第十七話 『蜃気楼』
7月10日、星海にとって夏の初戦が始まろうとしていた。
『まもなく第2回戦14試合、柏陽高校VS星海学園の試合が始まろうとしています。
放送はテレビ神奈川から。実況は私、天笠が担当。解説は高木さんにしていただきます。
どうでしょうか高木さん、今年の星海学園は春の神奈川大会準優勝という快挙を成し遂げましたが』
『うーんどうでしょうね。今年の躍進は巡りあわせといった印象もありましたが。
しかしそれでも、実力なしに成し遂げられることではありません。初戦の入り方さえ間違えなければ、かなり堅いかと思われます。
一方で柏陽高校は、星海学園の先発、1年生投手の田代くんをどう攻略できるかにかかっているでしょう』
神奈川は、1回戦からテレビ中継がなされる数少ない地域だ。
まだ2回戦ゆえに球場の観客席は当然埋まっておらずまばら、この放送も多くの人は見ていないか流し見だろう。
だがそれでも、初戦から1年生に先発という大役を任せてもらえたのは感謝しかない。
もちろん、後ろには先輩方がいる。いざどうにかなっても、順当に尻を拭いてはくれるだろう。
でもそれは同時に、自分の活躍次第でどれだけ先輩方を温存できるかが決まるということでもある。
「田代、緊張してるか?」
話しかけてきたのは、今日バッテリーを組む怜。
監督は大胆にも、初戦にベンチ内の1年生を全放出する構えだった。
「当然してるさ。でも悪くない気分だ。お前は?」
「俺はそれなりだな。してないわけじゃないが、これくらいなら問題ない。どっかの誰かとは違ってな」
怜の視線の先では、応援用にメガホンが使えないということをいまさら知って、スコアブックの余りを振ってはいけないかと聞いている、緊張感のない本日の抑え投手の姿があった。
監督用のメガホンを自分も拝借して使ってもいいと信じていたらしい。そんなことはないのは、少し考えればわかるだろうに。
あと当然だが、スコアブックを振ろう作戦も却下されていた。
「なんだかあれを見ていると、緊張感が抜けていくな」
「本人は他人の緊張を解いてやろうなんて絶対に思ってないぞ。計算してやっていたなら感心するが」
馬鹿げた話をしていると、わずかに笑いが浮かんでくる。
緊張と入り混じった、ベストの精神状態に近づく。
「田代、前にも言ったが試合では全部を出せ。後先を考えたり、細かい制球まで気にしたりすることはない。
そういうのは全部俺がやる。お前は自分の全部をぶつけることに集中しろ。そうすれば、今日の相手なら圧倒できるさ」
「分かってるさ。しかし、お前が精神論を口にすると違和感が強いな」
「おっと、精神論だと思ってたのか?技術論さ。
制球が甘い投手が試合中に調整しようとすると逆に泥沼にはまるデータの方が多い。それなら制球力は練習で高めるにとどめて、本番では球威と球速で押すべきだとな」
「なるほど、そちらならお前らしいと感じるな」
会話しながら、最後のウォームアップをしていく。
「さて、時間だ、行くか」
「ああ。リードは任せる」
こつんとミット越しに手を合わせ、2人はマウンドへと歩いていく。
それからほんのしばしして、
『柏陽高校VS星海学園、ただ今プレイボール!』
試合が、始まる。
『唸る、唸る、またしても火の出るようなストレート!柏陽打線が完全に振り遅れています!3ストライク、2アウト!
