第九話 『最後のピース』
5回裏を室井はヒットを一本に抑え、そして返す6回表に相手も三者凡退に星海を封じ込める。
互いに点数に動きはない。
そして6回裏、残り4回しか攻撃権がなくなったエリート校が動く。
ここまで星海打線を押さえつけていた投手である、この回の1人目の打者に代打を出してきた。
通用している防御を捨ててでも追いつく可能性を増やすという意志。後続の投手層への信頼がなければ打てない一手。
そしてこの日初めて打席に立つ代打に、暁のストレス効果が乗っているわけもない。
室井は独力での攻略を強いられる。
執念の攻撃か、エースのプライドか。
天秤はこの時、わずかに代打へと振れた。
4球目のわずかに甘く入った緩急用の球を狙い打ち、内野の間を抜いて一塁へと走り込む。
そして相手ベンチは間髪入れず、この打者を代走と替える。
「え~、どう見ても走る気です、どうぞー」
「それはそうだろうな。ここで代走を出しておいて盗塁しない選択肢はない。セオリーは有効だからセオリーなんだ」
『これ言う必要ないよね?』という思いが顔に出ている響のレポートに、苦々しく答える監督。
セオリーというのは読みやすい。だが読めたからといって必ず防げるものでもないのがセオリーというものだ。
星海はセオリーにはこだわらないが、それはセオリーを軽視しているわけではない。確率がより高いと思えばセオリーを捨てるが、そうでなければセオリーに従うこともある。
セオリーとは先人の証明した有効策。堅実で、ゆえに強い。
そして次の打順は1番打者に戻る。
打率の高い打者達が、暁のデバフがはがれた状態で舞い戻る。
黄金リレーの効果は永続ではない。室井の正統派ではあるが分かりやすい球を見定め、ある程度の時間が経てば効果は薄れていく。
目安は1巡。1巡限りの魔法だ。
その期間はきわめて強力だが、それ以降は室井の素のスペックで戦う必要がある。
人間の適応力というのは、それだけ高い。
だが、室井も暁入学前からエースとして名を馳せた投手。
球数を使いながらも1番打者、2番打者を続けて抑えていく。
一方でその隙に盗塁は成功、2塁へと走者は進みさらに室井にゆさぶりをかけようと何度も走るそぶりを見せてくる。
(室井のスタミナはまだ余裕がある、球も走っている。だが相手の適応が早い)
梅本は室井に後ろを気にしないようにジェスチャーを交えながら、続く打者を迎える。
室井の単体スペックは、全国的にも上位に入る。
だがそういう投手からも数点は奪えるのが強豪のバッターたち。
室井が弱いのではない、神奈川の強豪がおかしいのだ。
そして、別にこの日星海が対戦している高校は、神奈川の強豪ではあるが最上位クラスでは決してない。
それでも、打つ。
エリート校の3番打者は、低めの球を掬い上げるように外野の間に落とし、その間にランナーが返ってくる。
4-1。ついに失点、まだ点差はあるが反撃の狼煙を上げたことで向こうベンチが沸く。
だが、エースの本懐は一度の失点ごときで崩れるようなものではない。
調子に乗ろうとする相手打者を、半ば無理やり力押しで抑える。
技術で抑えることもできた、だがあえての力押し。
相手の心を折るには真っ向から潰すことの方が向いているという計算。
梅本の選択ではなく、室井のエースとしての嗅覚による判断である。
これで4番まででこの回を終える。
徐々に室井に刃が届き始めていた。
そして室井は、それを最小の傷で切り抜けていく。
試合は終盤へと場を変える。
7回の表に新たに出てきた横投げ投手を前に、レオンは再び扇風機と化す。
単発のヒットは出るものの、それ以外は飛びどころが悪く守備に阻まれていく。
合計3人目の投手にもかかわらず、目先を変えるだけでなくしっかりと抑えてくる層の厚さ。
一方で星海は、ここで室井を替えてもすぐはともかくその後が続かない。室井を引っ張るしかない。
7回裏、慣れを見せてきた相手打者に室井が徐々に捉えられ始めた。
4-2まで詰め寄られ、さらに四球を出してしまいピンチは拡大。
代打攻勢でチャンスをものにしようとする相手校に、ギアを上げた室井が立ちはだかる。
「落ちろ!」
MAX球速を出し、梅本が丁寧にコンビネーションを配球して大砲タイプの代打に対抗する。
この時、2塁3塁にランナーがいる。2人返されれば逆転、ホームランでも打たれれば逆転を許す大ピンチ。
そのピンチを自分で何とかしてこそのエースの矜持と、室井は己を奮い立たせてギアを上げた。
緩急により最大化されたストレートがコースの隅にビシリと決まり、どうにか潜り抜ける。
4-2、どうにか2点差で食い止めた。
しかし、マウンドから降りる室井は腕で汗をぬぐい、荒い息を整える。
監督も無理をさせていることは分かっている。
「暁っち、室井先輩に塩タブレットあげて。それと水も」
「はい、室井先輩どうぞ。あと、このクッキーいりますか?」
