第11話 端で歌うな
教会の追跡者を無力化し、魔物の墓場を抜けた一行は、王都へと続く街道沿いの避難民キャンプに立ち寄っていた。
ここは、魔力嵐の被害や魔物の襲撃によって家を失った周辺の村人が身を寄せる野営地だ。張り詰めたテントの数は数十にのぼるが、行き交う人々の顔は一様に暗く、あちこちからすすり泣きや重い咳の音が聞こえてくる。
「……マスター。空気中の未浄化魔力濃度が基準値を上回っています」
怜司の隣を歩くセナが、無表情のまま報告した。
「ああ。ひどい淀みだ」
怜司も眉をひそめる。大気中の世界魔力が正常に循環せず、瘴気のように澱み始めているのだ。王都で起動を待つ第一封印曲《還天掌》が、周囲の魔力の流れを歪めている影響かもしれない。
キャンプの片隅で、ひときわ大きな人だかりができているテントがあった。
「しっかりしろ! 目を開けてくれ!」
母親らしき女性が、粗末な毛布の上に寝かされた幼い少年を抱きしめて泣き叫んでいた。少年の顔は土気色に濁り、異常な高熱にうなされて苦しげな呼吸を繰り返している。
「魔力障害か」
ザフィラが忌々しそうに呟いた。
澱んだ世界魔力を過剰に吸い込んだことで、体内の魔力回路が暴走を起こしている状態だ。現代魔法の治癒術師が数人がかりで回復魔法をかけていたが、少年は痙攣を起こすばかりで一向に症状が好転しない。
「駄目だ、体内魔力を直接注ぎ込んでも、毒(瘴気)に汚染された回路が拒絶反応を起こしてる! これ以上はやれない、命に関わるぞ!」
治癒術師が諦めたように首を振る。現代魔法は自身の魔力を与える『足し算』の治療は得意だが、体内に溜まった異物を抜き取る『引き算』の処理が極端に苦手なのだ。
母親が絶望の悲鳴を上げ、テントの中は重苦しい空気に包まれた。
そんな中、少し離れたテントの裏手、薄暗い物陰の『端っこ』で、一人の少女が唇を震わせていた。
ダボついた藍黒の服を着た、ノエラ・アストレアだ。
彼女は苦しむ少年のうわ言を聞きつけ、自分の歌でその魔力障害を浄化しようとしていた。
だが、彼女は決して少年のそばに寄ろうとはしなかった。
(……私みたいな異端者が近づいたら、みんなを怖がらせてしまう)
ノエラはテントの布越しに少年の姿を見つめながら、ひっそりと、誰にも聞かれないような小声で歌い始めた。
――♪……。
少年の体内の毒を浄化し、正常な状態へと意味を書き換えるための歌。
だが。
数分経っても、少年の症状はまったく治まらなかった。
ノエラの声は届いていなかった。物理的な距離が遠すぎる上に、周囲の大人たちの怒号や泣き声が壁になっている。何より、ノエラ自身の「自分なんかが目立ってはいけない」という遠慮と迷いが、歌に込められるはずの『対象指定』の強度を著しく下げてしまっていたのだ。
(駄目、ですね……)
ノエラは自嘲するように目を伏せ、歌うのをやめた。
所詮、自分は教会から不要だと捨てられた壊れた道具だ。端っこからこっそりと奇跡を起こすことすら、今の自分にはできない。
「やっぱり、私じゃ……」
「何やってるんだ、お前は」
ノエラが完全に諦めかけたその時。
頭上から降ってきた呆れたような声に、ノエラはビクッと肩を震わせた。
見上げると、そこには大きなため息をついている怜司が立っていた。
「え、あ……久瀬、さん。私は、その……」
「そんな端で小さく歌って、あの子まで声が届くわけないだろ」
怜司は有無を言わさず、しゃがみ込んでいたノエラの腕をガシッと掴んだ。
「えっ!? ちょっ、待って……!」
「待たない。来い」
ノエラの抵抗など意に介さず、怜司は彼女を強引に引っ張り上げた。そしてそのまま、人だかりができているテントの中央――苦しむ少年が寝かされているすぐそばまで、彼女を引きずっていく。
突然、異端の証である藍黒の服を着た少女が中央に引きずり出されたことで、避難民たちがざわめき始めた。
「な、なんだお前たちは!?」
「その服、まさか教会の……」
「うるさい、黙ってろ。治してほしければ口を閉じろ」
怜司は治癒術師や大人たちを冷たい一瞥で黙らせると、少年を見下ろす位置にノエラを立たせた。
「く、久瀬さん、駄目です! 私みたいなのがこんな真ん中にいたら、皆の迷惑に……」
「いいから歌え」
怜司はオロオロとするノエラの肩を両手で掴み、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「お前の声は、重くて低いんだ。あんな端で遠慮して歌ったら、地面の反響や周りの雑音に食われる。……その子の顔が見える、一番声の届く場所で堂々と歌わないと意味がない」
それは、怯える少女に対する優しい慰めの言葉ではなかった。
純粋に、これから行う魔法で最も声が届く位置を求めただけの、ひどく合理的な要求。
だが、ノエラにとってはその言葉が、何よりも強く胸を打った。
(……私が、ここで歌っていいの?)
