第六話 『熊さんのお菓子』
春季県大会準々決勝の前日、暁は晶とともに投球練習場にいた。
高校デビュー戦前のフォームチェックを入念に行うためだ。
「暁、下半身の回転タイミングが0.3秒ずれている。あと右肩が1mm上がっているから修正しろ」
「了解。しかし、目視で判断できるってお前の目どうなってるんだ?」
「さてな。昔から細かい差は見えていた。それが何ミリなのかといった細かい判別は経験と訓練で伸ばした気がするが……いつどうしたからできるようになった、みたいなのは私自身分からん。
それに目がおかしいというなら、天川先輩も方向は違うがそうだろう」
その言葉に暁は首を傾げて。
「響先輩が?どういうことだ?」
「うん?知らないのか。もう話しているかと思っていたが。
それなら私から言うのは筋が通らない、本人から聞け。隠しているわけでもないから教えてくれるだろう」
「ならお前が教えてくれても良くないか?」
「女は自分が言ってもないことを知られていると気持ち悪く感じるものなんだ、このデリカシーなしめ。
いいから早く次の球を投げろ」
晶の方から響の話を出してきたというのに、なぜか自分が貶される流れになって納得いかないものを感じる暁であったが、言われるがままに次球を投げる。
「ん?今度は遅かったか?」
「馬鹿者、お前はどちらのフォームが出たか意識するな。意識すれば偏る。ただそれぞれのフォームを体に染み込ませろ。
調整は私が、運用はキャッチャーがやる。お前は言われた通りに体を使うことと筋トレに専念するんだ」
「へーい」
周囲が自分で考えながらのフォーム修正をされている中、暁だけが『考えるな、感じろ』式の指導をされているのは特別扱いされているようで少々くすぐったいのだが、その意図と合理性を説明されてしまえば仕方ない。
無意識の混在が武器なのだから意識してはダメ、というのは分かりやすい理論だった。
そのせいでフォーム調整の難易度と頻度が高くなっているのは確かであったが。
晶は続いて、隣の投球スペースに目をやり。
「田代、軸足への体重のかけ方が2.7cm前にずれている。そのせいで踏み出しと姿勢も前に傾いている。頭の後ろから背中にかけて鉄棒が入っている意識を持て。
あと、速い球を投げようと意識しすぎて前方向に体が向かっている。もっと力を貯めこむイメージ、足を中心にバネを放つ感覚を大事にしろ。具体的にはここの胸の張りを肩甲骨側に1cm後ろに引く形で――」
「待て、多い多い。メモを取るから少し待ってくれ」
隣で練習していた田代が、慌てて自分のバッグへと向かう。
バッグの中を漁りながらペンとメモ帳を取り出す。
それを暁は見やって。
「お、田代、古風だな。今時メモ帳か、黒のなめし皮でかっこいいじゃん」
「どうでもいいだろうそんなの。俺はこっちのほうが落ち着くんだ。
というか波間、今は暁の方を優先していいんだぞ。俺はまだ二軍なんだから」
「なにを言っている?将来の戦力確保は重要項目だ。それに、放置して怪我されては私の沽券にかかわる」
直近の試合を重く見る田代と、組織としての強さを総合的に見る晶、ともに真面目。
一方で暁はクッキーを取り出しかじりながら、スマホになにやらデータを打ち込みつつ、
「そんなに気にするなら早く一軍に上がってくればいいだろ。それで解決じゃん」
などと、天然に傲慢さがチラ見えするようなセリフを吐く。
田代は暁の物言いに少し呆れつつも、その言っている内容には正当なものがあるので異を挟むことはなく、メモを残した後に自分の両頬を軽く叩いて気合を入れ、練習を再開する。
一方、暁はクッキーをもしゃもしゃ食べながら完全に休憩モードに入って、田代を見やるのだった。
「暁、お前は何のんびりしているんだ?練習時間は残っているが」
「5分休憩させてくれ。集中切れた状態でやっても効率悪い。
ちゃんとノルマはこなすから、それでいいだろ、晶」
クッキーを水で飲みこむ姿にやれやれと思いながらも、暁なりに田代に晶が集中する時間を作ったのか、それとも単純自分が休憩したかっただけなのか判断できず、とりあえずはいい方向に解釈しておいてやる晶であった。
少し時間が経ち小腹がすくころ、汗を拭きながら暁はクッキーをさらに取り出し、それを口にくわえようとして。
