まった、二つ目の?だった。
柱の広場は草が伸び放題だった。井戸の石組みは苔だらけで、桶を下ろすと底の水は少し濁っていた。布で二度こして水袋に詰めた。
バレルの給水口に足した。
「六リットルです」
「七じゃないの?」
「漏れない分、水が残ります」
アニカは水袋の残りを量った。行きなら、この時点で半分になっていた。今はまだ八分目あった。
アニカは紙を出して、鍛冶街からこの丸へ、まっすぐな線を引いた。「ここに来れば、迷わない」と書いた字が、丸の横にあった。
その夜は、二つ目の?の柱の広場で越した。
翌朝、アンテナを回すと、南西の奥で太い唸りが鳴った。三本目だった。唸りは思っていたよりずっと近くで鳴っていた。アニカは箱を耳に当てたまま、まっすぐ歩き出した。
二日目の昼、三本目の柱の広場に入った。
行きと同じ黒い柱だった。井戸は根に割られたままだった。
アニカは柱の根元を見た。草の生えた、何もない地面だった。
バレルは止まらなかった。柱のそばを、いつもの速さで通り過ぎた。
アニカは少しだけ足を止めた。
ポケットから紙を出して、三本目の丸を見た。
行きに何か書こうとして、書かなかったところだった。
鉛筆で、丸の外側にもう一つ小さな丸を描いた。二重の丸になった。
その横に書いた。
井戸、直す。
紙をしまって、バレルを追いかけた。
二日目の夕方、一つ目の?の柱に着いた。
ここの井戸は澄んでいた。
その夜は空がよく晴れていた。星が多かった。ハッチの中の座の枠で、アニカは毛布を首まで引き上げた。背中の鉄が冷たかった。
背中の鉄の向こうで、バレルの体の回る音がしていた。
ぽたりとは、もう鳴らなかった。
三日目の朝、アニカは寒さで目が覚めた。
ハッチを開けると、広場の中の草が白かった。
一本一本の葉の縁に、細かい白いものがついていた。触ると指の熱で溶けた。
息が白かった。
「初霜です」
バレルが言った。
「平年より、十五日早いです」
アニカは白い草の上に下りた。
継いだ靴の底から、冷たさが上がってきた。
バレルの胴の下の地面を見た。乾いていた。白い霜はバレルの足もとにも、同じように降りていた。
「間に合ったね」
「間に合いました」
歩き出そうとしたとき、バレルの左の膝が鳴った。
ぎ、と鈍い音だった。脚は曲がったまま、少しのあいだ伸びなかった。
「冷えると、こうなります」
バレルはそれだけ言った。二度目で、脚は伸びた。
アニカは工具袋から油差しを出した。膝の継ぎ目に三滴差した。
バレルは何も言わなかった。アニカも何も言わなかった。
昼すぎに一本目の柱を過ぎた。
夕方、森の木々のあいだに枯れた草の地面が見えた。
境目だった。
アニカは森の最後の木の横を抜けて、境目の線をまたいだ。
「境界線から三歩までの規定を」
バレルが言った。
「再開します」
街のほうへ一歩。
二歩。
三歩。
四歩目を踏んだ。
水車の音がした。
誰かが戸を開ける音も。犬の声も。門のほうで、誰かがアニカの名前を呼んでいた。キノコの声だった。
森の門では、門番が閂を外して待っていた。
「帰ったか」
「帰ったよ」
「……早かったな」
門をくぐると、門番はバレルの足もとを見た。乾いた石畳だった。
それから、門の内側に立っているキノコをあごで示した。
「キノコが、毎日ここまで来とった」
門番は閂を掛け直した。
「おかえり!」
キノコが駆け寄ってきて、アニカの両肩をつかんだ。笠の縁が、また頭の上にかぶさった。
バレルの目の明かりが、キノコの手もとに向いた。
「申し出が、ありませんでした」
「おかえりに申し出がいるかよ」
「バレルも! ちゃんと帰ってきた!」
「約束だから」
「毎日、ここまで来てたって」
「たまたま通り道だっただけ。……毎日、たまたま」
キノコはそれから坂の上まで、アニカの横でずっとしゃべっていた。市場の芋の値が上がったこと。おかみさんが三回、工房の戸を見に行ったこと。アニカは半分くらい聞いていた。
世話役のおかみさんに徳利を返した。
おかみさんは徳利を振って、中で酒が鳴るのを聞いた。
「空で返ってくると思ってたよ」
「向こうの人が詰めてくれたの。迎えの酒だって。ちょっと辛いぞって」
おかみさんはしばらく徳利を見ていた。
「礼の一杯は、注げたのかい」
「……うん。礼じゃなくて、送りの一杯になったけど」
おかみさんはそれ以上は聞かなかった。
キノコの家へご飯を食べに行くのは、三日後ということになった。
工房は冷えきっていた。作業台にうっすら埃が積もっていた。
釘には何も刺さっていなかった。
見積もりの紙は、ずっとポケットの中にあった。
アニカは紙を出して広げた。
数字の面ではなく地図の面を表にして、釘に刺した。
曲がった線と、まっすぐな線。二つの?の横の丸。三本目の、二重の丸。
日が暮れてから、アニカは炉に火を入れた。
「今夜は、早く休んでください」とバレルが言った。「旅のあいだ、睡眠が規定値を下回り続けました」
「……今夜は、言うこと聞いてあげる」
アニカは炉の前に毛布を敷いて、横になった。火のはぜる音と、バレルの体の中で何かが回る音を聞いているうちに、眠った。
目を覚ますと、毛布の脇に布の包みが置いてあった。
包みを開けると、底に鉄の鋲を打った革の靴が一足、きちんと揃えて入っていた。
アニカは履いてみた。
ぴったりだった。
「いつ測ったの」
「十六年、毎日見ていますので」
バレルは炉の火を見ていた。
「鍛冶街で、頼んでおきました」
その朝、アニカは新しい靴で坂を下りた。
石畳を踏むたびに鋲が鳴った。かつ、かつ、と。
その横でバレルの鉄の脚が、かこん、かこん、と鳴った。
二つの足音が、並んで坂を下りていった。




