見積もり
「点検は、規定の日ではありません」
「知ってる。開けて」
「次の点検は十二日後です」
「開けてってば」
朝だった。アニカは工具箱を作業台に置いてバレルの前に立っていた。
バレルの足もとには雑巾が敷いてあった。夜のうちに敷いたらしい。雑巾は重く濡れていた。バレルの胴から漏れた水だった。
しばらくバレルの目の明かりがアニカを見ていた。
それから胴の天辺のハッチが、ぎ、と小さく鳴って自分で開いた。
「どうぞ」
アニカは踏み台に乗ってハッチの中に灯りを差しこんだ。
胴の上半分は空洞になっている。ふだんは荷物を入れる場所だ。その底板を外すと下半分にバレルの体の中身が詰まっていた。回る軸と歯車と、銅の線の束。真ん中に丸い水のタンクがある。
バレルは水と光で動く。水はここに入る。
灯りを近づけた。
タンクの底の継ぎ目に、髪の毛ほどの線が一本走っていた。
線に沿って水がにじんでいた。にじんだ水は底をつたって、タンクの下の銅の線の束に落ちていた。束の外側がところどころ茶色く変わっていた。
「ひびだね」
「ひび割れです」とバレルが言った。「言い直しても、意味は変わりませんが」
「いつから」
「記録では二十一日前に最初の一滴を確かめました」
「二十一日も」
「申し上げるべきでした」
アニカは答えなかった。灯りを持ち替えて銅の線の束を指でなぞった。茶色いところを爪でこすると粉が落ちた。
「この線、何するところ?」
「私の考える線と、覚えている線です。私はこの束で考えています」
昼まで、アニカは樹脂を練った。
松から採った樹脂に灰を混ぜて火で柔らかくした。バレルの水をひびの下まで抜いて継ぎ目を乾かした。全部は抜かない。全部抜けばバレルは止まる。
乾いた継ぎ目に樹脂を厚く塗った。外から当て板もした。
夕方、水を入れ直した。ひびの上の樹脂はつやつやと固まっていた。にじみは止まっていた。
「止まったね」
「止まりました」
その晩は、ぽたりの音がしなかった。
翌朝、雑巾がまた濡れていた。
ハッチを開けると、樹脂がひびの真上でぱっくり浮いていた。
「水を入れるとタンクはわずかに膨らみます。抜くと縮みます。私が動くたびに、それをくり返します」
バレルの声はいつもと同じだった。
「樹脂はその動きについてこられません。タンクは昔の鉄です。今の炉では溶けないので、継ぐこともできません」
「じゃあ、どうするの」
「同じ型のタンクに丸ごと替えるしかありません」
「待ったら、どうなるの」
バレルは少し黙った。
「漏れた水は線の束を錆びさせます。錆は奥へ進みます。それだけなら、まだ時間があります」
「それだけなら?」
「寒くなると、ひびの中の水が凍ります。凍れば水はふくらみます。ふくらめばひびが割れて広がります」
作業腕が、自分の胴の底をそっと叩いた。
「平年の初霜まで、あとひと月です。霜が降りれば、ひびの中の水が凍ります。そこから先は、計算が成り立ちません」
アニカはタンクの図を紙に描いて、組合の窓口へ持っていった。窓口は崖の下の帳場にある。
帳場の前には、荷隊の男たちが列を作っていた。川下の村へ行く荷隊が、冬の前で最後になる便を明日出すのだという。森を渡らない道だった。
列は進んでいなかった。
帳場の軒下の大きな台秤の前で、組合の職人が一人しゃがみこんでいた。荷を載せる板が、何を載せても沈まない。針は目盛りの端で止まったまま動かなかった。
「目方が量れなきゃ、荷札が出せない。荷札がなきゃ、荷隊は出せない」
「明日が最後の便なんだぞ」
荷隊の男たちが口々に文句を言った。職人は顔を上げずに答えた。
「修理場の親方にも見せた。中のばねがいかれてる。替えのばねは春だ」
アニカは台秤を見た。それからバレルを見た。
