第十六話 『エース候補さん』
さあさあと、水滴が肩を叩く。
帽子のつばからぽたぽたと雫が垂れ、指先にまぶした白い粉は水を吸いきれず白球を濡らしていく。
大雨ではない、されど小雨でもない。
プレイが続行を命じられるぎりぎりの塩梅。
ゆっくりと目の前に白球を掲げ、両手で包むように。
とぷん、と水底に沈むように、意識が深く深く潜っていく。
不快な雨音が少しずつ遠ざかり、心が澄んでいく。
目の前に集中。それ以外の雑念をすべて心の奥底に沈めて、ただただ己を純化していく。
ゆっくりと目をあければ、バッターは恐ろしい相手ではなくただの攻略対象にしか見えなくなっていた。
ふっと、わずかに口の端が弧を描く。
体にわずかに残っていたこわばりが解ける。
さあ、いつも通りだ、問題ない。
変わらず、冷たく、相手を終わらせよう。
体を捻じり、左腕が体に巻き付く。
地を蹴り、旋回しながら加速。
腕が体の陰から弾くように解き放たれ、鞭のようにしなりながら相手へと向かう。
体重と回転力を乗せ、全てを指先へと伝える。
今。
雨を回転で弾く、ホップするストレート。
暁の持つ最速の球。
雨で柔らかくなった土にいつもより深くめり込んだ分、離れはわずかに遅く、コンマ秒の差異が生じるが打者を打ち取るには問題ない。
1年投手を甘く見て初球から振りに行ったバットは、弱く白球を真っ直ぐに緩く返すにとどまり、すっぽりと暁の右手に持つミットにおさまる。
先頭打者、1球にてピッチャーフライで打ち取り。
暁はすでに打ち取った打者に興味を払うこともなく、次の攻略対象と己が相方たるキャッチャーのサインしか見ていない。
梅本は、この回をヒットの一つも許さず、ゴロと小フライだけで切って捨てた暁の球を受けて思う。
(なるほど、確かに弱体化している。それぞれのフォームから出る球はいつもに比べてばらつきが見える。決め球に失投リスクが増えたことで投げさせにくくもなる。
だがそれでも、暁を甘く見た相手や短いイニングであれば、問題は顕在化しにくそうだ)
ベンチに居並ぶ他の投手陣を見ながら、梅本は今の暁と比較する。
(雨の暁は、室井以外の他の投手とほぼ横並び。大幅に弱体してなお、横並び。
使いたくはないが、使ってもどうにかなる、という感じか。これは監督も采配に悩むぞ)
全く使えない、明確に劣る、となればむしろ判断はしやすい。
だが使えてしまう。『黄金リレー』のパーツであるということを考えれば出したい場面もできるだろう。
他と横並びであれば、継投で後ろに残す効果の分だけ暁の方が優位なのだから。
しかしそれはベストではない状態で限られた手札を使ってしまうことにもなる。
(まあそれは、監督が考えることか。
俺が考えるのは、どうやって暁を活かしてやるかだ。決め球を要求しなかったことで拗ねてなきゃいいが)
梅本はベンチに帰りながら、どうやって機嫌を取ったものかと頭を悩ませるのであった。
本日練習試合で3イニングの出番を終わらせた後、室井にバトンタッチして暁はベンチで生姜入りのかぼちゃのポタージュを啜っていた。
「これおいし。はちみつ入ってるのかな?ちょっと甘めで」
「そそ。あの子の作だよん。クッキーとちょっと感じ似てるっしょ?」
響が、まだ拭きが甘いところを丁寧に水分を取ってあげながら、塩タブレットを渡す。
エネルギー補給、体温調節、ミネラルの摂取、全てが大事である。
暁はされるがままにしながらもなおもスープを啜り、怜へと話を向ける。
「室井先輩や田代はいいよなあ、雨でもあんま変わらなくて」
「剛腕タイプは雨耐性が強い傾向にあるからな。あの2人の弱体率は15%を切っているんじゃないか?
