水車の止まった朝
朝の街には、決まった音がある。
井戸ポンプの軋み。森口へ下りていく荷車。パン屋の窯の薪が爆ぜる音。そして坂の下から一日中聞こえてくる、粉挽き水車の、ごう、ごう、という回り音。
その朝は、ひとつ欠けていた。
アニカは寝台の上で目を開けて、天井を見たまま、耳を澄ませた。
「バレル。水車」
「はい。三十分前から停止しています」
「起こしてよ」
「今月のあなたの睡眠は、規定値を四十時間下回っています。優先順位の判断です」
言い合う時間が惜しかった。アニカは工具袋をつかんで、出がけに水桶の水を、バレルの背中の給水口へ流し込んだ。
水車小屋の前には、もう人垣ができていた。
粉挽きの親方が、濡れた髪のまま水路の縁で怒鳴っている。秋祭りの前は、一年でいちばん粉が要る時期だ。街じゅうの麦が、この水車の順番を待っている。
「軸が折れたか」
「折れとったら音で分かる」
「なら歯だ。歯車に何か噛んだんだ」
大人たちの声を抜けて、アニカは水路に降りた。誰かが何か言ったが、親方が黙らせた。あの娘に見せろ、と言ったのが聞こえた。見せてどうする、と言ったのも聞こえた。
聞こえなかったことにした。
水車の軸受けに聴診棒を当てる。水は止めてある。アニカが目を閉じると、水路の上からバレルが言った。
「この水車は百二十年前の規格です。主輪の歯数は四十八。樫材の差し歯式」
「差し歯式?」
「歯が欠けたら、その歯だけ替えられる造りです。先人の設計です」
アニカは主輪に沿って這った。あった。歯が三枚、根元から潰れている。潰した犯人も、まだそこに居た。荒れのあとの増水が運んできた流木が、輪と受けの間に、楔のように食い込んでいた。
「流木。歯が三枚」
上から親方の呻き声がした。
「樫の挽き材なんぞ、うちにはねえぞ。取り寄せたら祭りが終わっちまう」
「古いのでいいよ」
アニカは言った。
「百二十年もったんだから、古い樫の方が信用できる」
それから、水路の上の親方を見上げた。
「昼の鐘までに回すよ」
「残り、三時間と十二分です」とバレルが言った。
「鐘まで、でいいってば」
工房のガラクタの山から、樫の端材が三本出た。昔、誰かが置いていった壊れた荷車の、引き棒の折れ残りだ。
水車小屋の床に材を据えて、アニカは鑿を握った。
「歯形、読んで」
「全長二二〇ミリ。歯先の幅、四二ミリ。根元で四八ミリ」
バレルが読み上げる。アニカが削る。
「歯先、あと一ミリ」
削る。
「過ぎました」
「過ぎてないってば」
「〇・五ミリ、過ぎています」
「噛み合わせで馴染む分。差し歯は気持ち太く作るの」
バレルは三秒黙った。
「……記録します。『気持ち太く』」
「単位にしないでよ」
削っては当て、当てては削る。小屋の戸口に子どもたちが鈴なりになって、親方は腕を組んだまま一言も言わなくなった。木屑の匂いと、川の音。三枚目を削り終えたとき、日はもう高かった。
差し歯を打ち込む。楔を打つ。流木の食い込みを外して、受けを拭いて、油を差す。
「水、入れて」
親方が水門の栓を抜いた。
水が走る。輪が、重たげに半周して、止まりかけて——ごう、と回った。
ごう、ごう、ごう。
坂の上で、昼の鐘が鳴り始めた。
朝から欠けていた音が、坂の下に戻った。人垣が湧いた。親方はアニカの頭をつかんで、ぐしゃぐしゃに撫でた。やめてほしかった。
工賃は言い値で払われた。そのうえ粉を一袋、押し付けられた。
「いらないよ」
「貰っとけ。祭りのパンは、おまえの削った歯で挽いた粉になる」
「……じゃあ、一袋だけ」
親方は笑って、もう一袋増やそうとした。アニカは粉を抱えて逃げた。
帰り道、バレルが水車を振り返って、胴を傾けた。深々とした、丁寧なお辞儀だった。
「何それ、急に」
「同業への礼儀です」
「同業?」
「彼とは昨年、親睦を深めました」
「一晩中お辞儀してただけでしょ」
「親睦です」
「粉袋、持ちます」
「いいよ。もうすぐだから」
坂を上る。背中の粉袋は重くて、温かい。
井戸ポンプ、荷車、パン屋の窯、水車。
いつも通りの、街の音。




