拾った日
機械に酒を注ぐ街だった。
秋の終わりに新酒が上がると、一年働いた機械たちに、人と同じものを振る舞う。森の見える祠に一本、井戸ポンプに一杯、粉挽きの水車に一杯。誰が始めた風習なのかは、誰も知らない。やめ方も、誰も知らない。
広場の隅の段で、アニカが揚げ芋の一つ目をかじったとき、地鳴りがした。
遠い。耳より先に、足の裏が聞いた。広場の笑い声がいっぺんに止んで、誰もが同じほうを向いた。崖の向こうの、どこまでも続く暗い森のほうだ。
「北の奥だ」
誰かが言った。
「ここまでは来ねえよ」
別の誰かが言った。それで笑い声が戻った。戻ったが、さっきより少しだけ大きかった。
アニカは膝の皿に目を戻した。揚げ芋はあと二つ。熱いうちに食べる。それが今夜のアニカの仕事だった。
広場の端の共同井戸の前で、人だかりが動かなくなっていた。古い手押しのポンプで、坂の家の半分がこの水で暮らしている。世話役のおかみさんが、新酒の桝を持ったまま困った顔で立っていた。
「夏の終わりから水が上がらないんだよ。組合の修理場は、革を替えなきゃ駄目で、部品は春までだって」
「動かないもんに注いでもなあ」
「注がないのも、かわいそうだろう」
桝の新酒が、宙で止まっていた。
アニカは芋の皿を段に置いて、バレルを見た。
バレルの目の明かりが、ポンプの胴をなぞった。作業腕の先で胴を軽く叩いて、音を聞く。
「下の弁の革が、乾いて反り返っています。上げた水が、全部落ちています」
「替えなくていい?」
「反りを直せば、春までは持ちます」
「直せないかどうかは、開けてから決める」
アニカは袖を肘までまくった。
ポンプの頭のねじを外して、胴の中から長い棒を引き上げる。先に付いた弁を手のひらにのせた。丸く切った革が、古い草履の底みたいに反り返っていた。
「ほら、ここ。夏に使わない日が続いたでしょ。革が乾いて反ると、すき間から水が落ちるの。削って締め直して湿らせれば、ふくらんで戻るよ」
口が勝手に動いていた。機械の前だと、いつもこうなる。おかみさんが目を丸くしていた。
小刀で反った縁を薄く削いで、押さえの釘を打ち直す。
「よしよし、乾いてたね。お姉さんがすぐ戻してあげるからね」
小声だった。おかみさんが、口もとをゆるめた。
「アニカちゃんは、機械が相手だと、お姉さんになるのよねえ。かわいいねえ」
顔が、耳まで熱くなった。
「……うるさい!」
棒を胴に戻して、ねじを締めた。
「呼び水がいるね」
「水なら、そのポンプの下だよ」
誰かが言って、広場が笑った。ほかの井戸は、坂の下まで行かないとない。
アニカは、おかみさんの手の桝を見た。
「それ、ちょうだい」
「これは、ポンプへの礼の」
「だから、ポンプに」
桝を受け取って、ポンプの口に新酒を流しこんだ。酒は胴の中へ、とくとくと吸いこまれていった。柄を握って漕ぐ。一度、二度。手ごたえが重くなる。三度目で、口から酒の匂いの水がどっとあふれた。四度目には、冷たい、透きとおった水になった。
アニカはポンプの胴を、手のひらで二度、軽く叩いた。
広場が沸いた。
「礼の一杯で動いたぞ」
アニカは濡れた手を前掛けで拭いて、段に戻った。芋は少し冷めていた。
「おい、鉄樽。診立てはお前さんだろう。ほれ」
今度はバレルが杯を受ける番だった。
「いけません。私は勤務中です」
「何の勤務だよ」
「アニカの監督です」
「アニカはもう十六だろうが。ほれ、注ぎ口を開けな」
背中の給水口に、新酒がとくとくと流れこんでいく。
バレルは断るのが下手だ。
正確に言えば、三回までは断る。四回目を断る規定が、ない。
それに、注がれたあとのバレルは、わかりやすくご機嫌になる。体の中で回る音が、すこし軽くなるのだ。本人は絶対に認めないが。