響に言われて差し入れを行う暁。さらに、何と自分の好物のクッキーまで差し出す。
「いや……ありがたいが、俺はそれほど甘いものは好きでは」
「え、こんなにおいしいのに」
信じられないと言わんばかりの暁の様子に、梅本が肩を叩いて隣に座る。
「すまんが、俺にくれないか?キャッチャーには糖分が必要なんだ」
「ですよねっ、梅本先輩はよく分かってますね!」
自分の好きなものを認められて嬉しい暁の様子に、室井は苦笑。
張り詰めていた精神が少し和らぐのを感じる。
暁が狙ってやったとは全く思えないが、それに乗っかった梅本はわざとであろう。
感謝を片手で示すと、梅本は「いいってことよ」と言わんばかりに無言で頷く。
なお暁は、なぜ梅本が急に頷いたのか理解していなかった。
8回の表になり、相手校はまたもピッチャーを替えてくる。
これで4人目、格付け的に考えれば3番手のはずだが投手のレベルはほとんど落ちていない。こうもころころと替えられては、球筋の変化への適応がなかなか追いつかない。
しかも、この回の星海打線は6番打者からのスタート。それが何を意味するかというと。
連続でつなげるはずもなく、ただ一本のヒットを打つだけでこの回が終わる。
点差、広がらず。2点差のまま裏へと移る。
8回の表。
相手打線は2番打者からのスタート。室井との対戦が3打席目になる、中軸打線を含む上位打線。
ここで逆転しようと相手バッターたちの目はぎらぎらと輝いていた。
3打席目ともなれば、球の軌道は見極められ、タイミングにスイングがアジャストしだす。
150km/hを出せても、現代の打者達はそれに適合してくる。適合できなければ強豪の上位打線を張れない。
室井の球速も球威も落ちてはいない。だがそれでも、バットが当たる。
ヒット、外野フライでアウトに取るもランナーが2塁に進塁。そして、
快音が、響く。フェンスに阻まれホームランにこそならなかったが、ランナーがホームへと帰ってくる。
これで1失点。
1アウトしか取ってないにもかかわらず、また2塁に走者がいる。
同点まであと1点。
この瞬間、星海監督が立ち上がり投手交代を告げる。
「室井、ここまでよくやってくれた。予定より少し早いが、締めに入る。
井上、行ってくれ」
「アイサー」
井上がマウンドに向かう途中に室井とすれ違う。
「すまんな、最後まで抑えきれなかった。あとは任せる」
「やるだけやるさ、ベンチで休んでいてくれ」
同期らしいやり取りをしながら、井上がマウンドに上がる。
実のところ、井上は去年の夏はベンチにもいなかった。
単体スペックでいえば室井の遥か下。プロにも注目されてはおらず、高卒でプロになることはほぼ見込めない。
だがそれでも。
空転、空転。
あまりにも『遅すぎる』球に、室井の速球に慣れた打者達は対応できない。
球速115km/hという、室井と比較して35km/h以上も遅いストレート。それが、井上にとっての最速。
そこに65km/hという極端に遅い山なりの変化球、そして75km/hの不規則な揺れ球。
この3つが井上の武器。
室井の直後という条件、短いイニング数という制限。
それさえ守れば、この落差に対応できる打者はほぼいない。
慣れられれば打ち込まれるが、慣れられる前に下げれば問題は生じない。
(来ない……まだ球が来ないのか?なんだこの投手は)
待ちきれずに体が開いて、球が届く前にバットが先に振り切られる、体が泳ぐ。
3アウト。1点差で8回を終わらせる。
極端な軟投派、普通の学校ならば採用してもワンポイントで目先を変えるためにしか使わないような投手。
しかし星海学園は彼を抑え投手として採用した。
『黄金リレー』最後のピース、星海最遅のピッチャー、それが井上である。
9回の表、1番打者から始まる星海打線。
リードを広げようとするも、満塁にまでなるがあと一歩のところで点数が入らない。
4-3のままで、最後の攻撃が終わる。
そして正真正銘最後のイニング。9回裏。
空転、空転、空転。
速度差のマジックが強豪打線を手玉に取る。
これを無効化するための最も効率のいい手段は室井を経験していない選手を出すこと。つまり代打だ。
だが、すでに相手は代打を放出しきっている。4人も代打枠を確保している高校などまずいない。完全な弾切れである。
遅いストレート、遅すぎる変化球、ピッチャーにさえ予測できない不規則に揺れる球。
打線を翻弄していく。
そしてそのまま、勝負は終わった。
4-3、星海の勝利。だがそれは薄氷の勝利でもあった。
途中星海打線がつながらなかったことと、相手投手の平均値の強さ、強豪打線の対応力によってなかなか厳しい戦いを強いられた形である。
その試合を観客席から見ていた他校のスカウトは、星海の評価をわずかに上げながらもまだそこまでの脅威ではないと判断していた。
特に神奈川最上位と呼ばれる二校による戦力分析は以下の通りであった。
「まあまあ強いが10回に7回はまず勝てるな」、と。




