第三十七話 『回帰』
東海大相模戦を4-2で勝ち上がり、星海学園はついに秋季県大会の決勝へと到達する。
関東大会への進出はこの時点で決まっており、決勝で勝つ必要性は本来であればそこまでない。
もちろんこれは星海の合理性基準での話で、一般的な高校球児は誰でも勝ちに向かう。
だがここで、監督はこの試合を勝ちに行くと決めた。
理由は言わなかった。言えばそれは、贔屓のようにも聞こえるからだ。
夏で果たせなかった優勝、それを疑似的にでも経験させることで監督は暁の心を少しでも晴らしてやりたかった。
もちろん代わりにはならないことは分かっている。
だが、ことあるごとに甘味で騒ぎ、天然なふるまいをしていた彼が、ストイックに勝利だけを見つめる姿は頼もしく見える反面痛々しくもあった。
それなら、ちょっと緩く戻ってもいいだろう、と監督はこの勝利をたった一人の教え子のためだけに使うと決めてしまったのだ。
決勝の相手は、やはりというべきか横浜高校。
向こうにとっては夏の準々決勝敗退の元凶であり、こちらにとっては神奈川最強の難敵。
ともに戦意をみなぎらせた目で、選手たちは試合前の礼をして整列が解散される。
「暁、今日も4イニングを頼む。田代はそのあと4イニングを。最後は高坂。いつもの『新・黄金リレー』だ。
攻撃は根付、今日は主義を曲げて出塁優先めで頼む。とはいえ自分のペースは崩さない程度に。
今日で大会が終わりで2番手ピッチャーもレベルがそう変わらない以上、球数が嵩めば替えてくるだろう。そうなるとむしろ慣れがない分、替わってしばらくこちらが打てなくなりかねない。
今日のこの試合に限ってはお前の粘りの効果がほとんどない」
もちろん、後続のピッチャーは調子が悪いということもありうる。だが層の非常に厚い横浜高校相手にそれを期待するのはギャンブルが過ぎる。
それでなお、根付をレギュラーから外さなかったのは、春までの1番打者が卒業してもういないからだ。
今の星海の層では、根付の代わりに他のバッターを据えれば、打撃成績はともかく守備で穴が開きかねない。多少の点数よりも、安定した防御を監督は選んだ。
「この試合勝てば、10日後には関東大会だ。
まずは神奈川最強がもう入れ替わったってところを見せつけてから、関東の高校達に殴り込みに行こうじゃないか」
監督は味方の戦意をさらに煽り、そして試合は始まっていく。
今年の秋の神奈川の頂点を決める戦い。果たして勝者となるのはどちらか。
暁は1回、2回とさくさくと横浜打線をさばいていき、そこまで1ヒットという素晴らしい進行。
にもかかわらず、彼の心の中は不満でいっぱいだった。
3回に入り、不幸なヒットが内野の頭を超え、さらにそのランナーは二塁へと盗塁を成功。
暁は体に腕を巻き付け回転するというフォームの特性上、牽制は得意ではない。
牽制に能力を振ったクイック用フォームは、自分の強みを大きく損ねる以上採用すらしていないという割り切り。後続さえ切って捨てれば点数にはつながらないというある種傲慢な選択だ。
そして、MAX140という全国的にはそこまで速くない球速では、キャッチャーが受けてから投げて盗塁阻止するのは、球速が速い場合に比べて難度が上がる。
なので意外と、盗塁というのは暁に有効である。
これがすぐに発覚しなかった理由は明らかで、そもそもあまり盗塁できる足の速いランナーが塁に出られなかったからである。
塁上にいなければ盗塁はできない。極めて当たり前のことで、それだけ暁はヒットをなかなか許してこなかった。
暁はまずは眼前の打者を切り落とそうと、キックチェンジからの急加速ストレートで打ち取ろうとして。
(あ、不発っ)
遅いキックチェンジの直後に投げたのが、サイドの遅い方のストレートになってしまう。
キン、と軽い音で外野フライ。だが、上がった球を外野が取った瞬間に、二塁にいた横浜高校のランナーがロケットスタート。
あわてて星海側も投げるが、わずかに送球がそれてしまいランナーは無事三塁へ。
(これで今日は不発が2回目か……)
2回連続で不発してしまう確率は、遅く入ったキックチェンジの後にどちらの速さのストレートになるかなので、単純計算で25%。普通に起こりうる数値である。
この不安定さが今の暁の構造的欠陥だった。
急加速ストレートは、不発になれば+12km/hの通常緩急でのストレートになる。
これでも強いことは強い、レベル帯によっては全く対応できないことすらある。実際、今日の1回目は問題なかった。
だが、このシークエンスは『遅い球の後に高めのストレート』という誰でも分かるコンビネーション。そう、誰でも読めてしまうのだ。
そして読めるのならば、横浜打線は打ててもおかしくないレベル帯の相手なのだ。同時に、打てないことも普通にあってもおかしくないレベルでもあるが。
続く打者が、暁からまともに打てる確率は低いと神奈川絶対強者のプライドを捨てバントの構え。一塁側に転がし、打者自身がアウトになる犠牲を払って三塁にいたランナーを返す。
横浜高校は、暁相手に確実な1点を選択した。
その瞬間、フラッシュバックするあの決勝の光景――夢を奪ってしまった、罪の瞬間が脳裏によみがえる。
(また、あんな風に――違う、もう負けない、負けるなんて許せない。
勝つ、勝つ――何をしてでも、絶対に!)