「こら、暁くん、今日食べ過ぎじゃない?そのクッキー、何枚目?」
投球練習場に顔を出していた真央に摘ままれて、暁の口からクッキーが離れる。
「えと、4枚……」
「5枚目です、真央先輩」
真央が見ていなかったのをいいことに数を誤魔化そうとした暁であったが、しっかり数えていたらしい晶に掣肘される。
「もう、ダメでしょ。クッキーは1日4枚まで。そう約束したわよね?」
「うう、でもこれおいしいし。それにほら、はちみつとおからが多いから、きっと大丈夫だと。あと、とっても落ち着くんです」
子供っぽく主張する暁であったが、真央はにべもない。
「ダメです。ちゃんとそれを前提に栄養が計算されているんだから」
「そんなあ」
暁の指先がわずかに震え、瞳が揺れる。
そんな時、練習場の奥からやってきた熊のような風体の横にどっしりとした体格の男が暁の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「おいおい真央ちゃん、そんな杓子定規にしなくてもいいんじゃないか?アスリートは好物でメンタルを保つのも大事だぞ」
「梅本先輩、無闇に甘やかさないでください。うちの暁くんがぶくぶく太っちゃったらどうするんですか」
「いや、お前のではないだろう?」
困惑するこの男は梅本忠一、星海の一軍レギュラーを張っている捕手、つまり現在暁をはじめとする星海の投手陣と組んでいる男だ。
心強い味方を得たと言わんばかりに、暁が梅本を盾にするように腕を抱えて後ろに回る。
「そうですよね!梅本先輩もそう思いますよね!俺、いい先輩を持ててうれしいです!」
「うん?ああ、そうか?俺はお菓子一つでこうも懐かれて複雑な気分だがな」
本来バッテリー間の信頼を育むのに時間や困難があるのが普通と考える梅本にとって、たかがクッキーで瞬時に懐かれては違和感が大きい。
だが同時に、何人もの人間と組んでいた梅本には感じるものもあった。
「暁、今から数球受けさせてもらえないか?」
「え、今ですか?」
「あの先輩、明日を考えると暁は今日の投球数は控えめに」
思わずという調子で口を挟んだ晶の目を梅本はしっかり見据えて、確認する。
「頼むよ。無理かな、波間さん?」
「……5球までです。全力投球は不可、その条件なら」
「ありがとう」
梅本はくしゃっと笑って、プロテクターをつけ直してどっしりと座る。
暁に向かってミットを構えて、低く落ち着いた声で要求する。
「80%で外角、内角、真ん中の順に」
「はい」
暁から放たれる3球、いい音を立てて次々と梅本の構えるミットに吸い込まれていく。
「うん、いい球だ。コントロールも良くされてる。
だから、気負い過ぎるな。高校で初めての公式戦だって変わりはしない。
先発ってことは後ろに室井がいるってことだ。他の投手だっている。
点数を取られても俺たちが取り返す。安心してベストを尽くすことだけ考えればいい。
だから信頼してくれ、俺たち仲間を、そしておまえ自身を」
立ち上がり、暁の傍に歩み寄った梅本はまた、わしゃわしゃと暁の柔らかい髪を撫でる。
暁は喉から絞り出すように、小さく「はい」とだけ答えて下を向いたまま撫でられるに任せていた。
その姿を少し離れたところから見つめながら、ぽつりと晶は呟くように。
「私は気づけなかった、あいつが緊張していたなんて」
「うんまあ、私もなんだけど、仕方ないんじゃないかな。多分見てすぐ分かるのはうちでも数人だけだよ。
それに、これから何度でもこういう機会はある。少しずつ気づけるようになっていけばいいんじゃない?」
軽く苦笑しながらも左手で軽く晶の肩を叩き、右手に持ったままだったクッキーを自分の口に運んでかじる真央。
そしてそれを目ざとく見つける暁。
「あ、それ俺のクッキー!返して!真央先輩返して!」
「ごめん、食べちゃった」
「ひどい!ねえ梅本先輩、真央先輩が」
言いつけに入る暁に、梅本は頭痛をこらえるように嘆息して、まとわりつく後輩を軽く抑える。
「分かった、俺の間食を一つやるから許してやれ」
おやつ一つに大騒ぎする期待の1年ピッチャーの姿には、もう緊張のかけらも見当たらなくなっていた。




