第四十五話 『汚染度』
快晴。
東風が背を押し、栗色の髪が風に乗ってふわりと膨らむ。
帽子を上からかぶって乱れるのを抑え、温かさの増す空気にほんの少し笑みをこぼす。
そして白い粉を手にポンポンとまぶし、白球に指をかけて顔をあげると、そこに浮かんでいるのは先ほどと打って変わった冷徹な光。
防具をかぶっている怜、静まり返った大阪桐蔭のベンチへと目を移し、目の奥に暗く冷たい氷を宿して、そこから冷気を広げていく。
両手で白球を持ち、胸に掲げ、目を閉じる。
ゆらゆらと揺蕩う水を纏い、踊る水に包まれながらゆっくりと呼気を冷たくしていく。
体に宿る熱は指先と目に集め、勝利への渇望を奥底に宿す。
意識を尖らせ、冷たく、冷たく、氷のように。
負けることは許されない。そのために相手は排除する。
どこまで狂わせようと、それが仲間たちを守るのだから。
「俺は負けない、お前たちが負けろ」
ぞっとするほど冷たい声色で、暁は彼らに小さく告げた。
大阪桐蔭に、油断はなかった。
夏に横浜高校を破って県準優勝、それだけなら偶然の助けもありえただろう。
だが、秋に神奈川二強を共に破り県優勝の後、関東大会でもベスト4、さらにはこの春の選抜でロースコアゲームで英明高校を倒す。
これだけの成果を出した相手に実力がない、などと判別することはありえなかった。
冬という、相手をどう育てたか未知の期間が挟まれたがゆえに、なおさら大阪桐蔭の警戒心は高まった。
だが――
「こんなにも、打てないのか?」
球速からは説明できない、攻略のできなさに打線は沈黙している。
2種のフォームがあり、そのうち速い方はMAX143km/h、遅い方はMAX138程度。そしてそれは正確にはMAXというにはあまりに常に発揮される。
ギアの上昇による球速アップ、というような現象は見られないが、その代わりずっと±0.5km/h以内でしかそれぞれのフォーム内でのストレートの速さは変わらない。
ブレのない精度に特化した、安定性。本来なら的を絞りやすくもするその性質が、この暁という投手の投法においては厄介さに変わっている。
的の絞れなさはフォームと球種で実現。問題を解消したどころか、見分けづらさで全く的を絞れない。
全く打てていない、というわけではない。だがそれは偶発的に、という感覚があまりにも強い。
1イニングにつき平均1本以下、それが5イニング目まで続き、6イニング目にまで突入しようとしている。
電光掲示板が目に入る。そこに記された大阪桐蔭0-1星海学園のスコア。
155km/hを持つ世代No.1投手たる赤沢は、十分抑えている。
小技の成熟度こそ全体にいきわたってはいないが、上位打線の得点期待値なら大阪桐蔭にも迫らんとする星海学園の打線を、わずか1点に。
だが、星海のエース、異端投手の暁の支配力は、その大阪桐蔭の打線をそれ以上に封じ込めている。
「こんな1年がいていいのか?説明、つかないだろ」
運だの調子だのと言い訳する気はなかった。すでに小技で揺さぶろうともし、しかしそれは不発に終わり続けた。
盗塁は塁に出なければできず、バントは球筋を見極められず失敗、バントに見せかけ打つバスターは球に当たりもせず顔色一つ変えない。
「化け物だ。しかも対戦しないとその恐ろしさが本当には分からないタイプの」
ぶるりと寒気にわずかに震える。まるでマウンドから冷気が漂ってきているように。
まるで打線が凍り付かされたように、崩れていく錯覚。
6イニング目も、打てない、打てない、打てない。
凡打、三振、凡打。
普通なら慣れて打ち込めるようになりだすこのタイミングで、なおも打線は沈黙。
三者凡退。
「……『錯覚の魔術師』」
大阪桐蔭のベンチで、誰かがそう口にした。
マウンドを去る暁は、息を整えながら。
「夏までに、100%に」
いまだ完全にならぬ己のシステムへのわずかな苛立ちを零していた。
7イニング目、同じこの回の表裏に双方の投手が切り替わる。
大阪桐蔭は150km/hの直球に135と120前後の緩急を武器とする、2番手に。
星海学園は、2種の異なるMAX150km/hのストレートを使い分ける、田代に。
7回表、星海打線は球筋と緩急の変化に対応しきれず、振るわず。
そして7回裏。
ついに登板した田代は、暁による『後遺症』を刻まれた大阪桐蔭と対戦する。
体感160km/hまで引き上げられた2種のストレート&ストレート亜種2種&基準を壊す球VS全国最強級打線。戦いの幕が上がった。
「あれが田代か、ストレートが2種類は危険だが、俺たちは160km/hでも練習している。
球威と重さは機械では再現できないが、対応する術は日々の練習で俺たちの身に刻まれているはずだ。
行こう、まずは確実に同点にして試合を振り出しに戻す」
大阪桐蔭のベンチから選手が飛び出していく。
彼らの心は一つ。まずは追いつき、そして逆転へ。
「くぅっ」
田代の押し切り差し込むストレートを受けながらも、この回の先頭打者はなんとか詰まらされながらも飛ばし、内野の頭を超え守備の間に偶然落ちるポテンヒットにすることに成功する。
大阪桐蔭というチームがなぜ打において全国最強級と呼ばれるのか?