ずっと自分を不要な異端者として端に追いやっていたのは、教会だけではなく、自分自身でもあった。
だが目の前の青年は、機能を発揮するために「お前が真ん中に立て」と当たり前のように位置を指定してくる。
ノエラは小さく息を吸い込み、少年の顔を見下ろした。
もう、迷いはなかった。
――♪…………!!
テントの中央で、ノエラが歌い始めた。
先ほどの遠慮がちな小声とは違う。周囲の喧騒を完全に支配し、空間の底から染み渡るような、重く深く、そして確かな慈愛に満ちた圧倒的な声の存在感。
「ッ、合わせるぞ!」
ノエラの歌が『少年の体内の毒』だけへ狙いを定めた瞬間、ザフィラが横に進み出て、槍の石突でトン、トン、と静かな三拍子を刻み始めた。
治癒のプロセスを安定させるための、正確な速度の固定。
セナが背後で周囲の人間が近づかないように無言の盾となり、怜司がその完璧な土台の上で両手を構えた。
右手で少年の体内の瘴気を『抽出』し、左手でそれを無害な世界魔力へと『還元』する基礎手印。
現代魔法では不可能な、対象の状態を直接書き換える古代の治癒魔法。
ザフィラが刻む拍の間に、怜司の指先が滑らかに滑り込む。ノエラの歌が、その魔法の意味を一切のブレなく少年の身体へと届け続ける。
三人の技能が、一つの完璧な合奏として結実した。
「あ……ああ……!」
母親が息を呑んだ。
少年の口から、黒い靄のような瘴気がふっと吐き出され、空中に溶けて消えた。土気色だった顔色にみるみる血の気が戻り、苦しげだった呼吸が、穏やかな寝息へと変わっていく。
痙攣は完全に治まり、少年の体温は正常な状態へと戻っていた。
テントの中は、水を打ったような静寂に包まれた。
治癒術師も、周囲の大人たちも、誰も言葉を発することができない。彼らが忌み嫌い、遠ざけていた異端の少女の歌が、本物の奇跡を起こしたのだから。
*
「……ありがとうございます、本当に……!」
泣き崩れながら何度も頭を下げる母親から逃げるように、ノエラはテントを出た。
怜司たちも無言でその後を追い、キャンプの外れまで歩いたところで足を止める。
ノエラはしばらく俯いたまま自分の靴の先を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を上げ、怜司を見た。
魔物の墓場で出会った時、彼女は「機能が必要なら、時間と場所だけ指定して呼び出してくれ」と言っていた。自分から誰かのそばにいる資格はないと。
だが。
「……久瀬さん」
ノエラは、ダボついた服の袖口をぎゅっと握りしめ、かつてないほどはっきりとした声で言った。
「王都まで、私も一緒に行きます」
それは彼女が、教会に追放されてから初めて、自分自身の意志で選んだ行動だった。
怜司はそれを聞いて、特に驚くこともなく軽く肩をすくめた。
「そりゃ助かる。専属のボーカルには、近くにいてくれないと合わせにくいからな。これからよろしく頼む」
怜司の答えは、相変わらずパーティの『機能』としての彼女を歓迎するものだった。恋愛的で甘い言葉など一つもない。
だが、ノエラはそれで十分だった。
暗い端っこにいた自分を強引に真ん中に引きずり出し、「お前の声が必要だ」と証明してくれた。
彼が求めるのがただの機能であったとしても、ノエラにとっては、その事実が凍りついていた心をひどく心地よく揺らしていた。