バレルの目の明かりが、台秤の脚の継ぎ目で止まった。琥珀色の筋が一本、垂れて固まっていた。
「見せて」とアニカは言った。
職人が振り返った。
「子どもの触るもんじゃない。親方が春まで待てと言ったんだ」
「直せないかどうかは、開けてから決める」
側板を外すと、中に鉄の棹が横に渡してあった。支点の刃のところに、脚の筋と同じ色のかたまりがこびりついていた。
「ほら、ここ。樽を量るたびに、こぼれた樹脂油が垂れて、刃の上で固まったの。刃が動けないから棹が傾かない。ばねは生きてるよ」
職人は口を開けたまま、アニカの手もとを見ていた。
小刀の背でかたまりを削ぎ落とした。
「よしよし、重かったね。お姉さんがもうすぐ楽にしてあげるからね」
「銘によれば、その台秤はアニカより六十二年年上です」とバレルが言った。
列の男たちが顔を見合わせて、目尻を下げた。小刀を持つ手が止まった。
「うっ……うるさい!」
刃を布で拭いて、受けに油をひと差しした。側板を戻した。
荷隊の男が、塩の袋を板に載せた。
板が沈んだ。針がすっと回って、止まった。
アニカは台秤の側板を、手のひらで二度、軽く叩いた。
「……動いた」
列のうしろで誰かが口笛を吹いた。職人は針とアニカを見比べて、何も言わずに荷札の束を取りに帳場へ入った。
列が動きはじめた。誰も森の話はしなかった。荷の目方と、塩の値段の話だけをしていた。
アニカの番が来るまで、バレルは列の外の柱の横に立って待った。濡れた跡が足もとに一つできた。アニカは自分の靴で、その上を踏んで立った。
窓口の男は、さっきの台秤のほうを一度だけ見た。それからアニカの描いたタンクの図を見て、帳面を三冊めくり、紙に数字を書いて窓の下から差し出した。
アニカはその数字を見た。工房の一年の稼ぎを三つ足しても届かなかった。
「よその街から探して運んでもらうことになる。どこに残っているかも、まだ分からない」
「いつ来るの」
「春だ。荷隊が出るのは、雪が溶けてからになる」
「春じゃ間に合わないの。初霜までに直さないと、いけないの」
男はアニカの後ろに立っているバレルを見た。それから帳面に目を落とした。
「冬の入りの森はよく荒れる。道が組み変わるのが、ほかの季節の何倍も多い。荷隊ごと呑まれる。帳面に四十年分の数字がある。この時期に出た荷隊が半分戻らなかった年もある」
男は帳面を閉じた。
「だから冬の入りは、森を渡る荷隊は出さない。誰に頼まれてもな」
言いたくないことを言っている声だった。
「すまんな」
アニカは見積もりの紙を折ってポケットに入れた。
帳場を出るとき、男が窓の向こうから声をかけた。
「その図、置いていきな。探す役の連中に見せて、できるだけ当たってみる。……春になったら、いちばんに知らせるからな」
アニカは振り返らずにうなずいた。
帰り道の坂の途中で、アニカは一度だけ足を止めた。
坂の上の工房の屋根が見えていた。煙突から細い煙が上がっていた。朝、炉の火を灰に埋めてきたままだった。
かこん、かこん、とバレルが追いついてきた。
「行きましょう。火が落ちます」
「うん」
工房に入ってアニカは見積もりの紙を作業台の釘に刺した。数字の面を表にして。
それから炉の火をかき起こした。
夜、夕食の皿が片付いたあとでバレルが言った。
「ひと月あれば、記録の整理が終わります」
「何の整理」
「あなたの記録です。十六年分あります。あなたが一人で困らないように要るものだけを書き出します。人参の値段や粉挽きの水車の歯の数や」
アニカは返事をしなかった。
軸受けを磨く手を速めた。布の下で、軸受けが少し鳴った。
「ですから」
バレルの目の明かりが、いつもの高さでアニカを見ていた。
「では、冬まで、ご一緒します」