二杯目が入った。三杯目も入った。アニカは二つ目の芋に取りかかった。
三十分ほどして、バレルの歩行脚は拍子を外し始めた。
かこん、かたん。かこん、こん。
聞き慣れた四拍子が、妙に楽しげな三拍子になっている。アニカは皿を置いて立ち上がった。
「バレル、帰るよ」
「アニカ。現在時刻は、おおよそ、夜です」
「おおよそ」
「夜です。良い夜です」
駄目だ、これは。
バレルの数値が丸くなるのは、よくない徴候だ。去年は水車に向かって一晩中お辞儀をしていた。
「摂取カロリーの報告は」
「あなたの本日の摂取カロリーは、規定の、たくさんです」
「たくさん」
「たくさんは、良いことです。実に良い」
アニカはバレルの作業腕をつかんで、広場の連中に空いた方の手を振った。連中は、ポンプの礼だと言って徳利を一本持たせてくれた。たちの悪い餞別だった。
帰り道、バレルは歌った。
聞いたことのない歌だった。数を数えるような、節のような、呪文のような。子どもの数え唄に似て、どこか違う。古い、たぶんずっと古い。
「それ、何の歌?」
答えまで、一拍あった。
「不明です。再生元の記録が、見つかりません」
アニカは黙って隣を歩いた。
工房の前まで来て、バレルは止まった。
「十六年前の今夜も、新酒の匂いがしました」
アニカは、鍵を探す手を止めた。
バレルが昔の話をすることは、ない。記録は全部持っているくせに、開かない。十六年前のことをアニカが聞いたのは、覚えている限り三回。三回とも、返事は「記録が混み合っています」だった。機械の返事ではなかった。
アニカは鍵をポケットに戻して、工房の前の段に腰を下ろした。
「……続けて」
「前夜から、大きく荒れました」
バレルは立ったまま、森の方を向いた。ここからは見えないのに、森の方を向いた。
「三日三晩の荒れでした。翌朝は、よく晴れていました」
当時のバレルは、もう誰の持ち物でもなかったという。
見回っていたのは、組合がとうに使わなくなった古い道の柱だった。荷隊は通らない。人も滅多に来ない。同じ型の仲間は皆よそへ引き取られたか、止まったか。それでもバレルは、その道の柱の見回りを続けていた。誰に頼まれたのでもない。保守機の仕事は保守で、やめる規定がなかったからだ。
「荒れの後は、柱の点検に出ます。あの朝も、そうでした」
「それで?」
「三本目の柱の根元に、残骸がありました」
荷車が二台。車輪が四つ。折れた轅。散らばった樽と、泥をかぶった布。隊商だ、とバレルは判定した。荒れに呑まれる寸前、柱の固定圏まであと少しのところで、届かなかった。
「人は」
「おりませんでした」
短い返事だった。アニカはそれ以上聞かなかった。森に呑まれる、という言葉の意味は、この街の子どもなら五つで覚える。
「積み荷の確認は、私の仕事ではありません。通過するべきでした。ですが——」
バレルの目の明かりが、わずかに揺れた。酔いのせいかもしれなかった。
「残骸の中で、何かが鳴っていました」
「鳴いて、ね」
「鳴って、です。当時の私はそう記録しています。周波数帯から、機械の警報と判定しました」
「……それで」
「布の束でした」
泥だらけの布の束が、荷車の陰で、割れた樽と樽の間に挟まって、警報を発していた。
「拾い上げて、判定を修正しました」
「何て」
「『機械ではない』と」
「生きている人間を見たのは、百十二年と四十一日ぶりでした」
「……酔ってるのに、数えられるんだ」
「これは、数えられます」
アニカは揚げ芋の最後の一つを齧った。冷めていた。冷めた芋はうまくない。うまくないものを噛んでいないと、顔が仕事をさぼりそうだった。
