第10話 聖女の歌で、炎が人を選んだ
「異端の魔女を捕縛せよ! 抵抗するなら構わん、周囲の者ごと焼き払え!」
霧深い魔物の墓場に、教会騎士の怒号が響き渡った。
白い法衣に銀の鎧をまとった十数人の追跡部隊。彼らは剣を抜くだけでなく、空いた手から次々と現代魔法を行使してきた。
詠唱のいらない即応魔法。バチバチと音を立てる雷球や、鋭い光の矢が、霧を切り裂いてノエラと怜司たちへと降り注ぐ。
だが、そのすべては標的に届く前に弾け散った。
ガガァァンッ! バチィィッ!
いつの間にか怜司の斜め前に陣取っていたセナが、身の丈ほどの大盾を展開し、あらゆる魔法攻撃を正面から受け止めていたのだ。
「マスター、防衛線を維持。敵の魔力出力、脅威段階C。このまま削り切ります」
感情のない声とともに、セナは微動だにせず盾を構え続ける。
光の矢が盾を穿ち、雷球が装甲を焦がす。そのたびに鳴る甲高い激突音と、重い衝撃音。それらは決して不規則な騒音ではなく、一定のピッチを持った完璧な『基準拍』として空間に響き渡った。
「ハッ、相変わらずいい音を鳴らすじゃないか!」
その強固なビートに呼応するように、ザフィラが戦弦槍を手に横へ飛び出した。
彼女が踏み込むたびに石突が土を打ち、柄に張られた弦を弾く鋭い音が鳴る。セナの被弾音をベースラインとし、ザフィラの槍が奏でる旋律が重なり合う。
二人の前衛によって、戦闘という名の過酷な『曲』の土台が完成した。
(完璧だ。これなら――)
怜司は両手を構え、その曲のテンポに寸分違わず手印を乗せていく。
指先が虚空で残像を描き、青白い世界魔力が急速に熱を帯びていく。
広範囲を制圧するための炎の手印。数十人の武装集団を一度に無力化するには、これしかない。
だが。
入力が後半に差し掛かったところで、怜司は舌打ちをした。
(まずい。これ、対象の絞り込みができない譜面だ)
大気中の魔力を一点に集め、扇状に放射する熱波の魔法。威力も範囲も申し分ないが、古代の手印魔法は自然現象に近い。一度放たれた炎は、そこにいるのが敵の騎士であろうと、ただの石であろうと、等しく焼き尽くしてしまう。
そして今、怜司の射線上のすぐ近くには、逃げようともせず古い墓標の横に立ち尽くしているノエラがいる。
このまま手印を解放すれば、教会騎士たちだけでなく、彼女も炎に巻き込んでしまう。
しかし、入力をキャンセルすることはできない。ここまで練り上げた魔力を途中で手放せば、強烈な逆流が怜司の両腕を内部から破壊する。
止まれない。
炎が、怜司の両手の間に圧縮され、今にも弾け飛ぼうとしたその瞬間。
――♪……。
静かな、だがひどく重い『歌』が、霧の底から響き渡った。
ノエラだった。
彼女は気怠げな目を伏せたままで、ただ唇を微かに震わせていた。教会の聖歌とは違う、古い民謡のような素朴な旋律。
決して大きな声ではない。だが、その声は空気を震わすのではなく、足元の土の底、さらに深い世界魔力の脈動に直接干渉するような、異様な浸透力を持っていた。
『いけ、奏者よ!』
怜司の肩の上で、エルネリアが楽しげに叫んだ。
迷いはなかった。怜司はセナとザフィラの曲の最後の一拍に合わせて、両手を力強く前に突き出した。
解放された手印から、圧倒的な熱量の炎が津波のように溢れ出す。
教会の騎士たちが絶望の悲鳴を上げ、防御態勢をとった。炎の波が彼らを、そして射線上にいたノエラを呑み込む。
だが、次の瞬間。
荒れ狂う炎は、まるで明確な意志を持った生き物のように『人間』だけを避けて通り抜けた。
「な、なんだこれは!?」
「熱くない!? いや、剣が!」
炎に包まれた騎士たちが混乱の声を上げる。
怜司の放った炎は、彼らの皮膚や髪の毛、そして布の服を一切焦がすことなく、彼らが手にしていた鋼の剣、鎧の金属の継ぎ目、そしてノエラを捕縛するために持っていた鎖の拘束具だけを正確にドロドロに溶かし落としていた。
