第9話 追放聖女は、墓場で歌う
「……ひどい臭いだな。鼻が曲がりそうだ」
ザフィラが顔をしかめ、外套の襟で口元を覆いながら呟いた。
王都へ向かう道中、一行が足を踏み入れたのは、近隣の街から見捨てられた荒野――通称『魔物の墓場』と呼ばれる場所だった。
討伐された魔物の死骸が不法に投棄され続け、浄化されないまま放置された結果、澱んだ世界魔力が有毒な瘴気となって深い霧のように立ち込めている。視界は数十メートル先も見えず、足元の土は赤黒く変色していた。
「マスター、気をつけてください。未浄化の魔力反応が多数、周囲を旋回しています。極めて危険な空域です」
怜司の斜め前を歩くセナが、いつでも大盾を展開できるよう腕の装甲を微かに軋ませて警告した。
『ふん。ただの残滓の吹き溜まりであろうに。教会の連中は、こんな魔力資源の再利用すらできんほど堕落しておるのか』
怜司の右肩の上にちょこんと座った幼女姿のエルネリアが、偉そうに腕を組んで毒づく。物に触れられるようになった彼女は、歩くのが面倒だという理由で当然のように怜司を乗り物扱いしていた。
「文句を言うなら降りて歩け。重くはないが、肩がこる」
『魔王を乗せて歩ける栄誉に感謝するのじゃな!』
ペチペチと怜司の頭を叩くエルネリアを適当にあしらいながら、怜司は周囲の霧に目を凝らした。
村を出発する前、エルネリアが言っていた『第一曲の対象を変えられる歌』を持つ追放聖女。そのノエラ・アストレアという少女が、こんな人の寄り付かない墓場にいるという噂を聞いてやってきたのだが。
「――囲まれてるぞ」
怜司が足を止めた瞬間、周囲の濃い霧の中から、ズルリ、と蠢く影が無数に現れた。
骨だけの獣、腐肉をぶら下げた巨鳥、半透明の靄のような姿をした人間型の魔物。それらは実体を持たない『死霊』だった。瘴気によって魔物の残留思念が実体化したものだ。
「チッ、面倒な。私とセナで露払いをする、お前は後ろで手印の準備を……!」
ザフィラが戦弦槍を構え、セナが怜司の前に大盾を突き出した。
死霊たちが、生者の体温を求めて一斉に襲いかかろうと身を屈めた。
その時である。
荒野の奥から、静かな『歌』が響き渡った。
――♪……。
それは、教会の壮麗な聖歌隊が歌い上げるような、華やかで声量の大きなものではなかった。
ただの鼻歌に毛が生えた程度の、小さな声。
だが、その声は空気を震わせるのではなく、足元の冷たい土の底、極めて低い場所へと深く浸透していくような、特異な重さと響きを持っていた。
(……なんだ、この拍。いや、拍じゃない。意味が……書き換わってる?)
怜司は息を呑んだ。
音ゲーマーとしての彼の目は、空間を満たす世界魔力の流れを『譜面』として視覚的に捉えることができる。
死霊たちが怜司たちに向かって放っていた「殺意」という名のベクトル。それが、少女の低い歌声が波紋のように広がるにつれて、次々と別の方向へ逸らされていくのだ。
死霊たちが向けていた攻撃の先が、強制的に変わっていく。
敵意を削ぐのではない。彼らが抱えていた『生者を憎む』という魔力の意味そのものを、『土へ還る』という安らかな意味へ書き換えている。
怜司たちに飛びかかろうとしていた死霊たちは、歌声に包まれた瞬間、まるで糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ち、ただの光の粒子となって霧散していった。
わずか数十秒。
数十体いた死霊の群れは、一つの魔法も槍のひと突きも使うことなく、ただの歌一つで完全に浄化されてしまった。
「……信じられん。あれだけの死霊を、歌だけで?」
ザフィラが呆然と槍を下ろす。
霧が晴れた先、無数の古い墓標が乱立する丘の上に、一人の少女が腰掛けていた。
教会の白衣ではなく、夜の闇のような藍黒のダボついた服。色素の薄い水色の髪は無造作に切り揃えられており、その瞳は、立ったまま眠ってしまいそうなほどにトロンと力なく垂れ下がっている。