速度が出ました!今までで最速、148km/h!一年生とはとても思えませんね、高木さん』
『全くです。これから体をしっかり作っていったら、1年後・2年後には一体どこまで球速が伸びるのか……将来が楽しみなピッチャーが出てきましたね』
田代はここまで圧倒、いや圧殺と言っていい成果を出していた。
3イニング目で6三振、被打数2。相手が弱小寄りの中堅とはいえ、完全に抑え込んでいる。
星海打線も1年投手の活躍に負けるまじとしているのか、すでに2回までの攻撃で4点が入っている。
かなりの楽勝ムード。
だがそんなところでも田代は慢心・油断などはしない。
(さあ田代、そろそろ相手はお前がストレート一辺倒だと思っている頃だ。そろそろ変化をつけるぞ)
そして怜は、溺れる者を容赦なく水面下に沈めようとするタイプだ。
弱っているならさらに叩け、立ち上がれなくなるまで叩け。それが彼流の哲学である。
3イニング目、最後の打者に向かって田代が構える。
大柄な体の上から、鉈を振り下すようにまっすぐに腕が振りかぶられて。
打者はまたストレートだと思い既に始動を開始、しかし球が来ない。
遅い、遅い、山なりに弧を描きながら、しゅるるる、とすでに通り過ぎたバットの下を白球が通っていく。
振らなければ、ボールだった。もっと待っていたら、打てたかもしれない。
だが現実は。
動揺が収まらないままバッターボックスで構えると、ほとんど間を置かず、ズドン、とミットに白球が収まっていた。
振ろう、と思う時間もなかった。こちらの動揺を読んだような、立ち直る隙を与えないタイミングでの投球。
一度バッターボックスから出て、軽く首を振ってから再び入り直す。
とにかく速い球と、かなり遅い球があるんだと。見慣れたストレートに合わせようとそう思って。
そして来た。速い球、でも今度は手が出る。
手が出るということに違和感を抱くことなく、バットを振って。
クンッ、とほんの小さく、バットに当たる直前で打者の体に向かって曲がった。
がき、と芯を外した打撃音。
ぽてぽてと転がるその球をピッチャー自ら拾い上げて、一塁に投げて。
アウト、チェンジ。
何もできずこの回を終わらせてしまったと、彼は思ってしまった。
『田代選手、返す刀で打撃も光るものがあります。ライトとセンターの間を抜く二塁打、これで本日2安打です』
『打てるピッチャーというのは貴重ですね。まだ打席数が少ないので分かりませんが、もし3割近く打てるのであれば打線の穴を埋めることができますから。
投打ともに将来に期待できる選手です。昔ながらのピッチャーを思わせてくれますね』
『柏陽高校は3回の途中までで5点を失いましたが、続投させるようです。高木さん、この判断はいかが思われますか?』
『今年の柏陽は典型的なエース頼みの高校です。エースを下げても、他の投手ではもっと打ち込まれると考えているのでしょう』
『エースと心中覚悟ということですか?』
『ええ。ですが胎が決まるとその分、打撃にも芯が入るかもしれません。見守っていきましょう』
しかし解説虚しく、上位に戻った星海打線はそこからさらに痛打、追加点で3点を奪い、0-8にまで点数を広げる。
そして4回の表、ついに暁がマウンドに上がる。
予定より早くなったが5回終了時に10点差がついていれば試合はコールドゲームで終了となる。
星海の監督は相手になにもさせずに叩き潰す選択を取った。
『この回、頭から星海は絶好調の田代選手を下げ、新たにもう1人の1年生投手、暁選手を出してきました。
これはどういった意図なのでしょうか、高木さん』
『トーナメントの序盤で1年生に経験を積ませ、大会の空気に慣れさせるつもりでしょうね。1年生を戦力として数えている学校によく見られる動きです』
それは正解。
付け加えるなら、星海側は4回と5回を暁が完全に抑え、その間に2点とるのは楽勝だと見ている、ということだ。
既にこの試合、格付けは済んだ。そう考えていた。
7月のじっとりとした暑い空気。
まだ夏本番でもないのに、体を包み込む粘度のある熱は、じりじりと体を焼く。
大会会場特有の熱気がそれをさらに高め、内側から炙るよう。
胸の少し上、前で白球を両手で包み込むように。いつものルーティンに入る。
冷たく、冷たく、戦意を氷のように尖らせて。
呼気が体の中を通って、徐々に冷やされて外に出るころには白い息になっているイメージ。
熱さは目と指先だけに集めて、じりじりとした熱は相手だけに注ぐ。
己は冷徹に、攻略することだけを考えればいい。
目を開ければ、そこに映るのは投げ込むべきミットと、打ち取るべき対象が残る世界。
『暁選手は春の神奈川大会で2登板、各2イニングずつでともに0失点に抑えた実績を持ちます。
春の強豪相手に通用したその投球を、本日も魅せることができるか、楽しみですね』
『確かに暁選手は春に1年生としては素晴らしい成績を残しましたが、その内実の投球内容は安定感に欠けるものでした。いつ打ち込まれてしまうのか、私は見ていてはらはらしたものです』
『おっと、それはどういうことでしょうか、高木さん?
