第二十四話 『俺が先輩の夢を』
決勝。
星海学園(先攻)5-4(後攻)東海大相模、1点リードの状況。
9回裏、2アウト・ランナーなし。
暁は一瞬前に三振で連続アウトに取った白球を、梅本から投げ渡され握り直した。
「「「あっとひっとり、あっとひっとり、あっとひっとり」」」
会場に巨大な熱が舞い上がり、地揺るぎするようなコールが鳴り響く。
「「「あっとひっとり、あっとひっとり、あっとひっとり」」」
星海学園の勝利まで、あと1人。
たった1人をアウトに取れば勝負が決まる。
(そうだ、あと1人だ、あと1人で甲子園に)
誰もが固唾を飲み込む。
テレビの向こうで見ている者も、観客席も、両ベンチの選手と監督も、対戦する東海大相模の5番打者でさえ。
バッターボックスに5番打者が入る。
梅本が構える。
暁が足を上げ、体を捻じり、腕が体に巻き付けられ、独楽回転。
体で陰になった腕が遠心力に押し出され、弾かれるように出現。
蛇のようにしなる腕から放たれる、ストレートにしか見えない白球が、打者のほんの少し前でクンと小さく利き腕と逆側に曲がる。
ストライク!
「「「あっと2球、あっと2球、あっと2球」」」
コールが変わる。
観客たちは、新興の野球校が神奈川の二強をなぎ倒し、甲子園への初出場を決めるというストーリーに酔いしれていた。
会場全てが、星海の味方。
いや、東海大相模の応援団たちは必死に声を張り上げている。だが、それは数の暴力の前で打ち消される。
暁の腕が迸る。
ホップする錯覚を生むストレートが、外角のぎりぎり下におさまる。
ストライク!
「「「「「あっと1球!あっと1球!あっと1球!」」」」」
ますますコールが強くなる。
誰もが期待している。星海の、そして暁の勝利を。
現れた新星が甲子園の空に輝く姿を。
暁は梅本のサインに頷き、力をかけて白球を握る。
足を上げ、体を捻じり、腕が体に巻き付けられ、独楽回転。
体で陰になった腕が遠心力に押し出され、弾かれるように出現。
蛇のようにしなる腕からはな――
ビリッ
指先に走る、痺れ。
リリースの瞬間、指のかかりが甘くなって。
そのまま、ストレートの軌道から白球が急落――しない。
緩くストンという感じで重力に負けて垂れて。
ガキィン!
迎え撃ったスイングが見事に打ち抜き、外野の頭を超えた。
痛打による二塁打。完全にとらえられた。
暁は一瞬だけ打球を振り返り、しかしすぐに胸の前の自分の左手に視線を落とすようにうつむき。
星海ベンチでは監督が熱気から逃れるように受け取ったスコアブックで自身を仰ぎながら、
「暁のアレが打たれるなんて珍しいな。だが、後続を抑えればいける」
暁への信頼をにじませる。
だがこの時響は、不安と戦っていた。
(なに?うまく言葉にできないけど何か見落としてる気がする。心にモヤモヤが――。
なんで?暁っちはいつものように顔を伏せて集中してて――)
その瞬間、顔を上げた暁の顔を、響は3.0の超視力によって視認する。
考える前に、瞬時に叫んでいた。
「監督まずい!暁っち、今の1本で完全に飛んじゃってる!
目も、呼吸も――今すぐ降ろして!このままだと――!」
唐突な緊迫した大声に、
「は?」
監督は呆けてしまう。
だがそこは今まで変わり者たちを引き連れてきた智将。すぐさま頭を再起動する。
(この状況でパニックになった?あの暁が?1本ヒットを打たれただけだろ?準々決勝では失点したのに問題なかったはず。
いやだが、天川がこうまで言っているんだ。俺が信じないでどうする。)
決断を下すまで、数秒。
急いでベンチから出て、タイムを申告しようと手を大きく上げ声をあげようとして。
しかしその直前、マウンド上ですでに動き出していた。
投げるモーションに入っている。
(まずい!)
その監督の心の声は、しかし届かない。
顔を左手から上げた暁の目は、ぐるぐるぐるとあちらこちらに視線が定まらず、呼吸は浅く荒く過呼吸のように。冷や汗が噴出し、奥歯をカチカチと嚙み締める。
典型的なパニック症状。
(なんでなんでなんで――あれが打たれるはずないのに――いや違う、抑えなきゃ、アウトにしてそれで、だからとにかく一番速い球を)
暁の決め球、絶対の自信球。
それは実は、入学してから今まで打たれたことがなかった。
『一度も』『誰にも』『あの横浜高校打線にも』、飛ばされた経験は存在しない。
だから暁の中では『決め球を投げる』=『空振り』だと完全に脳に刷り込まれてしまっていた。
だからたった一度の例外に、パニックに陥る。
これは心が強い弱いだけではない。認知の問題だ。
そして、監督や梅本といった他の人間には盲点になる。
彼らにとって、決め球はたまに打たれるもので、それが当たり前。
だが暁の経験下ではそうではなかった。
(速い球、速い球、速い球)
一刻も早く目先のストライクを取ること、それだけしか頭になくなってしまった暁は、バッターボックスに入っている6番打者の顔も、梅本のサインすら目に入ってはいない。
(速い球!)