「……あ」
少女――ノエラ・アストレアは、怜司たちの姿に気づくと、ぼそりと小声で呟いた。
「生きてる人。ここは空気が悪いから、早く帰った方がいいですよ」
驚くでもなく、警戒するでもなく。ただ、路傍の石にでも話しかけるような、ひどく淡々とした声だった。
『くはははは! 素晴らしい! 素晴らしいぞ!』
怜司の肩の上で、エルネリアが歓喜の声を上げて立ち上がった。
『間違いない、あれぞ旧き共鳴歌! 対象を指定し、魔力の意味を変異させる力! あの娘の歌をわらわの譜面に組み込めば、第一曲の対象など容易く書き換えられるぞ!』
エルネリアの興奮した言葉を聞き、怜司はノエラの元へと歩み寄った。セナとザフィラもその後ろに続く。
「君が、ノエラ・アストレアだな」
怜司が声をかけると、ノエラはゆっくりと瞬きをして、気怠そうに怜司を見上げた。
「……はい。教会から追い出された、ただの不良品ですけど」
「不良品かどうかはどうでもいい。君のその歌が、どうしても必要なんだ」
怜司は事情を簡潔に説明した。
王都全域の人間を対象とした古代魔法が起動してしまったこと。それを止めるために、対象を指定し直す『歌』を持つ彼女の力が必要であること。
一緒に王都へ向かい、俺たちの合奏に加わってくれないか、と。
それを聞いたノエラは、少しだけ目を伏せ、それから静かに首を横に振った。
「……お断りします」
「王都の人間がどうなってもいいってことか?」
「違います」
ノエラは自嘲するように、薄く笑った。
「王都を救いたいなら、私を連れ歩く必要なんてないって言ってるんです。……私はただの、歌唱装置ですから」
「歌唱装置?」
「はい。私は、教会が決めた規則通りの歌を歌えなかった、壊れた道具です。だから、誰かの隣で一緒に旅をするような資格も、居場所もありません」
ノエラの声には、悲しみすら含まれていなかった。極端なまでに低い自己評価が、彼女の中で完全に固定化されてしまっている。
「機能が必要なら、魔法を止める時と場所だけ指定してください。時間になったら、勝手にそこへ行って歌います。……私なんかが、楽しそうに生きている人たちのそばにいたら、目障りでしょうから」
彼女は自分自身を、純粋に「都合よく呼び出せるツール」として提供すると言っているのだ。
ザフィラが何かを言い返そうと息を吸い込んだ。
だが、怜司は首を傾げていた。
(……おかしいな)
怜司はノエラの目をじっと観察した。
彼女の歌は、先ほど死霊たちをただ消滅させるのではなく、『安らかに土へ還す』という優しい意味へと書き換えていた。それほどまでに他者の苦しみに敏感で、精緻な音を紡げる人間が、自分自身の価値をゼロだと思い込んでいる。
そのひどく歪んだ自己認識に、怜司は強烈な違和感を覚えていた。
「……ノエラ。俺は別に」
怜司が何かを言おうとした、その瞬間。
ザッ、ザッ、ザッ。
霧の奥から、規則的で重い金属音が複数、こちらへ向かって急速に接近してきた。
「マスター、後方より武装した人間が多数接近。包囲陣形を取っています」
セナが大盾を構え直し、無機質な声で警告する。
同時に、霧を切り裂いて現れたのは、白い法衣の上に銀の胸当てを身につけた十数人の男たちだった。教会の紋章を掲げた、完全武装の異端追跡部隊。
「見つけたぞ! 神の奇跡を盗んだ異端の魔女め!」
部隊のリーダー格の男が、剣を抜いてノエラに切っ先を向けた。
「教会法に基づき、貴様を連行する! そこにいる者たち、その魔女から離れろ! 庇う者は同罪とみなす!」
有無を言わさぬ怒号。
ノエラは諦めたようにため息をつき、立ち上がろうとした。
だが、彼女が動くより早く、ザフィラが戦弦槍の石突をドンッ! と地面に打ち付け、怜司は両手を虚空に構え、その指先をゆっくりと曲げ始めていた。




