第十五話 『梅雨のもたらすもの』
6月4日、神奈川でこの年の梅雨入りが始まり、それに伴って雨天練習が本格的に行われるようになった。
星海においては、この時期より前はあまり雨天時に外で練習を行うことはない。
それは雨天時と晴天時では体の使い方が微妙に異なるため、散発的になると逆に練習でバランスを崩すという判断であった。
ゆえに、まとめて雨の降り続けるこの時期に、雨用の体の使い方を体系的に叩き込み、意図的にスイッチできるようにする目的がある。
だから、この時期になるまで発覚しなかったのである。
「まさか、暁くんがここまで雨が苦手とは」
澪はトラックマンで採取した投球データと、晴天時・雨天時の成績を並べてわずかに瞑目する。
いや、確かに暁が他選手よりも雨の影響を受けるであろうということ自体は予測できていた。
暁の変化球のほとんどは雨に対する耐性が低めの球種ばかりで、暁の投球の肝は『ほぼすべての球が同じように見える』ことにある。
変化球が雨で弱体し、ぬかるみによりフォームが乱れてしまえば暁のストレートへの擬態能力は下がってしまう。
「通常の投手が20%弱体すると規定すると、暁くんの弱体率は35%強。これは困ったわね」
県大会や甲子園の会場は、ドームではなく雨の影響をそのまま受ける。
この年の梅雨明けは7月の中旬あたりではないか、と気象庁は言っていた。
一方で神奈川夏の県大会は七夕から27日までというのが今年の日程。
つまりトーナメントの前半まではいつ雨が降っていてもおかしくない、ということだ。
4回戦まで、いや予定より梅雨が長引けば準々決勝まで雨という可能性も十分ある。
「かといって、いまさら暁くんを投球プランから外すことはありえないわよね」
弱体幅が大きいとは言っても、それは『プロ注目級』に値するであろう力が『甲子園で通用するクラス』に落ちる程度のものだ。
もちろん、雨で弱体した『甲子園級』と同程度になるという意味だが、自チームだけが雨の影響を受けるなんてことはないため万全の『甲子園級』の能力と比較する意味はない。
それはつまり、使えてはしまうということだ。
ただしどこかで使えば当然、他で使う余力が削られる。
だから雨で使うにはあまりに勿体ない。
だが強豪同士が対戦する4回戦以降に暁を温存して『黄金リレー』を腐らせるのは、勝率に直撃する。
「天に祈るしかないかもね。今年はテルテル坊主、たくさん作っておこうかしら」
いくらデータを正しく扱おうとも、お天道様はどうにもならない。
オカルトに頼るしかないことを虚しく思いながらも、澪はデータを整理して監督に報告をしにいく。
彼がどのように調整するかは分からないが、そのために必要なデータは女子マネージャーたちが集めなければならない。
女子マネージャーたちは雨の降りしきる今日も、精力的に働いていた。
「雨は、嫌いだ」
「うるさい、いいから投げろ。先ほどはぬかるみに足が取られて腕が1.5㎝も上にずれて上体も泳いでいたぞ。
マウンドのどの部分が一番土の状態がマシか把握して、修正する術を体で覚えるんだ」
天を見上げて文句を言っている暁に、冷徹なまでの正論をぶつけて練習させようとする晶。
「お前はフォームが2種あるんだ、その分この練習も2倍かかると思え。
安心しろ、見捨てはしない。ちゃんとできるようになるまで私が修正し続けてやる」
「やだなあ……」
この天候では大好きなクッキーも湿気ってしまうと、息抜きもできないことに難色を示す暁に、「晶の修正がやだ」というわがままだと勘違いした晶はさらなる正論をぶつけだす。
「いいか、フォームが乱れたときが一番怪我をしやすいんだ。今私がいる状態で練習することで試合という他人が修正できない状況下での危険が減る。
だから今やっていることはとても重要で、これがお前のためなんだ。
いいな、分かったらやれ」
暁はなぜ晶が急に加熱しだしたのか分からず、内心で「ひーん」などと泣き言をこぼしながらも仕方なく練習を再開しだす。
