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第五十七話 『答えはない』


 7月も下旬に入ろうという頃、神奈川の夏県大会も準々決勝を迎えていた。

 ここまで星海は1回戦を免除されていたとはいえ、5回戦までを順調に、しかも主力投手を温存して勝ち上がってきた。

 これは、投手陣が6人体制になった上に、左右田が鬼の特訓を重ねて成長し戦力として使い物になったこと、工藤がMAX144km/hまで成長し変化球もキレが上昇、さらに格下・工藤の調子が悪い時用の先発要員も制球強化で安定感を増した。

 これによって、ある程度の相手にであれば暁・田代・高坂の新・黄金リレーを温存してなお勝ち上がれるだけの層の厚さを得たのである。


 とはいえ、暁>田代>その他という、星海の投手陣の力関係が埋まったわけではない。

 それどころか、田代が土台形成のために伸び悩んだ一方で、暁はMAX145km/hを安定してマークできるようになったうえに体力もついていると、引き離す勢い。


 観客たちは、ついに星海のエースと最強継投が姿を現すのではないかと心待ちにしていた。

 そしてその期待に応えるように、今日、暁はマウンドに上がる。



「今日の対戦校は向上高校、県上位常連の粘り強さが特徴のバランス型、少し打に寄っているかな。

 今年の投手陣のレベルは工藤とほぼ同等が2人、つまり甲子園でも通用するくらいの力はある。

 だが、うちほどじゃあない。これは油断や驕りではなく純粋な戦力分析だ。俺じゃなく海原や時谷がそう言ってる」



 監督のその言葉に、「監督の思い込みじゃないなら安心だ」「あの二人は信用できるからな」「監督は基本的にはいいけど時たま抜けてるからなあ」などと失礼極まりない反応を返す選手たち。

 これが許される環境、それが星海である。



「いいかお前ら、準々決勝で暁を投入する以上、この県大会に暁の完投はない。

 暁に完投体力はない、そう甲子園まで全国の高校たちには誤認してもらう。

 準決勝ではおそらく東海大相模が、決勝では横浜高校が上がってくるだろう。今回も含め、この3戦をすべて『新・黄金リレー』で勝ち抜く」



 元から通達してあったことだが、再度確認する監督。



「その代わり、暁は全ての制限を外し、徹底的に相手打線を狂わせ破壊しろ。それが勝利に直結する。言わなくてもしないとは思うが、容赦はするな」



「もちろんです――あの甲子園にみんなを連れていく。今度こそ、必ず」



 すでに暁は戦闘モード。冷徹さが増し、目の奥に勝利への執着を宿す。

 それを左右田は初めて見て、普段のお気楽天然ぶりとの差異に衝撃を受ける。秋に見た姿が、左右田の脳裏によみがえった。

 左右田が本当に超えたかった相手は消えたのではない、普段は奥底に沈んでいただけ。この勝利をどん欲に求め敗北を拒否する精神こそが、左右田が暁にかつて見たエースとしての姿。



「怜、行こう。俺たちのために、相手には負けてもらう」



「ああ、切り札の打ち時は任せろ」



 暁幻大、出陣。

 大阪桐蔭が選抜で『錯覚の魔術師』と呼んだ男が、今、夏の舞台に姿を現す。






(対戦するまで、本当は田代がエースなんじゃないかと疑ってた、けど、これはっ)



 向上高校の打者は、あまりにも見分けられない球筋に、どうしていいかどんどんわからなくなってスイングが早くも迷いを生み始めていた。


 常識的に見れば、いくら球種数が多くとも145km/hの投手と、150km/hの2種類のストレートを使い分ける投手、後者の方が一見すれば優れているように思える。

 もちろん、データとしてストレート擬態能力が高いだとか、そういうのは話には聞いていた。だが、そんなのより分かりやすい田代の方が脅威に感じていたのだ。


 実際に、暁が自分たちに投げてくるのを体験するまでは。



(どの球が、どれなんだ!?)



 ストレートと思ったら真下に急落する、自分に向かって曲がってくると思えば逆方向に沈みながら走る、落ちるのかと思えば小さく曲がる、落ち球かと思えばストレート。



(こんなの、どれを警戒すればいい!?)



 もう何も考えず、やみくもに振りたくもなる。



(落ち着け俺……何か癖があるかもしれない。どうにか粘って、今のヒットは諦めて皆に後を託そう。

 腕の振り方、球筋、配球の組み立て、何かヒントがあるかも……球種もミットにおさまるまでできるだけ見極めて、どれがどれなのか覚えないと)



 とてもセオリー的な対応策。破れかぶれにならなかった精神力は褒めるべきなのだろう。

 だが、その対応策こそ暁と怜にとって一番やってほしい、罠に自らハマっていく方策。


 真剣に見極めようとするほど、『微差緩急システム』が向上高校の脳と打撃を汚染していく。


 対して暁にとっても1巡目は種まきの時期。この期間は抑えるのは当然としても、同時に厄介な打者相手ほど球数を少し使いながらも汚染を深くしていく必要がある。



(こいつはベンチに帰っても身を乗り出して真剣に見てきそうだな。それなら、今費やし過ぎることもないか。

 暁、次で終わらせよう)