いつもの投球フォームが乱れ、旋回力がわずかに損なわれ、リリース位置がずれ、ホップするはずの球はただど真ん中に置くことだけを目指した棒球になる。
そしてそんなものを神奈川二強の片割れが見逃すはずもなく。
カキイィン!
高く響く金属音を残して、空へと球が飛んでいく。
ぐんぐん、ぐんぐんと伸びて。
スタンド中段に放り込まれる。
逆転サヨナラ2ランホームラン。
この瞬間、この年の勝者が決まり、星海の敗退が決まった。
「あああああああ」
崩れ落ちる。
両膝をつき、頭を両手で抱え、丸まった背中。
ぼろぼろ、ぼろぼろと涙が滂沱のように流れて
「暁!」
防具を投げ捨て、急いで駆けつけてきた梅本。
だが暁はその声に反応しない。視線はどこも見ておらず、外界を完全に遮断している。
ただただ言葉が繰り返される。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、先輩の……先輩の夢を、俺が……」
その懺悔の言葉を聞いた瞬間、梅本は自分の罪を自覚した。
GW合宿の帰りのバスでのやり取りがフラッシュバックする。
あんなのはただの軽口のつもりだった。『よろしく頼む』なんて、ただのノリで。
自分がプロになれるなんて、全く思ってなどいなかった。
だけどこの純粋な後輩は、本気にしていたのだ。
『俺が連れてってあげますよ』
その言葉は、暁にとっては約束だった。先輩への恩返し。誓いだった。
「……俺は、先輩失格だ」
1年生にはあまりにも重いものを、無自覚に背負わせてしまっていた。
苦鳴を漏らすように小さく誰にも聞かれないように呟いて、梅本は奥歯を食い締め、うずくまったままの暁に肩を貸す。
一人では歩けない暁を、ゆっくりでもベンチへと帰そうと。
「もういい暁、お前は十分頑張った。そんなに自分を責めなくていいんだ」
そんな優しい慰めすら、耳に入っていない。
ただただ、後悔の言葉を垂れ流している。
「……俺が、三振なんかにこだわったから……」
「暁……」
ベンチに向かってくる暁と梅本を痛々しく眺めながら、彼らは自分を責めていた。
「私のせいです、私が浮かれて報告を忘れたから……暁くんは1イニングも持たないかもしれないって」
零はベンチで、自分の仕事を果たすこともできなかった自分を。
「あーしが、もっと早く気づいてあげられれば……」
響は、顔が見えなかったとはいえ大事な後輩のピンチを察するのに遅れた自分を。
(俺はなんて過信していたんだ。
『暁は頭がいいから』?『暁なら』?『勝つために』?
違うだろ、確かにこいつは強かったが、同時に1年坊だったんだ。
それを俺は、忘れて)
監督は、教育者としてあまりにも大きなミスをしでかした自分を。
甲子園の夢は指の間から零れ落ち、誰もがすぐにはまっすぐ前を見られなかった。
あまりにも苦い経験をただ噛み締めるしかなかった。
決勝戦から数日後、3年生の引退式。
そこに暁の姿はなかった。
「合わせる顔がない」、伝言を頼まれた怜は、暁がそう言っていたと述べた。
室井も、梅本も、澪も、他の3年生もそれを聞いた瞬間苦虫を噛み締めたような顔をした。
暁はまだ自分を責めているのだと、自分たちは彼の心を救えないまま引退していくのだと痛感して。
引退式が終わって、それぞれが自分の家や寮の部屋へと散っていく。
彼らはもう、当事者として部活に顔を出すことはない。
時代は次へと流れてしまった。
そんな彼らの後姿を、暁は離れた学校の屋上から見送っていた。
合わせる顔はない。でも遠目でいいから見ておきたかった。もう会えるのは最後かもしれないから。
暁が引きこもっている間、自分が顔を見せると逆に傷つけると訪問を控えていた梅本。
それが優しさなんだと暁にはちゃんとわかっていた。
どこまでも、最後まで優しかった大好きな先輩。
だからこそ、彼の夢を永遠に奪った自分のことを許せなかった。
もしも、贖罪の方法があるとするならば。
(もう、三振へのこだわりは捨てる。
勝つために……みんなを勝たせるために、相手を狂わせてやる)
勝利。ただそれしかない。
今度こそ負けない、負けさせない。
みんなを連れて、甲子園に。
そのためならどんなことでもすると、暁は決心した。
(第1部:『高1の夏、鮮烈デビューと決勝の悪夢』、完)
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第2部からも毎日更新を続けますので、どうぞよろしくお願いいたします。