そこから少し離れた場所では、零と真央が二人がかりで選手たちに『雨天時での筋肉の硬直の危険と各部位のケアの仕方』を実地で講釈していた。
零はデータを交えて、真央は選手に合わせたケアが自分でできるようにと。
特に零は、親が水泳選手用のウェアラブル開発もしていたため、濡れた状態での人体データに詳しい。
座学レベルではあるが他競技の知識を活かせるとあって、内心張り切っていた。表向きは相変わらずミステリアスを演じているため、周囲には悟られていないが。
「よし、15分経った。一度屋根のある所に行って水分をふき取り、体を温めろ。
10分休憩後、また再開だ。今日は1時間半はやるぞ」
しっかりと身体のことも考えているあたり、言葉は強いが晶は優しい。
その優しさがちゃんと暁に伝わっているのかは、雨を嫌がっている表情の暁の様子からは分からない。
晶自身も傘を差さずに間近で一緒に濡れているところから、その不器用な優しさが伝わってもいいようなものだが、如何せん暁は人の気持ちには鈍感寄りである。
ぽたぽたと短めの髪から雫を垂らして晶も共に屋根の下に避難すると、傘をさして顔を出した響が二人にバスタオルをかぶせ、さらに湯気の立ち上るコップを差し出す。
「はいはい、練習はいいけど体も冷やさないように。怪我もだけど、風邪ひいちゃっても良くないんだから。
生姜スープ飲んで飲んで。しっかり体温めるまで、あーしが監視しちゃうからね」
にこやかに晶の髪をバスタオルで響は拭きながら、さりげなく暁から体を拭く晶の姿が見えない位置に体を割り込ませて視線をブロック。
女心と健康の両方を鮮やかに守るムーブを決める。
そんなことには何ら気づかず、暁は無造作に濡れた練習着をその場で脱いでおもむろにタオルで拭き始める。
あらわになった上半身には筋肉が過剰についているわけではないが、必要なところは締まっており、濡れて少しへたった髪から垂れる雫が、ツーと肩から長い手の先へと伝っていく。
周囲に女性の目があることを一切意識していない行動。
しかしそれを窘めるのも、なんだかこちらの方が変に意識しているみたいになるし、健康上は早い対処がいいので放置。
晶の肩を押して、室内へと移動させるのだった。
「あーしは他のみんなのタオルやスープの補充してくるから、無理せず練習してね。
暁っちだけじゃなく、晶ちゃんも自分に気を使うこと。バーイ。
まおちーも零ちゃんもまたねー」
ふりふりと軽く手を振って、濡れたタオルの山を抱えて響は再び傘をさして外に出ていく。
そんな中、
「『まおちー』とは?」
真央に対する、独特のあだ名という極めてどうでもいいポイントに注目する暁であった。
練習後、梅本と暁は連れ立って買い出しに出かけていた。
星海においては買い出し係をマネージャーだから、二軍だから、下級生だから、などという分類では行っていない。
さすがに公式試合前後には一軍は免除されるが、それはそこのスケジュールに入れられることがないというだけであり、それ以外の時期は普通に持ち回りである。
『練習すべき人間は全員であり、二軍にだけ押し付けたら彼らの成長を阻害する。一軍だって受け取るばかりでいいわけでもない、全員がチームに貢献すべきだ』というのが監督の弁である。
その徹底ぶりは、監督すら買い出し要員として動いていることが時たまある、ということから分かる。
監督が有言実行なため、チーム内でこのことに文句を言っている人間はいない。
本日は雑貨系の買い出しが中心となっていた。
スコアブックやボールペン、紙コップにウェットティッシュ、除菌スプレー。他にこまごましたものもあるが、多くは近隣の雑貨店で手に入る。
大半のものをかごに入れた状態で、暁はふと梅本が上の棚に置かれた商品をためつすがめつ見ているのに気づく。
「クマのぬいぐるみなんて見てどうしたんです?梅本先輩、妹さんでもいましたっけ?」
「ん?ああ、いはするが……これはプレゼントにどうかなと思ってな」
30cmほどの高さの可愛らしいぬいぐるみを暁は受け取って、角度を変えつつ覗き込んでいく。
「いいんじゃないですか。なんとなく、梅本先輩に似てますよ、顔が」
