第四十二話 『異端だわ』
香川の英明高校、それが選抜の2回戦での対戦校だ。
投手を軸にした守備能力に優れ、多くの試合で相手をロースコアに留める。その上でそれより上回る点数を取りに行くという型。
ただし、別段攻撃能力は低いというわけではない。普通に強豪上位レベル平均の打撃能力はある。単にそれ以上に投手が強い、というだけ。
ある意味では、レオン進化前の夏における星海の型に少し似ているだろうか。あんな奇抜さはないが。
対抗するは、冬を超えて成長した『新・黄金リレー』。
そしてその先発、暁の『微差緩急システム』
「さて、実証研究の時間だ」
暁は小さく呟き、いつものルーティンへ。
胸の少し上で白球を両手で包み、目を閉じる。
外界を遮断し、自らの内へ。
水の中に潜るように、暗い暗い水底に沈んでいく。
周囲の水がどんどん冷たくなって、だけど指先と目はじりじりと熱く。
水が割れて、パキパキと音を立てながら凍っていき、針状の小さな氷が舞う。
氷の世界の中で目を開くと、打者の輪郭とストライクゾーンがぼんやりと光り、怜のサインが鮮明に見える。それ以外はすべてが真っ白で、何も見えない。
(ああ、久しぶりだな、この世界は)
極限まで集中力が高まった時、暁はこの光景を見ることがほんのたまにある。
いわゆる『ゾーン』と呼ばれるものに近いのだろう。
この世界に入った時、暁にもたらされるのは、多くのアスリートにありがちなリミッター解除系の出力アップではない。
判断力と身体コントロール精度の上昇。すなわち――今だけは80%の意図的使い分けが、100%の完成形に至る。
怜のサインが大きく見える。
(ランダム、か)
怜の指示を見た瞬間、『ここ』と何かに囁かれるような、それでいて水泡のように自然と湧き出るような感覚に従って、白球を握る。
ホップする感覚を生む、ストレートを、速い方で、ど真ん中に。
打たれる心配などはない、ただ感覚に従う。
軌道を見送っていただけの打者の輪郭が、ブレる。
意表を突かれた、のだろうか?分からない。顔などここでは見えないのだから。
続く怜の指示を確認する。
(またランダム)
再び『ここ』だという声に導かれるままに白球が飛ぶ。
ストレートの軌道から、右打者の手前で外に逃げるようにしながら沈み、ストライクゾーンの中段ぎりぎり外へ。この球種も、速い方。
打者は手を出しかけ、しかし途中で引っ込める。見極めたのではないだろう。ただ輪郭の明滅から動揺が伝わってくる、ような気がしなくもない。
(次も、か。いいさ、今は休んでろ怜)
怜が脳を使うべきタイミングは今ではない。この世界にいる限りは、なんとなくいい感じの選択ができるのだから。
続けて投げ入れられるのは、再びストレート。ただしサイドのフォームによる遅い方が、外角下段ぎりぎりにビシリと収まる。
打者はスイングが始動していたが、内に来ると思っていたのかヘッドが届いていなかった。
これで2ストライク1ボール。
怜の指示は変わらない。完全にこの打者をこの場面で重要視していないということ。
そして、暁ならばランダム配球でも抑えられるという信頼。
(そろそろかな)
4球目、選択は遅い方。真っ直ぐの軌道から、打者手前で小さく打者の内側へ曲がる。高め真ん中から、わずかに内角に入り込む球。
打者はこれを打つ。だが芯を外し、キャッチャーの後ろへと飛ぶ。ファール。
これで変わらず2ストライク1ボール。
怜の『ランダム配球』は、コースをランダムで怜が指定し、そこに暁が条件内でランダムな球種を放り込む、というもの。
暁がコースまで指定してはサイン交換が煩雑になりすぎるし、かといってサインを省略し怜がどこのコースに来るか分からないようでは捕球できない可能性が上がりすぎる。
ゆえに、暁が球種と速度を担当、怜がコースという担当。普段との違いは、球種選択者が暁と怜で入れ替わっている、ということ。
(ああ、もうこいつは十分なんだな)
声の感覚が、『ここ』という選択がそれを暁に教えてくれる。もう次に行こうと。
5球目。ミット位置は下段。しかし暁の放った錐もみ回転の白球は上段へ目掛けて球筋が伸び、そのまま上へ行く――と思われた瞬間、急落。怜のミットに音を立てて収まる。
速い方で、アウトに。
2番打者を迎えながら、暁は再度『声』に耳を傾ける。
3イニング目が近づいて、暁はふっと周囲に風景が戻るのを感じた。
「あ、抜けたか」
時間切れ、あるいは集中の限界とでもいうもの。通常であれば何らかのきっかけで簡単に抜ける『ゾーン』状態が、2イニングも持った方が希少寄り。
「暁?お前、なんかすごい集中力だったぞ」
普通であれば、話しかけたり肩を叩いたりと余計な刺激を与えて現実に引き戻されることがあるのだが、そこは響が「今は暁っちになにもしないで」と指示したことで回避し、長持ちさせることに成功した。