体の奥からこみ上げる冷たい悪寒を無理やりに勝利への渇望で握りつぶし、白球をしっかり掴み直す。
(もう負けない――みんなに二度と味合わせない!あんな思いは!)
どろどろと暗い感情が溢れ、暁の体に先ほどまで以上の力がみなぎる。
冷たく、同時に熱い感情が心を冷やして尖らせていく。
(怜、プランCだ)
(このタイミングでか。
アウト効率という意味ではあまり効果はないが、相手へ与える心理的インパクトは十分。オーケー、やろう)
(ああ。今だけ、回帰する)
第1球、相手左打者の体に直接向かう球はその途中で大きく弧を描きながらギュイインと掃くように横滑り、外角の中段へと収まる。
1ストライク。
2球目、遅いスイーパーの後に投げるのは速いキックチェンジ。先ほどと等速で投げられた球は、打者がストレートと強く誤認する。内角の上段から、急落して下段のコースに。
2ストライク。
3球目、今度は遅くなったストレート。目のすぐそばに、その軌道を植え付けるためのボール球。まるでデッドボールを狙っているかのような殺意に打者は一瞬気圧される。
2ストライク1ボール。
最後――かつての最強球、今でも決め球たる空振り生産機。
速い方になったこれは、直前のストレートより3km/h『速く』、速度逆転現象を起こしている。ストレートより変化球が速いという違和感で無意識が一瞬動きを遅延させる。
意識化では、こんな微細な速度差は検知できない。だが優秀な人間の無意識だけが勝手に反応する。
ライフルのように錐もみ回転する球が、ストレートと全く同じ軌道から打者の手前で急落。振り遅れたバットは、すでに中央下のボールゾーン滑り込む白球をとらえられず空振り、構えられたミットに白球が収まり、音を立てる。
3ストライク、アウト。チェンジ!
一時的な三振型への回帰。横浜高校は思い出した。夏の準々決勝、豪快な三振劇でなすすべもなく打ち取られていった己を。
(俺は負けない。お前たちが負けろ)
冷たく暗い目で、暁はなおも対戦校を睨み続けていた。
5回から4イニングを担当した田代が1点を失点し、それだけで切り抜けて5-2の状態で9回の表、ここで何とかしなければと最後の横浜打線の攻撃が始まっていた。
しかし、高坂は2アウト一塁にまで状況を持っていく。
あと一人、あと一人で優勝が決まる。
だがここで露呈する高坂の弱点。
握力の減少と風の具合が重なり、ナックルがただの揺れない緩い棒球になってしまう。
カキィィンッ!
センター下段に放り込まれる、2ランホームラン。投げられた球自体が緩かったがゆえに山なりに大きく打たれた打球がぎりぎりでスタンドに入った形。
これで星海5-4横浜高校。
この点数状況、流れ、思い出すものがある。
「高坂交代!工藤、頼んだ!」
流れを変えるためにもと、今度は交代が間に合う。
登板するのは2年生ピッチャー、計算できる男、工藤。
工藤はすでに2番手としての立場も危うい立場になっている。
星海のピッチャーたちの支配力は、暁を100と仮定すると、もう引退した室井が90、田代が80を少し上回り始めて、そして工藤は68程度か。なお、高坂はその日その瞬間での変動が大きすぎるため換算できない。
これだけ見ると、大したことがないように見えるが、工藤の強みは低めに精密に球を集めることで安定して完投まで持っていける、計算のしやすさだ。
完投できない・心もとない1年生ピッチャー達ばかりが集まっている現状、工藤のような選手は欠かせない。
そしてこうやって、火消しのようなことも任せられるメンタル。
工藤が下に落とした球に対する打球は、勢いよく飛ぶも、ショートにいる星海の主将の飛びつきによってあえなくアウトにされる。
ファインプレーで決勝の幕を閉じ、1点差のままで星海の県大会優勝が決まる。
「暁、優勝だぞ」
「ええ、そうですね。次も、勝たなきゃ」
心に届いたか、という甘い希望はしかし、なおも勝利に急かされているようにしか見えない暁の姿に否定されるかに見えた。
だが、暁が取り出したプリンに監督は目を奪われる。
「お前、それは?」
「とりあえず、勝利の味を味わおうかと」
それは『勝利の味』ではなくプリンの味だろうと思うものの、なんだか前の暁が少し戻ってきたみたいで監督は嬉しくなる。
こみ上げてきた笑いをかみ殺しながら、
「関東大会も頼むぞ、お前ら」
「全員狂わせますね」
「出来る限りやってみせます」
暁と田代は答え、高坂は無言で頷き、それ以外もバラバラの声を上げる。
そして、そこにマウンドから工藤が帰ってきて。
「みんなで監督を胴上げするか」
束の間の、勝利を噛み締める日がここにあった。