 暁の次に投げたのは、最速ストレート。ホップする錯覚を生む高品質とはいえ、145km/h程度、本来であれば対応できることもあるレベル。

 だが、散々に迷いを振りまいた上でのこれには打者も差し込まれ、真上に上がるファールボールにしてしまう。

 それを予期していた怜は、なんなく捕球して、さっさと次の打者の観察に入る。



(この投手は基本的に打ち取り型だったはず。よし、俺はストレートとゴロ生産用の球にヤマを張るぞ。逆方向への変化球は捨てる。落ち球系は、カットできそうならカットするが無理はしない。

 とにかく、打ち取ろうとしてくるのを見極めて打つ)



 これまた、通常であれば正しい。暁相手であっても、フォームによる速度帯のギャンブルにさえ打ち勝てばヒットにすることもあるだろう。

 そう、春までなら、それなりの勝算のあるやり方だった。


 3球目、1ストライクで余裕もあることから打者は振りに行く。ど真ん中から少し斜め下に外側に向けて向かってくる軌道に、「きっと沈んで走る」と決めつけて打ちに行く。

 そう、これはこの打者の読み通り『打ち損じを狙う球』。ただし、今季から導入された、2種類目の、だ。

 真っ直ぐ軌道で飛んできた球が、打者の手元で急に外角に向けてブレるように小さく動き出す。しかしその変化は打者が想像していた球より半分以下の変化で、しかも沈みもない。


 ギン、と鈍い音を立てて、暁の足元に大きく一つバウンドして帰ってきた白球を、暁は慌てることもなく、打者に視線を向けることもせず、一塁に送ってアウトに。


 動く速い球――その性質からムービングファストボールと、そのままに呼ばれる球種。その性質は投手によってさまざまだが、暁のこれはその時々によって左右・変化の量も毎回異なるブレ球である。

 本人も完全にどうなるかが分かっていない以上、裏目に出る可能性もあるが、暁のストレート擬態力の元でなら安定しないことすら武器になると導入された。

 変化量は10cm~20㎝と小さい~それなりまで、変化方向は左右両方あり得て、沈むことも沈まないことも。

 なお、発想の元は高坂のナックルであり、あの不規則性こそを暁は求めた。


 そして今回、不規則は暁にとって最高の方向に転がった。

 同方向に弱く走って沈まなかった――これは、投げ損じにしか一見思えない。たったの1球で「新球だ!」という発想になるには、逆方向に曲がらなければたどり着けない。


 実際、この打者はベンチに帰る際に「今日は打ち損じを生む球の調子が悪いのかもしれない」などと、間違った情報を報告していた。






 これを見て観客席の晶は、ラプソードを構えている澪菜に対して。



「今のはムービングだったか?」



「たぶんそうじゃないですか?暁先輩って投げ損じはほとんどしませんし」



「そうじゃないと私が担当している意味がない」



 澪菜の曖昧な答えに、それでは困ると言いたそうなフォーム担当者。



「でも、ムービングの開発、あまり波間先輩は関与できてませんよね?」



「当たり前だろ。10cm未満の変化は切り捨てたい、でも不規則性は残したい。そんな矛盾が通るか」



「通ってるじゃないですか」



 晶の言う通りなら、あり得てはいけない現象なのではないかと澪菜は訊ねる。



「だから、冬の最初に着手したのに6月まで完成に時間がかかったんだ。

 あいつは球をなんとなくで握って、なんとなく「動かなさそうだな」という嫌な感じがする場合は握り直しをすることで対応してる」



 多球種を繊細に操る中で鋭敏になった嗅覚とでも呼ぶべき、説明できないただの感覚的なものに依存していると、半ば呆れ交じりに告げる晶。



「私がやったのは、10cm未満にしか動かなかったときにあいつに嫌いな苦いものを食わせ続けたことぐらいだ」



「え、なんですかその動物実験みたいなもの?」



「知らん。行動心理学とやらでは有用らしい。

 とにかくそれで「動かさなさそう」という感覚を増幅させて、いつでも検知できるようにした。体調が少し悪かろうがな」



 完全に動物実験のそれである。



「あの人、認知心理学の本の次は行動心理学にも手を出したんですか?

 それが野球に何の役に立つと?」



「気持ちは分かるが、役に立ってしまったんだ。頭が痛いことにな」



 辟易とした顔で、晶は述べる。

 0.1ミリ単位から視認するフォーム職人にとって、再現性を捨てたはずなのに実用性は保証する無軌道さには納得しがたいものがあるのだろう。

 そしてそれは、データを愛する澪菜も同様かと思われたが、



「でもその分、解析のしがいがあるってもんですよね!」



 澪菜の方は、未知を既知に変えるのに喜びを覚える性質だったらしい。



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