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修理屋の少女は、育ててくれた旧式ロボットを直しに迷いの森を渡る  作者: 歯車
森渡り

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4/14

森は音を食う

 八歳の夏、アニカはまだ、森の怖さを知らなかった。


 南の段々畑の婆さんの小屋には、小さいころから何度も通っている。山羊の乳をもらいに行くのは、アニカとバレルの仕事だった。婆さんの畑の向こうには、いつも森が見えた。黒い木の壁で、いつもそこにあって、いつも黙っていた。


 噂も知っていた。街の子はみんな知っている。森は道を変える。森に入った者は、帰らないことがある。帰らないことを、この街では「呑まれる」と言う。


 でも、畑の石垣から先へは、行ったことがなかった。バレルが行かせなかった。石垣の向こうは、もう森の境目だという。


 その日、アニカは言った。


「今日は、あたし一人で行けるもん」

「却下します」とバレルが言った。

「なんでよ」

「境界線に近いからです」

「いつも行ってるもん」

「私と行っています」


 バレルがその声で言うときは、何を言っても無駄だった。アニカは空の桶を抱えて、先に歩き出した。後ろから、鉄の脚が砂利を踏む音がついてきた。




 婆さんは畑で芋の蔓を返していて、桶に乳を満たしてくれて、それから飴を一つくれた。


 帰り道、アニカは足を止めた。


 畑の石垣が切れた先に、いつもの森があった。今日は、それがやけに近く見えた。


 幹と幹が肩を組むように立ち並んで、昼間なのに、その奥は夕方より暗い。十歩先が見えない。二十歩先は、たぶん夜だ。


 アニカは、気がつくと石垣を越えていた。


「アニカ」


 バレルの声がした。止まれ、とは言わなかった。代わりに、隣に並んだ。


「境界線から三歩まで。規定です」

「きてい?」

「私の決まりごとです」


 三歩、近づいた。


 森は、静かだった。静かというより、音が無かった。街の音——ポンプも、荷車も、人の声も、ここまで届いているはずなのに、森の前に立つと、ぜんぶ薄い。吸われている。


「音、どこ行っちゃうの?」

「森が食べます」


 バレルは当たり前のことのように言った。


「本当は、木の幹と葉っぱが吸っています。でも街の人は、森が音を食べる、と言います。私も、その言い方が好きです」




 そのとき、足の裏が震えた。


 地面の底から、低い音が来た。雷に似て、雷より長い。森の奥の、ずっと奥で、とても大きなものが寝返りを打ったような音だった。


「……かみなり?」

「道替えです。森の奥で、道が入れ替わっています」

「道が、かわるの?」

「はい。昨日あった道がなくなって、なかった道ができます。ただ、帰り道がなくなるわけではありません。立っている場所ごと、森が動きます。帰り道ではなく、帰る人が、なくなります。呑まれる、というのは、そのことです」


 呑まれる。噂の言葉が、足の裏の震えとつながった。アニカは一歩下がった。下がってから、聞いた。


「じゃあ、森って入っちゃだめなの?」

「入れます」


 バレルは作業腕を上げて、森の上を指した。


 木々の頭の、ずっと先に、黒い塔が一本、突き出ていた。骨組みだけの細い塔。蔦が絡んで、立ち枯れた巨木のようにも見える。


「柱です」

「はしら?」

「あの柱のまわりだけは、道が入れ替わりません。旅をする人は、柱から柱へ歩いて、夜は柱の下で眠ります」

「なんであそこだけ、かわらないの?」

「分かりません」


 即答だった。アニカはバレルを見上げた。「分からない」と言うのを、初めて聞いた気がした。


「わかんないのに、頼っていいの?」

「はい」


 バレルの目の明かりが、アニカの方を向いた。


「分からないまま、頼ってよいものもあります」




 風が、止んだ。


 気づいたのは、額の汗が急に冷えなくなったからだ。畑の方で鳴いていた虫が、ぜんぶ黙った。世界から、音がもう一段、消えた。


 バレルが動いた。


 速かった。アニカの体は作業腕に抱え上げられて、次の瞬間には石垣の内側にいた。バレルはそのまま畑の道を街の方へ走った。かこんかこんかこん、と歩行脚が今まで聞いたことのない速さで鳴った。


「バレル!?」

「凪です」

「なぎ?」

「嵐の前に、森は一度、静かになります。境界線でも、近すぎます」


 婆さんの小屋の前まで来て、バレルは止まった。婆さんは縁側で茶を飲んでいて、慌てる様子もなく、森の方へ顎をしゃくった。


「鳴るよ」


 鳴った。


 さっきの地鳴りとは違った。近かった。みしり、めきり、と、とても大きな木のきしむ音が重なって、何百もの枝が一斉にしなる音がして、それがしばらく続いて、ふいに止んだ。


 風が戻った。虫が鳴き出した。


 アニカはバレルの腕の中から、森を見た。


 石垣の先の、さっきまで自分が立っていたあたり。その向こうの木の壁が——並びが、変わっていた。覚えたての景色だったから、分かった。さっき肩を組んでいた幹たちが、別の組み方をしていた。道のなかった場所に、暗い隙間が口を開けていた。


「……森って、生きてるの?」

「いいえ」


 バレルは、アニカを地面に下ろしながら言った。


「生きてはいません。ただ、そういうものです」


 そういうもの。


 八歳のアニカには、それで十分だった。世界には、そういうものがある。分からないまま頼っていい柱があって、分からないまま近づいてはいけない森がある。




 その夜、アニカは眠れなかった。


 目を閉じると、足の裏の震えと、虫が黙った瞬間の静けさが戻ってきた。


「バレル」

「はい」

「なぎって、つぎはいつ来るの?」

「分かりません。ですが」


 バレルが、工房の隅から寝台のそばまで歩いてきて、止まった。


「夜の凪は、私が先に聞きます。あなたより先に。必ず。来たら、私が起こします。ですから、眠ってください」

「……ねむれないもん」


 バレルは少し黙った。それから、胸のあたりから、低い声が流れてきた。坂の下の子どもらが、縄跳びで歌っている数え唄だった。ひとつ、ふたつ。バレルの声で聞くと、縄跳びの歌も、ずいぶんゆっくりだった。


 いくつまで数えたのかは、覚えていない。


 眠るまで、バレルの目の明かりは点いていた。


 朝、目を開けたときも、まだ点いていた。




 あの明かりがもう一度、一晩じゅう点いていたのは、八年後の秋のことだった。

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