第五十八話 『残された2人』
3イニング目、この試合における暁が担当する最後のイニング
暁を準決勝・決勝に向けて温存するため、わずか3回までという投球で降ろす。
向上高校の打者はしかし、粘りを見せ1回にあの後1安打と1エラー、さらに2回にも1安打と、合計2安打1エラーを記録していた。
これは、暁の立ち上がりにおいていいとはいえない。
だがこの程度の不運がありえるのもまた当然。毎回毎回1安打や0安打に抑えられるとも限らないのが野球というもの。
1イニング1安打未満ペースというそれだけでは、優れた投手とは言えない。暁が特殊なのは、そのヒットが一つのタイミングにほとんどまとまらず、分散しているということ。
だから、今回はよくない――と見るべきかと思えば。
「これなら3番打者を相手できるな、ちょうどいい」
1番あたりを渋々破壊して田代にバトンタッチせざるを得ないかと思っていたところに、エラーが生じて打順が回ったことを、むしろ僥倖と捉えていた。
これにはさしもの怜も、反応の仕方にしばし迷う。
「いやお前……」
「だって、クリーンナップ破壊できるかはこの試合に大きく影響するじゃないか。
それに結局点数やってないんだから、勝率はなにも落ちてないんだし」
理論ではそうかもしれないが、投げてる人間がそこに精神状態が至るのは普通ではない。
この試合を勝つか負けるか、そのためになにが一番か、それしか見ていない。
エラーどころか安打が出たことも、ラッキーだと思っている節があるセリフ。
「いやあ、エラーの瞬間は早々に失点しちゃうかとも思ったけど、結果オーライだよな」
一番おかしいのは、点数をやること自体は嫌で、打たれるのも普段はあまり嬉しいとは思ってはいないこと。
なのにもかかわらず、点数につながらないという結果になった瞬間にすべてをよしとしてしまっている。
この、結果によって途中経過もプラスやマイナスに再評価してしまう傾向は、ともすれば結果が悪い場合に中身を否定しだすことにもつながる。
まさに、去年の夏に敗北から「自分が三振にこだわったのがいけない」「相手を狂わせないと」「結果を出すまでは甘さを捨てなければ」などと極端な発想に至ったのも、この性質のためである。
危うくはある、しかしこれが暁の強さを形作っているのもまた確かだ。
怜は結局何も言わず、暁の背中を軽く叩いて3イニング目のマウンドに送り出す。
(さて、3番は破壊するとして、1人だけで済ませるのは勿体ないな。
しかし、4番まで回るという保証もない。わざと四球を出すのはさすがになんだしな。
ならやはり、1巡目で汚染が進んでいたこの1番打者をついでに壊しておくか)
ついで、で『打撃破壊』されようと怜に目をつけられてしまった哀れな打者がバッターボックスに入る。
(この投手、今日は不安定っぽいぞ。変化球がいくつか投げ損じが出てる。
だからどうにかみんなも食らいつけてるんだ)
否、単に新球のブレ球ムービングが他球種の投げ損じとここまで誤認されているだけである。
新球の情報がない以上、変化が小さかったりうまくいかなかったりした場合は、大抵が「調子が悪い」「ミスをした」と考える。
暁は多球種であるため、ムービングは既存のどれかの失敗のようにも見えてしまう。ここまで、その類推と大きく矛盾した動きをしていないというのも大きかった。
(調子が悪い、ゴロ生産用の球を打つ。うまく沈まないことも考慮に入れて、掬い上げるように外野まで運んでやる)
もう一度言おう、前提から彼は間違っていた。
(さて、まずはこいつがどれだけ『微差緩急システム』に汚染されているかのチェックだ。手を出したくなるところに、打ちごろに見える球を)
1球目、真ん中からわずかに内寄りの高めギリギリに、サイドから放たれるストレートを。
1番打者はこれに手を出し振り始めるが、始動が不自然に早くしかもスイングの高さが合っていない。空振り。
(なんでか分からないって顔をしているな。思ったより遅かった、って反応とも微妙に違う。
これは、狂い終わってると見て、7割がた確かだろう。
なら、壊せる)
怜の洞察が光る。暁にサインを送り、即座に頷いて投球モーションに入る。
さしもの怜も1球で100%の洞察はできない。そんなのは響にも不可能だ。だが、仮に洞察が外れていても失敗によるデメリットは特段にない。
なぜなら、この破壊行為もまた『微差緩急システム』内の速度を守りながら行えるからだ。
2球目、外角の中段目掛けてライフル回転で真っ直ぐに伸びる球が、手前で急落。サイドフォームからの落ち球。
1番打者はカットできないか悩むが結局迷いのまま見送る。
これで2ストライク。
3球目、左打者である1番打者の体の側へと向かうようなボールが投げられる。
(これは、あれかっ、監督から気をつけるように言われてた、スイーパー!)