それは層の厚さによるどこからでも長打を出せ、繋げることができる力――『だけではない』。
小技と言われるテクニックもまた高校野球界最高峰までレギュラー皆が極めているのだ。
彼らは小技を卑怯だとか、小手先の技だと思ってなどいない。状況に応じて繰り出す小回りのきいた技、そういう認識だ。
だから一瞬の躊躇もなく、確実を求めたときに選択できる精神を培っている。
一塁にランナーを置いて、初球からあえてバントの構えを見せつけながら球を見流し、ストライクカウントを取られてでも揺さぶる。
そして今度は振るふりをして、その隙に一塁からランナーがスタート!二塁へとランナーが走り込む。
この大阪桐蔭の意図は、当然響は看破していた。だが、伝令は飛ばない。
それは、こういった状況下ではありうると星海もまた田代に事前ミーティングで言い含めていたからだ。
伝令でリズムを崩すより、監督は選手への信頼を選んだ。
その選択が間違っていたわけではない。警戒されてなお、大阪桐蔭はそれを超えて上手い。
たったそれだけ。セオリーを完遂できるだけの力が彼らには備わっている。
ゴッ
田代の重いストレート1本に絞り、バントの構えから前に押し出して球質の重さに抵抗、一塁方向へと転がしながら打者は走る。
予期していたレオンはその2mを超える体を屈めて取るのではなく、走りながら頭からダイブするように跳躍、身長を活かして最速の捕球をしてミットを振り、収まっていた白球を走り寄っていた田代に投げ渡し――田代が一塁にすかさず投げてアウト。
しかしこれで、三塁にランナーが回った。
次に大阪桐蔭がとってくるだろう手、双方ともに理解している。
再び一塁方向にバントの構えから転がし、その隙に三塁ランナーが帰って点数に変換するプレイ、スクイズだ。
田代はこれに体感160km/hのホップするストレートで芯をずらして打ち上げさせようと試みる。
しかし、練習で160km/hに日常的に触れている大阪桐蔭の打者は、わずかに軌道の上から斜め下にスライドさせるようにして、芯を外しても下に転がる打球になるように補助。
一塁線と投手の間にボテボテと転がっていく。
レオンの敏捷性では間に合わない。飛び出す田代。捕って、ホームを見て――キャッチャーが腕でバツ印を作っている。
ホームは間に合わない、その意図を汲み取った田代は体を半回転させながら一塁へ。
これで2アウト。だが大阪桐蔭が1点を奪い取った。
1-1。一度は暁が作ったリードは消え、点数状況は振り出しへ。
さて、なぜ暁によってスイングが狂ったはずの大阪桐蔭が、田代に代わって直後にこんな見事なバント攻勢を成功させられたのか?
その理由は『微差緩急システム』にある一つの抜け道にある。
確かに『微差緩急システム』はスイングの調節幅を狂わせる。だがそれは振って瞬間的に合わせようとする動きに対するものだ。
一方バントは、バットを軌道上に置き待つ打ち方。これにタイミングや速度感覚の寄与する部分は、スイングに比べると少ない。
また、スイングとバントは全く違う動きだと脳は分類している。ゆえに、狂いもまたバントに対しては極小にとどまる。
暁の狂いは、バントを十分汚染することはできない、という抜け道。
暁にバントがきかないのは、球が同じに見えるのに変化球方向も変化量も毎回変わり、速度すら微妙な範囲で移り変わるからだ。
暁に小技がほぼ無効化されてしまうのはシステムによる狂いのせいではなく、暁の球の性質ゆえである。
だから、暁には通用しなくても田代には通用する、ということが必然的に起こる。
大阪桐蔭は、こういったロジックを今理解しているわけではない。
ただセオリーに従って確実に点を奪えると思った行動を選択しただけ。
だがそれが、この状況・条件における最適解だった、ということだ。