「規定はあります。保護対象を発見した場合、最寄りの集落に引き渡すこと」
「引き渡したんだ」
「引き渡しました」
バレルは広場に立って、布の束を抱えたまま、三時間待ったという。
荒れの明けた朝で、どの家も屋根と水と薪のことで手一杯だった。立ち止まった者も、泥だらけの束を見ると目を逸らした。
「三時間待って、誰も手を出しませんでした」
「……それで」
「規定では、その先がありませんでした」
バレルは少し黙った。歩行脚が、こん、と小さく鳴った。
「規定が、尽きました」
規定が尽きたので、バレルは規定の外に出た。
それだけのことを、十六年、語らずにいた。
「最初の問題は給餌でした」
と、バレルは急に報告の声になった。
「人間の幼体の給餌について、私の資料は不足していました。山羊の乳を、三十八度から試しました」
「どうだった」
「最初の三日間の摂取成功率は、およそ二割です。残りは全て、私の外装の上に」
「吐かれてる」
「吐かれています。四日目に、山羊の飼い主の老婆が見かねて介入しました。以後の成功率は、全て彼女の功績です」
その老婆が誰か、アニカは知っている。南の段々畑の、もうとっくに居ない人だ。小さい頃、会うたびに飴をくれた。飴の意味が、十六年経って今夜つながった。
「名前は」
聞いてから、アニカは少し後悔した。声が、思ったより小さく出た。
「産着に、縫い取りがありました」
「……知ってる」
それは知っていた。工房の棚の一番上、油の染みない場所に、箱がひとつある。開け方は知っているが、あまり開けない箱だ。
「アニカ、と読めました。その時の記録を、再生しますか」
「いらない」
「そうですか」
沈黙した。夜の石畳の冷たさが、座っている尻から上がってきた。それでもアニカは立たなかった。
「……短いの」
「三語です」
「なら、聞く」
「『保護対象、名称アニカ。呼称を更新する』」
以上です、とバレルは言った。
なんだ、と思った。本当にただのログだった。がっかりした。がっかりした自分に、少しあきれた。
「ただ」
と、バレルが続けた。
「その日を境に、呼称『アニカ』の使用回数が、業務上の必要数を大きく超えています」
「……何回」
「本日までに、おおよそ」
「おおよそ?」
「数えきれません。酔っていますので」
アニカは、冷めた芋の最後のかけらを飲み込んだ。
数えられないはずがないのだ、バレルに。
「——以上です」
バレルは姿勢を正した。正したつもりらしく、三度ほど揺れてから止まった。
「なお、本記録は酩酊により信頼性が低い。正式な記録としての採用は、推奨されません」
「でしょうね」
アニカは立ち上がって、尻を払って、戸の鍵を開けた。
開けてから、振り返った。
餞別の徳利が、まだ手の中にあった。
「話の、駄賃」
栓を抜いて、背中の給水口に、少しだけ注いでやる。とくとく、と胴の中で音がした。
「アニカ。私は勤務中です」
「あたしの監督でしょ」
「そうです」
「なら、今夜の仕事はおしまい」
バレルは三秒黙った。機械の三秒は、長い。
「……承知しました」
体の中で回る音が、すこし軽くなった。
アニカは、戸口の段に座り直した。徳利は、まだすこし重い。
もう一杯だけ、注いでやることにした。
とくとく、と胴が鳴った。
胴の下の石畳に、ぽつりと一つ、しみが落ちた。注ぎ方が雑だったのだと、アニカは思った。
「アニカ」
「なに?」
「良い夜です」
バレルの胴に、背中を預けた。
「……良い夜ね」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークと、下の☆での評価をいただけると励みになります。毎日更新しています。