ノエラ自身も、炎の波の中で無傷のまま立ち尽くしている。
対象と意味の書き換え。
ノエラの歌が、怜司の魔法に『人間を傷つけない』という絶対のルールを付与したのだ。
数秒後、炎が霧散した跡には、武器も防具も失い、ただの白い法衣姿となった無力な騎士たちだけが残されていた。
誰も死んでいない。だが、戦闘能力は完全に奪い去られた。
セナが刻む強固な基準拍、ザフィラが作る曲の速度、怜司の手印による魔法の構築、そしてノエラの歌による対象の選別。
四人の役割が初めて完全に噛み合った、完璧な合奏の成果だった。
「ひ、ひぃぃぃッ!」
「ば、化け物め! 悪魔の業だ!」
無傷のまま丸腰にされた騎士たちは、自分たちの常識が通じない現象に恐怖し、腰を抜かしながら霧の奥へと逃げ去っていった。
*
戦闘が終わり、静寂が戻った墓場。
ザフィラが呆れたように逃げていく騎士たちの背中を見送り、セナが大盾を収納する。
怜司はゆっくりと息を吐き出し、古い墓標のそばに立つノエラへ向き直った。
「……助かった。君が歌ってくれなかったら、手印を暴発させるしかなかった」
怜司が礼を言うと、ノエラはいつものように眠そうな、感情の薄い目を怜司に向けた。
「どういたしまして」
彼女は淡々と、そしてひどく自虐的な口調で言った。
「これで、私の『機能』は確認できましたか。対象を選別する歌。これがあれば、王都の魔法も書き換えられるはずです。……私の使い道はわかったでしょうから、あとは必要な時だけ、そうやって指示を出してください」
彼女はやはり、自分のことを便利な道具や装置としてしか認識していない。教会の追跡者が来たというのに、逃げもせず、ただ言われた通りに歌うだけの存在。
だが、怜司はノエラのその言葉に対し、明確に首を横に振った。
「機能のテストなんかじゃない」
「え……?」
「俺が言いたいのは、君の歌の『質』の話だ」
怜司はノエラのすぐ目の前まで歩み寄り、彼女の顔を真っ直ぐに見据えた。
「君の歌は、教会の連中が歌うような、綺麗に飾り立てられただけの声じゃない。……ひどく低い場所まで届く、重くて芯のある声だ」
「低い、場所……?」
「ああ。足元から響いて、周りがどれだけ騒がしくても消えない。君の声が下から支えてくれたおかげで、炎の向かう先が少しもブレなかった。最高に合わせやすい歌だったよ」
それは、聖女としての奇跡を褒める言葉でも、助けてもらったことへの義理の感謝でもなかった。
ノエラ・アストレアという人間が、ずっとたった一人で磨き、紡いできた『声そのもの』に対する、音楽的な感性に基づいた純粋な称賛。
機能や役割としてではなく、彼女自身の持つ技術と本質を、怜司は的確に言語化して認めたのだ。
「…………」
ノエラは言葉を失っていた。
今まで彼女の歌は、「病気を治す奇跡」か「教会の規則を破る魔女の呪い」としてしか評価されてこなかった。彼女の『声』そのものを、そんな風に具体的に、しかも嬉しそうに褒めてくれた人間は、生まれて初めてだった。
トロンとしていた彼女の瞳が、驚きに見開かれる。
ダボついた服の袖口をぎゅっと握りしめ、ノエラは俯きがちに、震える声で小さく呟いた。
「……私の声、暗くて、嫌な音じゃないんですか……?」
「全然。むしろ、あんな状況でよくあそこまで冷静に音程を保てたな。すごい技術だ」
怜司が何気なく、しかし本心からそう断言すると、ノエラの頬が微かに朱に染まった。
彼女はずっと自分が壊れた道具だと思っていた。だが今、この異邦人の前でだけは、ただ歌うことが好きな一人の少女として扱われている。
その事実が、凍りついていた彼女の心を、ほんの少しだけ溶かしていた。




