第二十話 『泥沼』
レオンが2塁に走り込み、元いたランナーの2人が帰ってきた後、相手投手が大きな背を丸めて、2人がかりで脇を固められながら自分の足で向こう側のベンチに帰っていく姿を、日々位はその超視力でしっかりと目の当たりにする。
「うわあ、ちょっとかわいそう……泣きながらベンチに連れられていっちゃったよ。
レオぽんもちょっと気の毒そうな顔してるし。あ、自分で張り手して気合い入れ直した」
一瞬、『レオぽん』ってだれ?と思ったものの、文脈的にレオンしかいないのでそうなのだろう。
響のネーミングセンスは時折よく分からなくなる。
「天川、同情するほうが相手に失礼だぞ。お前の目はわかってしまう分共感してしまうのかもしれないが、俺たちは自分のベストで相手を叩かなきゃならない。
同情するのは味方だけにしておけ」
そうは言っているが、監督はそんな消極的な理由ではなく勝つために自ら叩いているような気がすると、ベンチの皆は言葉にこそしないが揃って思った。
「はーい。分かってはいるんだけどね。あーし、優しい女の子だから。きゃぴっ」
空気を変えるためにわざと痛い感じにおどけた響をみんなしてスルー。
「天川、いいからあの出てきた3番手のレポートを頼む」
「りょ。
肩周りを気にしてる――緊急登板だからまだあったまってないのかな?
帽子を多めに指先でつまんで直してる――焦りを抑えようとしている可能性。
ミットを指の順番に弄ってる――何らかのルーティンかも。
足元をしっかり踏み固めてる――落ち着こうとしてる感じ。
総評、焦りはあるけど理性で落ち着こうと頑張ってるような気がする、だよー」
「ふむ、まあこの状況ならそういう心境にもなるだろうな。
となると、揺さぶるか普通に攻めるか――レオンが二塁にいるし、まだ3点どまりだし、バタバタしなくてもいいか」
珍しく、積極的な手を打たないことを監督は選択。
根付1人でも十分投手を削り揺さぶれるという判断だろう。
それ以外の打者には点数を取ることを優先させる。
しかしこの回、その焦らない監督の動きが相手に落ち着かせる時間を与え、レオンを三塁に進めたもののその後が続かず、さらなる追加点はなしに選手たちは戻ってきた。
「ま、攻撃はゆっくり行こう。
暁の準備はできてるか、ブルペンに確認してくれ。あと伝言だ。2イニングまでだとな」
鎌倉学園のベンチの空気は、かなり悪かった。
本来この試合から投げるはずだったエースが怪我で投げられず、すでに使った投手たちを頼るしかない。
ただでさえそんな負担をかける状態で、2番手投手が早々と沈んだ。
あの虎杖とかいう男に打たれたのは、ただの不運だったはずだ。
いつもなら、あのあと立て直して、どうにかやり過ごせたかもしれない。
だが先に、心が折れてしまっていた。
そんな状態で投げさせ続けるわけにはいかない。チームのためにも、本人のためにも。
交代は当然の判断だった。
だがその代償に、残り8イニングを3人の投手陣で何とかしなければならない。
「星海は俺たちを舐めてる。1年生投手なんかを先発で出してきているのがその証拠だ。さっさと打ち込んで、引きずりおろしてやれ」
追い込まれているという実感が、攻撃的にさせる。
だが、その判断は過ちだ。
2回戦と違って、暁は決め球の制限を解除されている。
そして梅本が、夏の初めての先発という場面で投手を気分に乗せないわけがない。
打者が2人、何もできずに帰ってきたことで、鎌倉学園の監督の顔がさらにこわばってくる。
「あの落ち球を投げさせるな!あれだけは危険だ!ストレートや他の変化球を叩け!」
「しかし監督、それが……」
すでに三振して帰ってきた打者が、忠告しようとするも。
「140もないストレートなんか、打てるだろう!他の変化球もキレがいいが、あの決め球ほどじゃない!速度差だってストレートとそんなにない!お前たちなら打てる!」
半ば根性論を飛ばす自らの監督に、暁の投球を受けた打者は気圧され。
(でも、全部ストレートに見えるんですよ)
その最も大事な報告を、心にしまってしまった。
伝令が飛ばされ、早打ちが指示される。
だがそれは、泥沼にはまっていく行為だ。
無理に打とうとすればするほど、暁の微差がバットの芯を外す。
違いを見極めようとして集中するほどに、暁の球が脳裏に焼き付いていく。
一見打てそうに見えるのに、掬い上げると指の間からこぼれる砂のように。
希望を見せるだけ見せて、落胆を残して去る。
それは2回戦で実況が口にした『蜃気楼』のようで。
試合は進む。ただ1本のラッキーヒットだけを置いて、暁は2イニングを終えた。
そのヒット以外は、3つの三振と3つの凡打という屍を築いて去っていった。
「くそ、運だけ投手め、勝ち逃げでエースにバトンタッチか?1年のくせに生意気な」
言葉の粗くなった自校の監督から体の距離を離しながら、鎌倉学園の選手たちはもやもやとした感覚を抱いていた。
(本当に運だけなのか?)