先ほどまでマウンドにいた田代選手のように、制球面の甘さが残るということでしょうか?』
『いえいえ、制球自体は暁選手の方が安定していました。ですが、深刻さはこちらの方が上です。
暁選手は同じ球でも球速にばらつきがあるのです。これはフォームがまだ固まっていない証拠。いつ崩れてもおかしくない不安定な状態と言えます。
今までは上手くストライクゾーンにボールを集められていましたが、それもいつ乱れてもおかしくありません。
私には、同じ1年生として見れば田代選手の方が格上だと思えますね。
星海もそれを分かって、今大会では中継ぎで暁選手を起用しようとしているのかもしれません』
あまりにも的外れな解説だが、これは監督の情報戦略がうまくいっている証左。
そしてこの実況解説は、現場の人間には届いておらず、ただ世間に向かって流されている。
(最速コールドは嫌だ。どうにかこの新しい投手を打ち込まなきゃ。
田代ってやつより球は遅いって聞いてる。140を安定して出せないって。それなら、当てることぐらいは)
焦りと期待感をないまぜにしている柏陽の打者。
(分かってるな、暁?監督のオーダーは省エネピッチングだ。
追い込むまで決め球は禁止、打ちごろに見える球で相手の早打ちを誘う)
(念を押さなくても分かってるさ、怜。今は大人しく温存しておくよ。
守備の先輩方にも練習させてあげなきゃな。田代が飛ばさせもしなかったから退屈してるだろうし)
一方で、星海側のバッテリーはもはや消化試合のように認識している。
しかもそれは油断からではなく、冷静な分析からくるこれから先を見据えた戦略だ。
独特のフォームから放たれる、暁の投球が柏陽打線を翻弄し始める。
田代よりも遅い、バットがたまには当たる。それは事実だ。
しかし、
(なんで飛んでいかない!?微妙に外れるんだ!?)
ことごとくがボテボテのゴロや小フライへと変わっていく。
次々と打者が入れ替わり、焦りが混乱を生み、さらに早打ちが加速、凡打を量産していく。
イニングをまたぎ、さらに犠牲者を生み出していく。
『暁選手、登板してもう5人目を打ち取りました。ヒットはありません。三振はありませんが、ヒットもありません。
柏陽打線、打球が全て守備に阻まれます。打てそうなのに打てない、当たっているのに飛ばない。つかもうとすれば指先からすり抜けていく、まるで『蜃気楼』のような投球です!』
『うーん、運がいいですねえ、暁選手は。崩れそうなところを守備に助けられています。取りやすいところにばかり打球が転がっていく。暁選手の今日の運勢は大吉です。
しかし、これでは以降の試合では厳しいかもしれませんね。この安定感のなさでは……次までにどうにか立て直してほしいものです』
『星海打線はすでに4回裏で10点目を取っています。この打者を抑えれば、5回コールドの成立です。
おおっと!三振!暁選手、この試合初めての三振です!キレキレの落ちる球で、見事最後の打者を切り捨てました!』
『暁選手の本来の決め球ですね。春では多く使っていました。本日ここまで投じてこなかったのは、おそらくこの球の調子が良くなかったのでしょう。
日によってそういうこともあります。次回は調整して、春のような投球を見せてもらいたいですね』
『第2回戦14試合、柏陽高校VS星海学園、0-10で星海学園の勝利です!
星海学園は3回戦へと進みます。柏陽高校、お疲れさまでした、食らいつこうと頑張っていましたね。
実況は天笠、解説は高木でお送りしました。次の試合でまた会いましょう』
5回コールド、1年生たちの完璧な活躍で、星海は初戦を飾った。
しかし夏の勝負は始まったばかり、夏の過密日程ではすぐ数日後に次の試合が来る。
暁は自分の出番の試合に雨が降らないといいなあ、早く梅雨が終わらないかなあ、などと戦闘モードのスイッチが切れた状態で思いながら、マウンドを降りていくのだった。




