第4話 魔王は十歳くらいで目覚めた
王都への帰還を急ぐ調査隊は、夜の森にひっそりと野営を敷いていた。
焚き火の光が届かない、少し離れた開けた場所。夜風が木々を揺らす音だけが響く中、ザフィラは巨大な戦弦槍を構え、怜司と相対していた。
「手加減はしない。私が主旋律だと、お前の身体に直接叩き込んでやる」
ザフィラの黄金色の瞳が、闘争心でギラリと光る。
直後、彼女の足が地面を強く蹴った。
トン、タ・タ・トン!
石突が土を打つ音を皮切りに、ザフィラは槍を高速で回転させながら、柄に張られた弦を次々と弾き始めた。
昼間の魔獣戦の時とは比べ物にならない、極めて複雑な演奏だった。彼女は怜司の入力を振り切るため、意図的にテンポ(BPM)を揺らし、三拍子と五拍子を入り交じらせた変拍子を次々と繰り出してきた。
刃が空を切る風切り音、弦の鋭い高音、そして規則的かつ予測不能に変化するステップ。
それらが渾然一体となり、圧倒的な圧力を持った『曲』として怜司に迫る。
並の人間なら、幻惑されて拍を見失うだろう。
だが、怜司は一歩も引かなかった。むしろ、その難解な譜面を前にして、自然と口角が上がっていた。
(……いいぞ。さっきよりずっと速くて、重い)
怜司の視線は、ザフィラの槍の軌道だけでなく、彼女の肩の筋肉の動き、胸の上下による呼吸の深さにまで向けられていた。人間が音を鳴らす以上、そこには必ず予備動作という『予告』がある。
ザフィラが弦を弾くコンマ数秒前、怜司の手印が虚空に置かれる。
パチッ、パチィッ!
怜司の指先が指定した空間に世界魔力が集い、ザフィラの演奏と完璧に同期して青白い火花を散らした。
特定の事象を起こす魔法ではない。ただ、ザフィラの演奏のすべての拍に対して、怜司が『パーフェクト判定』で魔力の相槌を打っている状態だ。
「くっ……!」
ザフィラが焦りの声を漏らす。どれだけ速度を上げても、どれだけリズムを崩しても、怜司の魔力は彼女の槍の軌道にピタリと張り付いて離れない。
勝負は最終盤。ザフィラの部族に伝わる継承曲の、最も激しいクライマックスへ突入する。
ザフィラが大きく跳躍し、全体重を乗せて槍を振り下ろす。
同時に、怜司も最後の連なりを入力し、終端の動作へと手を返す。
――その瞬間だった。
ガンッ! という鈍い衝撃が怜司の両腕を襲った。
構築されていた青白い世界魔力の流れがプツンと途切れ、不快な逆流となって怜司の筋肉を内側から弾く。
怜司は顔をしかめ、腕を押さえて数歩後退した。
「……ッ! もう一度だ!」
息を乱したザフィラが、悔しげに叫んだ。
「私が遅かった! 最後の一拍、踏み込みが甘くてお前の魔力に負けた! 次は絶対に合わせる!」
彼女は自分がミスをしたと思い込んでいるようだった。自分の演奏が未熟だから、怜司の完璧な入力に弾き出されてしまったのだと。
だが、怜司は首を振った。
「いや、君のせいじゃない。君の演奏は、今の速度でも全くブレていなかった」
「じゃあなぜ最後で弾けた! 私を慰める気か!」
「慰めじゃない。君の演奏も、俺の入力も完璧だった。……『曲自体』が壊れてるんだ」
「曲が、壊れている?」
ザフィラが怪訝な顔をした時、怜司の脳内に、あの尊大でひどく年老いた声が響いた。
『くくく。無様な曲よな。それでは流転の輪は回らず、終わるべき場所へも帰れぬであろうが』
(……やっぱり、あんたの仕業か)
エルネリア。王都の危機を引き起こした第一封印曲の主。
彼女の嘲笑混じりの言葉は、怜司にとって十分なヒントだった。終わるべき場所へ帰れない。つまり、この曲には『本来あるべき終止部』が存在していないのだ。
長い年月の中で戦奏民の口伝から抜け落ちたのか、あるいは人為的に切り取られたのかは分からない。
だが、曲の構造が分かれば、ロジックで補完することはできる。
「ザフィラ、もう一度最初から頼む」
「だから、何度やっても……!」
「いいから。最後の一拍、俺が『別の入力』を入れる。君は何も気にせず、さっきと同じように全力で弾ききってくれ」
怜司の真剣な目に、ザフィラは何かを言い返そうとして口をつぐみ、無言で再び槍を構えた。
二度目の演奏が始まる。
先ほどと同じ、激しくも精密な変拍子の連なり。怜司はそれに完璧に追従していく。
そして、曲が欠落した終端へと差し掛かった瞬間。
怜司は、エルネリアの言葉と曲の構造から本来の休符を読み取り、欠落していた三つの手印を復元して叩き込んだ。
それは、途切れていた魔力の流れを、本来の終止部へと繋ぎ直す復元だった。
バチィィィンッ!
