結露
地鳴りがした。
遠い。耳より先に、足の裏が聞いた。森の奥のどこかで道が組み変わっている音だった。
アニカは罠の軸から顔を上げた。
「今のは北の奥です。ここまでは来ません」
バレルが言った。胴の上の目の明かりが北の木々のほうへ向いて、すぐに手もとへ戻った。
「知ってるよ。手、止めないで。そっち押さえてて」
猟師の小屋は森の境目のすぐ手前にあった。
跳ね上げ式の罠が三つ、ばねが弱って獲物を逃がしていた。組合の修理場に持っていけば運び賃だけで罠がもう一つ買える。だから声がかかるのは坂の上の修理屋のほうだった。
一つ目のばねは錆びて折れかけていた。アニカは折れた先を炉で焼き直して巻き直した。二つ目は掛け金の角が丸くなっていた。やすりで角を立てた。三つ目は軸が曲がっていた。
「この軸、どっち向きに曲がってる?」
「北東に一ミリです」
「一ミリね」
アニカは軸を作業台の溝に当てて、木槌で二度叩いた。
「零・二ミリ。もう一度」
もう一度叩いた。
「まっすぐです」
罠の口を閉じて開けた。がちん、と気持ちのいい音がした。
猟師は燻製を一包みと銅貨を六枚くれた。
アニカは銅貨だけつまんで、包みを返そうとした。猟師は笑って、その手を押し戻した。
「……じゃあ、これもね」
「助かったわ。あんたが来てくれんと、冬の肉がなくなるけえ」
帰りぎわ、バレルが猟師に頭を下げた。
「井戸を、お借りできますか」
猟師はあごで小屋の裏を示した。バレルは裏の井戸で桶に二杯汲んで、背中の給水口に足した。
アニカは道具を袋にしまいながら、それを見ていた。
朝、工房を出る前にも足していた。昼に境目の小川でも足していた。
「今日、三回目だよ」
「歩きましたので」
「いつもと同じだけしか歩いてないよ」
「秋は空気が乾きます」
猟師が、小屋の軒から森のほうを見上げた。
「この秋は森がやけに静かじゃの。鳥も少ない。こういう年は冬の入りに大きく荒れる。じいさんの代から、そう言うんじゃ」
「荒れたら、また罠を見に来るよ」
「そん時は頼むわ」
帰り道は、もう薄暗かった。
バレルが目の明かりを前に向けて坂の石畳を照らした。かこん、かこん、と鉄の脚が鳴った。いつもの音だった。
「夕食の燻製は半分にしてください。塩が多すぎます」
「半分じゃ足りないよ」
「残りの半分は明日の朝に回します。記録では、あなたが朝食を抜く確率は四割です」
「数えないでってば」
「数えます」
坂の途中で八百屋の親父が店じまいをしていた。人参の籠を引っこめながら、バレルの脚を見下ろした。
「旦那、今日はやけに足音が湿っとるの」
「秋ですので」
バレルは止まらずに答えた。
坂を上りきる手前で、アニカは振り返った。
石畳の上に、バレルの足跡が点々と黒く残っていた。濡れた跡だった。三歩ごとに一つ、ちょうど胴の真下あたりに。
アニカは前を向いた。
「どうかしましたか」
「なんでもないよ」
工房の戸の前で、バレルが止まった。
アニカが鍵を回すあいだ、バレルはいつものように戸の脇に立って待った。
戸を開けて振り返ると、バレルの足もとの石畳が黒く濡れていた。手のひらほどの水たまりだった。
「バレル。水、垂れてるよ」
「結露です」
返事は早かった。
「日が落ちて外の空気が急に冷えました。胴の内側に露がつきます。毎年この季節には起きます」
アニカは空を見た。雲はなかった。星が出はじめていた。霧も出ていなかった。
「……ふうん」
「拭いておきます」
バレルは作業腕で布を取って石畳を拭いた。拭き方がいつもより丁寧だった。
燻製は半分にされた。
残りの半分は油紙に包まれて棚の上に置かれた。手の届かない高さだった。
アニカは堅パンをかじりながら作業台でばねの余りを分けた。バレルは隅のいつもの場所に立って昼の仕事の記録をつけていた。
「明日は粉挽きの水車の歯を見に行く日です」
「覚えてるよ」
「歯は十八枚です。うち三枚が欠けています」
「それも覚えてる」
「それから靴の紐が」
「切れかけてるのも知ってるってば」
寝る前に、バレルが土間の水桶から給水口に水を足した。
柄杓で二杯。アニカは寝床に腰かけて靴を脱ぎながら、それを数えた。
今日、四回目だった。
「早く寝てください。明日は早いです」
「分かってるってば」
いつもどおりの夜だった。
アニカは寝床に入って灯りを吹き消した。
夜中に目が覚めた。
何の音で目が覚めたのか、すぐには分からなかった。工房は暗かった。炉の火は灰に埋めてある。外で風が少し鳴っていた。
それから聞こえた。
ぽたり。
工房の隅からだった。
しばらくしてもう一度。
ぽたり。
水が水に落ちる音だった。
アニカは寝床の中でじっとしていた。
隅のほうに小さな明かりが二つ並んでいた。
バレルの目の明かりだった。夜は落としているはずの明かりが点いたままだった。工房の暗がりの中で、それは動かずに、濡れた自分の足もとばかりを照らしていた。
アニカは目を閉じた。
眠ったふりは長くは続かなかった。
ぽたり、とまた鳴った。