「そうかあ?まあ、それなら買っておくか」
「それはそうと、可愛い物好きな妹さんですね。うちの女子マネにはきっとそんな趣味の人いませんよ」
「いや、そんなことはないんじゃないか。趣味は自由だし」
なんとなしに、視線を逸らしている梅本の様子に気付くことなく、暁はかごをレジへと運んでいく。
「海原の方はもう買い出し終わったそうです。こっちも終わらせて、合流しましょう」
役割分担で、玲奈の方はスポーツ用品店へ行っていた。
搬入するタイプのものばかりであったので、手荷物が増えないことからそちらに女性を派遣したのだ。
そして、暁の本日の最大の目的はこの後である。
いや、野球部としては買い出しこそが目的であるのだが、暁個人としてはもっと大事なものがあった。
最近この近くにできたという、スコーンがおいしいと噂の紅茶専門店。そこで味わうことこそが暁が今日楽しみにしていたことであった。
雨という不快な環境にも負けず、クッキーなしに練習を頑張ったのも全てはこのため。
暁の表情は、練習中よりもキリリとしていた。
英国風の内装の中、暁は横に梅本を置き、正面に玲奈を据えて真剣にメニューを見ていた。
「チョコチップ、抹茶、プレーン……追加料金でクロテッドクリームにアプリコットジャム、ラズベリージャムに生クリームか」
どれを選ぶべきだろうか。全てなどと言うことはアスリートである以上できない。たった一つから選ぶしかない、なんという難問なのだろうか。
「ぐぐぐ、チョコチップにクロテッドだ。今日はこれにする!」
なんだかすでに次回訪問が決まっているらしかったが、そこには誰もツッコミを入れることはない。
「暁くん、あなた紅茶はどうするの?さっきからスイーツのページしか見てなかったけど」
「紅茶はよく知らないんだよな。どれがいいんだ?」
「まずは好みを教えてちょうだい。ストレート、ミルクティー、どっちが好きなの?」
「その二つならミルクかな。あっさりは飲んだ気がしない」
たぶんあんまりいい紅茶を飲んだことがないのだろうな、などと暁に対して思いつつ、玲奈は梅本にも話を向ける。
「先輩はどうされますか?」
「俺はシンプルにプレーンのスコーンと、アッサムにしよう」
「王道ですね。
注文お願いします。
チョコチップスコーンにクロテッドクリームを一つ、イングリッシュ・ブレイクファストをミルクで一つ。
プレーンスコーンにアプリコットジャムを一つ、ダージリンの2ndを一つ。
プレーンスコーンを一つ、アッサムを一つ。
以上で」
玲奈はすっと手を挙げ、スマートに注文を済ませる。
「暁くん、届いたら半分ずつシェアしない?」
「いいのか!?お前いいやつだな」
「もちろん。私も他の味が気になってたの。でも2ついっぺんには食べられないから。
シェアを気にしない人で助かったわ」
男、特に運動をやっている人間は気にしない傾向があるが、それは絶対ではない。
「しまったな。お前たちがそのつもりだったなら、抹茶にしておけば全種類味わえただろうに。気が利かなくてすまなかったな」
「いえ、先輩にそこまで気を使われても恐縮してしまいます。好きなものを食べるのが一番です。
それに、次回の楽しみを残すのもいいことですから」
心なしか、いつもよりツンが控えめな玲奈。楽しそうに厨房の方へ目を送っている。
「海原は、こういう店好きだったのか?」
「ええ、紅茶はそれなりに嗜んでいまして」
だいたいこういう場面で『それなり』と言うやつは詳しいのが習いである。
「なあ玲奈、当たりだったらまた一緒に来ないか?」
そして暁は、甘味を分けてもらえるというただそれだけで、一気に名前呼びをしだすほどに心を許した。
あまりにも早い。
「そうね。ただ、私が甘い物好きなのは内緒にしてくれるなら。
梅本先輩も、よろしくお願いします」
イメージがあるからと呟く玲奈に、甘い物好きの何が悪いのか分からず首を傾げるも了承する暁。
当然、梅本は何も言わずに鷹揚に頷いた。
窓を叩く雨音の調べが、柔らかな時間を色づかせていた。