分かる。この球だけは、暁のトンネリングから外れた、識別できるほど早くに曲がり始める大きく横に掃くように横滑りする球。
35㎝以上という大変化量、それまでの全てがストレートと認識してしまう領域を壊す球。
判別できてしまうがゆえに――過敏になった脳の空間認知がバグを起こす。
ギュイインと大きく弧を描いて曲がった球は、打者から見て外角の向こうにまで逸れていった。
2ストライク1ボール。
ごくりと、つばを飲み込もうとする。
だがカラカラになった喉は上手く飲み込めず、軽くせき込む。
額の汗を拭く指がわずかにブレる。
それをすべて、怜は冷徹な目で見ていた。
(『壊れた』な。なら一応、傷口をもう少し広げておくか。
『劇的緩急』とまではいかないが、まあ直後なら十分だろう)
4球目、暁に要求するのは、最速ストレート。先ほどのサイドからのスイーパーとの速度差は約+12km/h。
暁の誇る最大緩急ではなく通常緩急の部類だが、急落縦・大きな横滑りの順にホップする錯覚のストレートは、衝撃を与えるには十分な組み立て。
脳への焼き付けを優先し内角高めへバシィッと決まる。
これに対応しようとしたスイングは、腰の入らぬ重心が後ろに歪んだもの。
3ストライク、アウト。
だがアウト以上に、この試合この1番打者はもうまともなスイングができなくなった。
続く2番打者をさっくりと3球で小フライに終わらせ、クリーンナップの3番打者の出番が来る。
(さて、こいつは前巡で早めに手を出してきたからな。汚染度が足りない可能性もある。
となるとここは、『2球型』より『4球型』がベストか)
スイーパーによる空間感覚バグ、そして2球型急加速ストレートによる速度感覚のショート、これら2つには数少ない欠点がある。
それは、十分なスイングの狂い、すなわち速度感覚の過敏化が行われていなければその効果は薄れてしまうということだ。
何を当たり前のことを、と思うかもしれない。だがこれは決して馬鹿にできない。
本当に『打撃破壊』を行いたいクリーンナップを、2巡目には対象に出来ず、3巡目まで待たなければいけない、というようなことが発生しうるからだ。
9イニングで延長がないと仮定すると、クリーンナップに回ってくる巡目は最低で3巡、プロ平均では4.3~4.4程度と言われる。
つまり、2巡目で破壊できれば3巡目・4巡目、あるいは試合が長引くか乱打戦になれば5巡目までスイングの壊れた相手は打席に立ち続ける
だが、破壊できるのが3巡目であれば、回ってくるのは最低でその回で終わり、平均でも+1回、長引いてもその後2回しか打席に立たない、ということになるのだ。
この1回差の価値は、極めて大きい。
そしてこのボトルネックに対する一定の解法を持つ配球シークエンス、それこそが『4球型急加速ストレート』である。
それがどのように行われるのか、まずはこの3番打者のケースを順々に見ていこう。
まず第1球目、ど真ん中目掛けてスリークォーターから放たれたライフル回転の球がストレート軌道で突き進み、打者の手元で急落、ストライクカウントを1つ稼ぐ。
ここで重要なのは、ストライクでもコースでもなく、速度である。否、このシークエンスにおいては速度こそが本体。
続けて第2球、左打者のこの3番の内側に外れる軌道から、クククと曲がっていくも、内角低めゾーンに到達することなく、見逃されてミットにおさまる。1ストライク1ボール。
そして重要なのはこれがサイドから放たれた球であったこと、即ちやはり大事なのは速度。
そして3球目、ここで放たれるのが急加速ストレートを急加速たらしめる軸、サイドから放つ遅い方のキックチェンジ。
これは見せ球ゆえに外角に少し大きめに外し、消えるほど大きく落ちるその動きもしっかりと目に焼き付けさせる。1ストライク2ボール。
やはり最重要は速度だ。
最後に仕上げ、最速145km/hのストレートをインハイに。前球との速度差約+18km/hという急激な緩急に対応しきれずはずもなく、3番打者のスイングは予測ができても追いつけない。2ストライク2ボール。
そしてここで、『打撃破壊』は成った。
彼のスイングはこの試合、粉砕されてしまった。
なぜかわかるほうがおかしいので、説明しよう。
まず、1球目においては5キロ区分に分けた暁の球のうち、上から2番目――最速145km/hのストレートを持つ今の暁にとっては、140km/h前後の球から1種をピックアップして投げる。
次に2球目、これはそこから1つ速度帯の落ちる135km/h前後の球からピックアップする。
そして3球目の遅いキックチェンジ、これは固定だ。約127km/h前後で最遅の球が投げ入れられる。
つまりこの3球、微差緩急の範囲内にほぼ収まる形で1つずつ速度帯を落としていっていることになる。
そうなれば――不思議なもので、人の脳というものは次も遅い、と無意識に方向性を決めつけにかかる。
そこにズドンと、急激に速くなる最速ストレートを投げ込むと、そこに生じる認知的衝撃は絶大になる。
『2球型』が威力の高い単発コンビネーションなら、『4球型』は汚染を広げながらグラグラと揺らして相対的に威力を高くした一撃を打ち込んでいる。
だからこそ、打席に立った瞬間には汚染度が十分ではない打者すら、壊す射程圏内におさめられる。
少し遅い、遅い、かなり遅いと続き、次も?――と無意識がなったところで放たれる最速。この速度の変遷。これが2巡目での破壊を確実なものにする。
これこそが、紫苑が『現状最強』と呼ぶ打撃破壊用シークエンスである。
弱点は、球数が嵩むことだけだ。
(はあっ、はっ。
なんだ今の、速すぎだろ。こいつこんな速い球を隠し持ってたのか?)
隠し持ってなどいない。これは配球による威力の最大化だ。
息が浅く、荒く、冷や汗がたらりと額からバットに落ち、右手が微細に震えている。
予想外に動揺して息を整えているのではない、速度認知が破砕され、肉体制御にエラーが出ているのだ。
あとは簡単、適当な球を投げ入れても、壊れたスイングで捉えられるはずがない。
3アウトチェンジ。
暁の出番は終わり、壊れた2人の打者を残して田代にバトンタッチが完了した。