それでも、2イニングという期間で終わってしまうほどに淡い体験なのだ。
「悪い悪い。で、何か相談事か?」
「ああ。そろそろ『挟む』可能性も出てきたからな。一応の確認だ。
俺の判断でいいんだな?」
「そこは任せる。響先輩の薫陶を受けたお前の方が的確に判断できるだろ。
俺もあの状態ならできたのかもしれないけど、あんなのなんとなくだしな」
ゾーン状態での無意識下の高速処理と最適化を『なんとなく』と表現する男、暁幻大。
「なあお前ら」
そこにくちばしを入れてきたのは田代。
「そろそろ教えてくれないか?お前たちがシステムって呼んでるものの正体を。
俺だけじゃなく、気になってるやつもいるみたいだ」
田代の言葉に、ベンチに並ぶ複数人が無言でうんうんと頷く。その中には響の姿もあった。
それに暁はひょいっと肩をすくめて。
「じゃあ話しとくか、全貌を。
『微差緩急システム』、その目的はスイング幅の調整を狂わせ続けるところにある。
まず第1段階として、『前球との速度差が常に5~7km/h以内になるように、5km/h区分で分けた隣接速度帯と同速度帯から球種を選んで延々と投げ続け』るんだ。
140→135→130→135→135、みたいな感じでな。実際はもっとブレてていい。3km/hとか2km/hとか。要は5~7km/h前後なら成立する。
すると、だ。『相手はこの普通では分かりにくい微差を検知するために無意識に脳が速度感知機能を鋭敏化させだす』。
人間にとってこの速度差は、別物であるとは意識下において判別することが難しい、境界線だからな。
そうなると、『スイングの調整幅が大きくなりすぎたり小さくなりすぎたりで狂う』んだよ。
実際より速く反応しようとしたり、実際より遅く合わせようとしたり、スイング開始やバットの出し方を過剰調整したり、な」
「ちょっと待て暁、それは前までにお前がやっていたことの」
「そ、発展形。『黄金リレー』で俺に求められていた効果を最大化するための方法論だよ。ここまでは、な」
なんでもないように暁は答える。
「ねえ暁っち、前からあーし不思議だったんだけど、なんで相手は1打席程度で狂うん?いってもたかが4~5球じゃないの?」
響の疑問に対し、暁はまるで何かの科目の先生のように「いい質問ですね」と言って。
「確かに自分の打席だけで狂うのには足りない――でも、選手はベンチから目を皿のようにして俺の投球を見るんですよ。
もちろん、自分が打席に立つより減衰しますよ。2割なのか3割程度になるのか、まあそれは分からないけれど。
でも、減衰しても見る数が増えれば蓄積していく。
だから、スイングが狂っちゃうんですよね」
暁はバットを振るポーズをしてみてから、姿勢を戻して。
「で、ここからが第2段階。
相手も当然頑張ってスイング幅を調節していくわけだ。そうすると、最初は合ってなくとも少しずつ合うこともある。
困るよな?なのでこうする。
『相手のスイング幅が合ってきたら、通常緩急か『劇的緩急』で調節幅をリセット』、だ。
相手の今までの調整じゃどうやっても合わないのを放り込んで、調整基準を一度壊す。
すると当然、相手は『またスイングの調節を最初からやり直し』になるわけだ」
一同、沈黙。いや、怜と監督だけはなにやら面白そうにしているか。
「で、第3段階。ここは単純だ。
リセット後は『また微差を押し付け続ける』ことで『再度スイング調整幅を狂わせ』る。
あとはこれをループする。
すると――打者の適応や慣れってやつを拒絶することができるんだよな」
暁は「理論上、永遠に狂いから打者は醒めることはできない」と結ぶ。
「これが俺の考案した『微差緩急システム』。
コンセプトは『元々『黄金リレー』でやってたことを俺1人で、より攻撃的に行うこと』だな」
のどを潤すために暁はぐびぐびとドリンクを飲んで、クッキーを1枚かじり。
「夏に投球のためにたくさん本を読んでたんだが、その中に認知心理学の本が紛れ込んでてさ。
それを見て、これだ!って思ったんだよ」
「ご、ごめん暁っち、あーし難しくて途中から分かんなかった」
響の率直な意見に暁は大きく頷き。
「『スイング調整?慣れたい?ダメー!一生狂ってろ』ってことです」
「そーなんだー。暁っち、説明うまいね」
「いえいえそれほどでも」
褒められて悪い気のしない男、暁幻大。
この男、自身の理論がどうやら通用することが分かって余裕が出て来たのか、夏までの性格が戻ってきていた。
勝利への異常なまでの執着はいまだに奥底に残っている。しかし表面はかなり昔に近い。
「あ、もう出番じゃん。行ってくる」
そう言ってミットを掴み、マウンドに向かう暁。
その後ろ姿を見て。
「あいつ、頭の中まで異端だわ」
そのセリフは、誰が言ったのか分からなかったという。
たぶん誰もが思っていたからであろう。




