第三十八話 『広がる名前』
決勝後、怜は額に氷嚢を当てながらうめき声をあげつつ、ラムネを数粒口に運び、オートミールにナッツとドライフルーツを乗せたものをタッパから取り出して食べ始めていた。
風邪などの体調不良ではない。脳が疲弊している状態なのである。
今の暁へのリードは、通常の投手の倍以上の球種に速度があり、しかもその時その時で速度がランダムに変動するためリードを随時切り替えていく必要がある。
さらに通常のキャッチャーの仕事もあるため、脳の疲弊度は通常の投手の3~4倍程度にまでなる。
怜は、脳の90%ほどを暁のリードに費やしており、暁が登板した試合後はいつもこうなる。
結果、怜は自分の打席は反応だけで打つ状態に退化。打撃成績が急激に落ちていた。また、他の投手のリードをする余裕もない。
長いイニング持たないというのは、今はもう暁だけではなく怜もまたそうなっていた。
将来的には、ある程度のパターン化や慣れが生じ、暁の意図的使い分けが向上すればリアルタイムの配球組み立て変更が減ると見込まれている。
そうなれば、これほど短い時間で限界を迎えることはなくなるだろう。
それでも、おそらく打撃に回す余裕は戻らない。
怜は己の打者としての成績を全て暁の投球のために捧げ犠牲にした、専用OSとなりつつあった。
「怜、プリン食べるか?」
優勝が決まった瞬間に食べていたのは元々は自分用ではなく、怜への差し入れとして買っていたものだった。そのうち1つはもう食べてしまっていたが、クーラーボックスから取り出し差し出す暁。
「いい……血糖値スパイクは避けたい。それよりそっちのバナナの麦おかゆをとってくれ」
すぐに回復するものは、後で副作用として血糖値がインスリンで急激に下がり、だるさや最悪繰り返せば内臓に障害が起こる恐れもある。
なので、試合中の緊急時以外はラムネ接種を控えめにし、こういう吸収の緩やかなもので補っている。
だがそれは、同時に苦しみを長引かせる行為でもある。
試合後はこの状態の怜にあまり話しかけすぎるのも良くないので、そっとしておきながら暁は送迎バスの自分の席へと戻っていく。
一方、『共犯者』であるはずの紫苑は、それは自分の仕事ではないとばかりに興味すら示さず、それどころか暁の側で今日の配球についてフィードバックを求め、確認作業を行おうとしていた。
秋季関東大会、それは東京都を除く関東地方の高校による地区大会で、県大会の上位2校と、開催県の高校1つを集めて競う地区大会である。
公式には『この大会は予選ではない』と高野連は発言しているが、実際にはここで上位成績をとることが翌3月に開催される選抜に進む選考基準になるため、はっきり言ってそんなものは建前だと関係者はみな分かっている。
そして、選抜と言えば春の甲子園と呼ばれる大会で、夏に比べてネームバリューはないが高校球児にとっての超重要大会である。
秋季関東大会は15校で行われるため、勝ち上がっても最大4回の試合しかなく、1回戦の次には準々決勝、日程は約1週間以内に全試合行われると、なかなかに過密日程寄りであると言える。
また、ここでベスト4に入る、要は2回勝ち上がれば選抜は当確とされている。これまた建前上確定ではないなどいろいろ言われるが、実際にはほぼ決まる、と考えていい。
ここで重要なのは、試合日程が連日や1日空き、程度でしかないということ。
つまり暁を代表とする連投耐性の低い投手にとって不利で、根付にとっては真価を発揮できる場である、ということだ。
そして、この秋季関東大会は、横浜高校とした県大会決勝戦からさほど期間も置かずに行われることになっていた。
「秋季県大会には関東圏の各上位2校しか集まらない――要は先の県大会の準決勝~決勝クラスの相手と1回戦からずっと戦い続けるイメージでいい。
星海学園の目的は春の選抜出場、つまり『新・黄金リレー』で2回勝ち上がり――その後は育成に回す」
監督の言葉に、現主将が手を上げ質問する。
「監督、神宮は目指さないのでしょうか?」
「神宮大会に出るには、暁を4試合連続で出して優勝しなきゃならん。それをやったら現実的に潰れかねん。
俺にはそれは容認できない。今回、神宮は最初から捨てる」
神宮大会とは、秋季地区大会(北海道・東北・関東・東京・北信越・東海・近畿・中国・四国・九州)の優勝校が出場する、つまりは秋の全国大会である。
主将として事実を皆に周知して確認しておきたかっただけなのか、彼は続けての意見は述べずただ頷いて座る。
「関東大会までは、海原の集めてきた出場校のデータを基に対策練習を行う。
ただし、状態を万全に保つことを最優先にすること。
以上だ。それじゃ解散、まずは負荷を控えめにして調子を戻すように」
こうして星海は新体制にて初めて、県外に出ることになる。
なお、玲奈はこの時点で神奈川にいない。学校を休み、直で県外の対戦校の練習を変装して潜入し、データ取りしている。この10日で各地の対戦校を回るつもりだ。
彼女に今回求められているのは3回戦分、すなわち7校の対戦データ。時間的にはぎりぎりであり、他のデータ班の力を借りてなお、トップ層スカウティングの人数不足の傾向がみられた。
秋季関東大会本番、暁たちは1回戦を問題なく勝ち上がることにまずは成功した。
茨城の正統派名門校、常総学院は、玲奈の緻密なスカウティングによって丸裸にされ、その弱点をもとに紫苑が嫌らしい配球パターンを専用構築。
キャッチャー陣に共有された、相手の苦手パターンを利用した配球に、常総学院打線は苦戦を繰り返し、じわじわと嬲られていく。
一方で攻撃面では根付が14球、15球、11球と次々粘り続け、他は投手の癖と得意球を逆手に取り打ち込んでいった。
無論、向こうも地区の名門にして代表、その身に宿る力で反撃を試みるが――3年生がいない状態での弱体幅により生まれた地力の差によって、突き放される。
この秋の関東大会、そして『新・黄金リレー』下という条件であれば、最強格は星海学園になっていたのである。
神奈川の新興校が、夏には県内の二強相手に健闘し、秋にはその二強を破り、さらにはこの関東大会という地で他県にも勝ちうることを証明した。
すでに高まっていた名声は、この結果をもって『星海は全国で通用する強豪に成り上がった』と急速に広まっていく。
それは来年春の選抜や夏の甲子園への世間の期待をどんどんと大きくしていくのである。
また同時に、星海の選手たちもまた有名になっていく。
『蜃気楼』暁幻大、
『剛腕ルーキー』田代剛、
『泥沼』あるいは『毒沼』根付大志、
『カリブの大火砲』虎杖レオン、
そしてそれらをまとめ上げる新主将『静かなる天才』にして『星海の良心』鏡峰良太。
このあまりに熱い陣容が注目されていく。
なおネーミングについては一部、監督自らSNSに流したという経緯があったりした。
大仰な異名があれば相手はビビッて警戒する。『うちは投手だけじゃないぞ、打者もすごいのに投手攻略だけにリソース割いてていいのか?』と監督は暗に示し、情報戦を仕掛けている。