上手く言語化できない、だから誰も口にしない。だが違和感だけは選手たちの胸の奥に刻み込まれていた。
鎌倉学園の3番手投手は落ち着きながらも、自チームに暗雲が立ち込めている気がしていた。
先のイニングに最後の打者として出てきた根付、彼に本当は申告敬遠という投げることを放棄できるカードを切りたかった。
だが自分の監督は「あんな粘るだけの1年から逃げる気か!?」と完全に感情的になってしまい、許可が下りなかった。
結果、根付に対して14球を投げさせられ、しかしその回は3者凡退で締めることに成功した。
自校の監督はそれで一瞬満足げだったが……それがどうも、『星海学園の1年』というカテゴリーを過剰に敵視しているように見えてしまった。
3番手の彼が受けた印象は実際に正しく、危機にさらされた鎌倉学園の監督はそこから目を逸らすために無意識に分かりやすい敵を求めていた。
感情とは厄介で、それがさらなる判断ミスの温床になることも多い。
(大体今、40球くらいか?)
正確には38球。1イニング目と2イニング目で38球だ。
高校生投手は多くが、100球を超えると球威や球速が下がると言われている。
そのラインの、すでに5分の2近く。
また、3番手の彼は数日前にも90球近く投げている。その影響がどの程度残っているか。
彼を除けば、残る投手は控えの中でも実力が落ちる。
だから彼は長く投げなければならない。
(俺は130球くらいしか投げれないぞ。これで何イニング持つ?)
しかもその後ろの方は、おそらくかなり弱体化している。
現実的に考えれば、6持てばいい方、悪ければ5イニングの途中。
残りを託すしかないのか?
そんな後先のことをつい考えていたせいだろう。
甘く入ったストレートを、2m越えの巨漢が大きく掬い上げる。
「はっはー!」
快音を響かせ、スタンドに打球が吸い込まれていった。
不幸中の幸いは、事前にランナーがいなかったこと。
それでもこれで、4点差。
3番手の彼は、帽子のつばをいじった後、ミットの指を順番に触っていく。
(切り替えろ、点数はきっと味方が取り返してくれる。俺は目の前の打者に集中。
細かいことを考えすぎるな。とにかく抑える、そうじゃなきゃ勝てない。
次の試合になればエースが復活するんだ。この試合、勝つんだ)
自分なりのルーティンで心を落ち着けた彼は、その後を乱さず再び抑えていく。
滅私の思い、健気だといえる。
それが報われるかどうかは、野球においてあまり関係ないのだが。
そして星海側は、室井が登板する。
『黄金リレー』の本体、剛球をもって物理的に圧殺していく。
下位打線は自力で。
暁により速度感覚が鋭敏になった上位打線はこの継投の『魔法』で、容赦なく上から潰す。
呵責?あるわけがない。勝負とは勝つか負けるか。
室井は己が活躍できるかよりチームの勝利を優先するタイプだが、それは別に和を重んじた結果ではない。
論理的に勝利を求めれば、そうなるのだ。
室井には怜や紫苑のような攻撃性はあまり見られない。
だが、勝利を求めるという純粋さでいえば実は引けを取らなかった。
まともな感性と論理性、それを併せ持つのが室井という男だ。
ゆえに、普段は頼れるナイスガイであると擬態している。
いや、その側面も事実ではあるので擬態と呼ぶのはさすがに失礼か。
ともあれ、マウンドに上った室井は相手チームにとっての破壊者になる。
黙々と、確実に、力で押す。
それが彼の役割だ。
(今日の室井は、かなり調子がいい。
これなら『魔法』がとけても十分やれそうだ)
梅本はミットを重く揺らす室井の投球を受けながら、さらに室井を安心させるように笑みを浮かべる。
(行こうぜ室井。初めての甲子園へ、俺たちで今度こそ挑もう)
星海のエース室井宗一郎、プロ注目とされた彼の名が、再び夏の神奈川に轟きだした。
『剛腕室井』。球速なら彼以上はいるが、その重さはこの世代No.1級に匹敵と後に称される、押しも押されもせぬドラフト候補である。




