森は音を食う
八歳の夏、アニカはまだ、森の怖さを知らなかった。
南の段々畑の婆さんの小屋には、小さいころから何度も通っている。山羊の乳をもらいに行くのは、アニカとバレルの仕事だった。婆さんの畑の向こうには、いつも森が見えた。黒い木の壁で、いつもそこにあって、いつも黙っていた。
噂も知っていた。街の子はみんな知っている。森は道を変える。森に入った者は、帰らないことがある。帰らないことを、この街では「呑まれる」と言う。
でも、畑の石垣から先へは、行ったことがなかった。バレルが行かせなかった。石垣の向こうは、もう森の境目だという。
その日、アニカは言った。
「今日は、あたし一人で行けるもん」
「却下します」とバレルが言った。
「なんでよ」
「境界線に近いからです」
「いつも行ってるもん」
「私と行っています」
バレルがその声で言うときは、何を言っても無駄だった。アニカは空の桶を抱えて、先に歩き出した。後ろから、鉄の脚が砂利を踏む音がついてきた。
婆さんは畑で芋の蔓を返していて、桶に乳を満たしてくれて、それから飴を一つくれた。
帰り道、アニカは足を止めた。
畑の石垣が切れた先に、いつもの森があった。今日は、それがやけに近く見えた。
幹と幹が肩を組むように立ち並んで、昼間なのに、その奥は夕方より暗い。十歩先が見えない。二十歩先は、たぶん夜だ。
アニカは、気がつくと石垣を越えていた。
「アニカ」
バレルの声がした。止まれ、とは言わなかった。代わりに、隣に並んだ。
「境界線から三歩まで。規定です」
「きてい?」
「私の決まりごとです」
三歩、近づいた。
森は、静かだった。静かというより、音が無かった。街の音——ポンプも、荷車も、人の声も、ここまで届いているはずなのに、森の前に立つと、ぜんぶ薄い。吸われている。
「音、どこ行っちゃうの?」
「森が食べます」
バレルは当たり前のことのように言った。
「本当は、木の幹と葉っぱが吸っています。でも街の人は、森が音を食べる、と言います。私も、その言い方が好きです」
そのとき、足の裏が震えた。
地面の底から、低い音が来た。雷に似て、雷より長い。森の奥の、ずっと奥で、とても大きなものが寝返りを打ったような音だった。
「……かみなり?」
「道替えです。森の奥で、道が入れ替わっています」
「道が、かわるの?」
「はい。昨日あった道がなくなって、なかった道ができます。ただ、帰り道がなくなるわけではありません。立っている場所ごと、森が動きます。帰り道ではなく、帰る人が、なくなります。呑まれる、というのは、そのことです」
呑まれる。噂の言葉が、足の裏の震えとつながった。アニカは一歩下がった。下がってから、聞いた。
「じゃあ、森って入っちゃだめなの?」
「入れます」
バレルは作業腕を上げて、森の上を指した。
木々の頭の、ずっと先に、黒い塔が一本、突き出ていた。骨組みだけの細い塔。蔦が絡んで、立ち枯れた巨木のようにも見える。
「柱です」
「はしら?」
「あの柱のまわりだけは、道が入れ替わりません。旅をする人は、柱から柱へ歩いて、夜は柱の下で眠ります」
「なんであそこだけ、かわらないの?」
「分かりません」
即答だった。アニカはバレルを見上げた。「分からない」と言うのを、初めて聞いた気がした。
「わかんないのに、頼っていいの?」
「はい」
バレルの目の明かりが、アニカの方を向いた。
「分からないまま、頼ってよいものもあります」
風が、止んだ。
気づいたのは、額の汗が急に冷えなくなったからだ。畑の方で鳴いていた虫が、ぜんぶ黙った。世界から、音がもう一段、消えた。
バレルが動いた。
速かった。アニカの体は作業腕に抱え上げられて、次の瞬間には石垣の内側にいた。バレルはそのまま畑の道を街の方へ走った。かこんかこんかこん、と歩行脚が今まで聞いたことのない速さで鳴った。
「バレル!?」
「凪です」
「なぎ?」
「嵐の前に、森は一度、静かになります。境界線でも、近すぎます」
婆さんの小屋の前まで来て、バレルは止まった。婆さんは縁側で茶を飲んでいて、慌てる様子もなく、森の方へ顎をしゃくった。
「鳴るよ」
鳴った。
さっきの地鳴りとは違った。近かった。みしり、めきり、と、とても大きな木のきしむ音が重なって、何百もの枝が一斉にしなる音がして、それがしばらく続いて、ふいに止んだ。
風が戻った。虫が鳴き出した。
アニカはバレルの腕の中から、森を見た。
石垣の先の、さっきまで自分が立っていたあたり。その向こうの木の壁が——並びが、変わっていた。覚えたての景色だったから、分かった。さっき肩を組んでいた幹たちが、別の組み方をしていた。道のなかった場所に、暗い隙間が口を開けていた。
「……森って、生きてるの?」
「いいえ」
バレルは、アニカを地面に下ろしながら言った。
「生きてはいません。ただ、そういうものです」
そういうもの。
八歳のアニカには、それで十分だった。世界には、そういうものがある。分からないまま頼っていい柱があって、分からないまま近づいてはいけない森がある。
その夜、アニカは眠れなかった。
目を閉じると、足の裏の震えと、虫が黙った瞬間の静けさが戻ってきた。
「バレル」
「はい」
「なぎって、つぎはいつ来るの?」
「分かりません。ですが」
バレルが、工房の隅から寝台のそばまで歩いてきて、止まった。
「夜の凪は、私が先に聞きます。あなたより先に。必ず。来たら、私が起こします。ですから、眠ってください」
「……ねむれないもん」
バレルは少し黙った。それから、胸のあたりから、低い声が流れてきた。坂の下の子どもらが、縄跳びで歌っている数え唄だった。ひとつ、ふたつ。バレルの声で聞くと、縄跳びの歌も、ずいぶんゆっくりだった。
いくつまで数えたのかは、覚えていない。
眠るまで、バレルの目の明かりは点いていた。
朝、目を開けたときも、まだ点いていた。
あの明かりがもう一度、一晩じゅう点いていたのは、八年後の秋のことだった。