一方で井上先輩は……揺れ球がな」
空気抵抗によって不規則に揺れることが最大の強みであるその球種は、当然雨という空気よりも重い抵抗がかかれば微細な変化を封じられる。
結果、雨の中ではただの遅い棒球になってしまい、狙われるだけの無力な球に落ちる。
さらに、それ以外の球も遅いため、雨による影響は強めだ。
「暁と同等、下手をすればそれ以下の割合への弱体化。単独では使えないレベルまで落ちてるだろうな」
実際、今日は井上はベンチにすらおらず、別で練習中である。
いてもどうせ出ないのなら別行動をさせたほうが合理的、そういう監督判断だ。
「星海の投手陣は雨耐性が極端に分かれるよな。大きく弱体が2人、平均が1人、微弱体が2人。
これは後天的にどうこうできる部分は少ないし、根本は投球の性質次第だ」
「立ち回りは俺も教えてもらってるけど」
怜と暁が話し込んでいると、監督が横からひょいっと顔を突っ込んでくる。
「その立ち回りなんだがな暁、もうちょっとゴロ用球種の比率を増やしてくれないか?雨の時はもちろん、それ以外でも」
「雨以外は、体力温存目的ですよね?雨は――イレギュラーバウンドで、エラー増えちゃいません?」
「そりゃその可能性はあるが、あれは雨耐性が高めの球種だろう。下手に耐性値の低い球種を主力にして失投されるほうが失点につながる気がしてな。
それに、もう完成度は十分だと澪や波間には聞いているぞ」
ちょっと大きな塊のかぼちゃをあむ、と暁はかじって。
「……監督がそう言うなら」
「そうか。うん、幅が広がるのはいいことだ。梅本にはあとで俺から伝えておく」
「はあい」
監督が元の席へと戻り、離れるのを確認して、暁はぼそりと。
「三振を取るのが一番気持ちいいのに」
少し頬を膨らませて愚痴る暁に怜は少し苦笑して。
「ゴロで体力温存したほうが結果的に長く投げられて、三振も取れるだろ」
「そうなんだけどさ、理屈では分かるんだけどこう気分の問題ってやつ」
そんな風に言うものの、大きく反抗はしないあたりちゃんと有用性はわかっているのだろう。
それに、実際にマウンドに上がってしまえばそういうエゴすら無駄な感情として処理してしまう性質が暁にはあると、怜には分かっていた。
「心配しなくても、梅本先輩ならお前を気持ちよくリードしてくれるさ」
(自分なら、必要に応じて投げさせるけど)という内心を見せずに、怜は暁を宥める。
「そうだよな。雨でさえなきゃ、三振たくさんとっても怒られないだろうし」
にこにこと梅本への信頼を見せる暁に、(本当にこいつは梅本先輩に懐いているな)などと怜は考えた。
夏県大会が始まるまであと約2週間。
この練習試合が終われば少しずつ調整期間に入っていく。
本番の時はもうすぐに迫ってきていた。
6月下旬、ついに神奈川県大会の対戦組み合わせが発表された。
それに伴って、一軍全員と関連する専門分野の女子マネが招集、ミーティングが開催された。
進行は当然、監督である。意見があれば適時挙手の上、発表していいことになっている。
「まず、投手運用の話からだ。前提として、俺たちは春大会で第1シードを取ったことで、2回戦からの出番になる。
2・3回戦は弱小から中堅校との試合だ。ここは主力を田代に任せたい」
監督の言葉に、少々の緊張をにじませながらも田代は頷く。
「もし崩れたら、上級生に交代するから気楽にいけ。
そして2回戦の方だが、ここには暁に抑えで出てもらおうと思う」
「俺ですか?」
「ああ。お前の抑え適性は確認しているが、実戦のトーナメントで証明したことはないだろう。まずは夏の空気を吸いながら、本番でも問題ないか試してくれ」
「了解です」
暁は梅本の隣に座り直し、ちょっと鼻を膨らませてみせる。
「4回戦以降は強豪同士が当たるようになる。特に危険なのが準々決勝だ」
監督は一つの高校名にポインタを当てて、解説しだす。
「順当にいけば横浜高校が上がってくる。神奈川最強、投打のバランスよく隙のない超強豪、甲子園に行けば優勝候補の一つ。お前たちも知っているだろう?
ここには絶対に『黄金リレー』を当てたい。つまり、こうだ」
監督は、『4回戦、5回戦、準々決勝』の隣に『黄金リレー』と記す。
「本当は4回戦か5回戦で温存したかったが、無理だ。組み合わせ的に強豪が上がってくる可能性が高い」
さらに準決勝の枠に、『室井→井上』と書き込んでいく。
「準決勝は最大の賭けになるが、暁を温存する。
さすがに1年に4連戦は無茶だ、ここで休憩をはさんでもらって決勝で使いたい。
決勝は東海大相模が上がってくるだろう。神奈川の二強、横浜高校に対抗できる存在として有名なここに、暁なしは厳しい。室井もそれまでに消耗しているはずだからな。
準決勝の試合展開によっては、室井を早めに降ろして井上の後に田代で締めるパターンも考えているが、これには打線が活躍してもらわないと無理だ。クリーンナップ陣、頼む」
決勝に『黄金リレー』と書いた後、矢印を引っ張って監督は赤文字ででかでかと『優勝して甲子園!』と書き記す。
「今年、お前らなら狙える。全員で頑張ろう。
さて、とりあえずここまでで何かあるか?」
意見を募り出した監督にそれぞれが意見をぶつけていく。
それに時折監督は解凍し、女子マネに意見を求め、時折却下し、より優れたプランに修正していく。
暁はといえば、予想以上の大抜擢に顔はクールに装いつつ、足はパタパタと嬉しそうに交互に跳ねていた。
パスパスとグローブを拳で殴っており、とても気合が入っている。
そんな面白い姿を晒している暁に、梅本は朗らかに笑いながらクッキーを与える。
グローブをバスバスする手はやめず、先輩の手ずからむしゃむしゃとクッキーを食べつつ、暁は改めて思う。
(先輩のこと、プロにしてあげなきゃ)
その時にはきっと、たくさん褒められてたくさんおやつをくれるだろうと、とても楽しみにする暁であった。
「頼りにしてるぞ、うちのエース候補さん」
「任せてください」
どやあ、と満面の笑顔で暁は、梅本の期待に応えてみせると宣言したのだった。