今度は弾けなかった。
欠けていたパズルがカチリとはまるような明確な感覚。ザフィラの槍から放たれた音が、怜司の手印を通じて膨大な世界魔力と完全に同期する。
周囲の空気が渦を巻き、青白い光が柱となって夜の森を照らし出した。
その光は、王都全域を対象として地下で脈打っている第一封印曲《還天掌》の巨大な魔力ネットワークへと、一筋の線となって接続された。
「なっ……なんだ、これは……!」
ザフィラが目を丸くして後ずさる。
光の渦の中心に、ひとつの小さな影が浮かび上がっていた。
やがて光が収束すると、そこには一人の『幼女』が立っていた。
年齢は十歳くらいだろうか。色素の薄い銀色の髪を長く伸ばし、夜の闇に溶けるような黒いドレスを身に纏っている。
愛らしい容姿だが、その眼差しはひどく傲慢で、周囲のすべてを見下しているような王者の風格があった。
「くはははっ! まさか、失伝した欠落部をその場で復元するとはな! ますます気に入ったぞ、わらわの奏者よ!」
口を開いたその声は、怜司の脳内に響いていたあの『老女』のものと全く同じだった。
「……あんたが、エルネリアか」
怜司は警戒することなく、現れた幼女をじっと観察した。
彼女の白い肌、首元から腕にかけて、複雑な幾何学模様のような魔力の線が浮かび上がっている。
その線の形を見て、怜司は目を細めた。
「なるほどな。悪辣なシステムだ」
「ほう? 何がじゃ?」
エルネリアが不敵に笑う。
「あんたの肌に浮かんでるその模様、俺がたった今補完した『最後の手印』の軌道と全く同じ形をしてる。……曲の欠けた部分を修復するたびに、あんたの封印が解けて、身体が戻っていく仕組みってわけか」
怜司の指摘に、ザフィラがハッと息を呑んだ。
「じゃあ、この幼女は……王都の魔力を奪おうとしている魔王、だと言うのか!?」
「御名答じゃ」
エルネリアは隠す様子もなく、ふんぞり返って頷いた。
「わらわを完全に縛り付けていた封印は、遺跡での第一曲の起動で解けた。だが、かつての力を取り戻すには、世界に散らばったわらわの『譜面の欠片』を修復して回る必要がある」
エルネリアは怜司を指差し、残酷なジレンマを突きつけるように笑った。
「王都を救うには、第一曲を止めるための『鍵』となる別の譜面を集めるしかないぞ。だが、それを完全入力して集めれば集めるほど、わらわの身体はこのように育ち、やがて完全なる女王として復活する」
王都を救うための行動が、魔王を復活させる手伝いになる。
ザフィラは槍を握る手に力を込め、ギリッと歯を食いしばった。どちらを選んでも破滅が待っている、最悪の二択だ。
だが。
「……へえ」
怜司の口から漏れたのは、絶望でも嘆きでもなく、微かな感嘆の息だった。
(魔王の復活と、王都を救うための進行が連動している。とんでもない二者択一だ)
「よくできた仕掛けだ。性格は最悪だけどな」
怜司は自分の手首を軽く回し、指の関節を鳴らした。
「上等だ。欠けた譜面を全部繋いで、王都もあんたも止めてやる」
一切の恐れを抱かず、むしろ困難な難易度を前にして闘志を燃やす異邦人の姿に、幼き姿の魔王は嬉しそうに目を細めた。




