第33話 魔王との二人用譜面
大聖堂の最上部、王都を見下ろす巨大な鐘楼を備えた尖塔。
怜司たちがその吹きさらしの頂へと辿り着いた時、そこには恐るべき光景が広がっていた。
王都の地下から吸い上げられた膨大な『世界魔力』が、肉眼で見えるほどの濃密な青白い嵐となって尖塔の周囲で逆巻いている。そして、その巨大な魔力嵐の完全な中心(台風の目)に、成人した女王姿のエルネリアが静かに佇んでいた。
「エルネリア!」
ザフィラが戦弦槍を構えて踏み込もうとした、その瞬間。
ドォォォォンッ!
エルネリアの周囲を旋回していた魔力の防壁が弾け、ザフィラ、ノエラ、セナの三人がまとめて後方へと吹き飛ばされた。
「きゃあっ!」
「マスター! 魔力密度の異常上昇により、接近不能です!」
激しい風圧に大盾を構えて耐えるセナが叫ぶ。高密度に圧縮された魔力は、それ自体が物理的な壁となって三人の立ち入りを拒絶していた。
ただ一人、その防壁の影響を受けなかった者がいる。
体内魔力を一切持たず、魔力の奔流と反発しない怜司だけが、無傷でエルネリアの立つ静寂の中心へと足を踏み入れていた。
『……有象無象の伴奏どもは、そこで這いつくばって見ておれ』
深紅のドレスを風に揺らしながら、エルネリアが冷ややかに見下ろす。そして、怜司へと向き直り、艶やかな笑みを浮かべた。
『さて。わらわの愛しき奏者よ。……今の王都の惨状を見て、どう思った?』
「最悪だな。水路も灯りも止まって、街中が混乱してる。このままじゃ死人が出るぞ」
『そうじゃな。だが、大聖炉の流れを第一封印曲《還天掌》の最終楽章へ導かねば、魔力の逆流は止まらん。そして、その手印を組めるのは、世界で貴様ただ一人じゃ』
エルネリアの言葉は事実だった。第一曲の最終楽章は、原唱者の歌と、別の生身の奏者が組む手印を重ねるよう設計されている。歌えるエルネリアにも、独力では完成させられない。魔力を持たず、世界魔力と反発せずに手印を繋げられる怜司が必要だった。
『王都の崩壊を止めたくば、わらわと共に第一曲の完全入力を行え。……一時休戦じゃ。悪くない取引であろう?』
彼女にとっても、怜司にとっても、これ以上の王都の崩壊を防ぐという一点においてのみ、利害が完全に一致していた。
「……わかった。やってやる」
怜司は短く答え、鐘楼の中央に立ち、両手を胸の前に構えた。
直後、エルネリアが背後からふわりと近づき、その豊満な大人の身体を、怜司の背中にぴったりと密着させた。
「っ……おい」
背中から伝わる柔らかい感触と、首筋にかかる甘い吐息。露骨な色仕掛けだということくらい、怜司にも分かった。
しかし、怜司が感じたのは、性的な興奮ではなかった。
エルネリアの白く長い両腕が、怜司の腕のラインに沿うようにスッと伸びる。彼女の指先が、怜司の手首の角度、肩の力み、肘の可動域にほんのわずかに触れ、微調整を加える。
(……なんだ、これは)
怜司は戦慄した。
それは、彼の肉体の癖と骨格を把握し、最も手印を組みやすく、指を速く動かせる姿勢へ導く動きだった。
まるで、自分の身体が最も演奏しやすい形へ作り替えられたような、恐ろしいほどの万能感。
『さあ、往くぞ。わらわの指先に遅れるな』
エルネリアが、怜司の耳元で低く美しいアルトの歌声を響かせた。
それが、魔王との二人用譜面の始まりだった。
――♪……。
エルネリアの歌声が空間に『意味』と『拍』を提示し、怜司の指がそれに従って魔法の言語(手印)を組み上げていく。
その合奏が始まった瞬間、怜司の脳髄を、かつて味わったことのない強烈な『快感』が駆け抜けた。
(……入力遅延が、一切ない……!)
これまでの仲間との合奏――ザフィラやノエラたちとの連携には、どれだけ絆を深めても、人間である以上必ずコンマ数秒のズレが存在した。相手の動きを見て、聞いて、それに合わせて自分の入力を「待つ」あるいは「補正する」という無意識の作業が、常に怜司の脳に負荷をかけていた。
しかし、今のエルネリアとの合奏には、それが全くない。
怜司が「次は右手を反転させたい」と脳で思考したその瞬間、コンマ一秒のズレもなく、エルネリアの歌声がその空間に完璧なタイミングの『判定ライン(拍)』を用意しているのだ。
逆に、エルネリアが歌のピッチを変えれば、怜司の指は吸い込まれるように、極めて自然にその変化に対応した手印の形を作り出してしまう。
視線を交わす必要もない。説明もいらない。互いの呼吸、視線、左右の手の動き、そして世界魔力の流れ。その全てが、まるで初めから一つの生命体であったかのように、寸分違わず完全に一致している。
パーフェクト・シンクロ。
複雑怪奇で、いくつもの矛盾を孕んでいたはずの第一曲の最終手印が、恐ろしいまでの滑らかさと速度で組み上げられていく。
怜司の手のひらから放たれる青白い光の軌跡が、乱れ狂っていた魔力の嵐をスルスルと解きほぐし、王都の魔力流動を安定化させていく。
『ふふっ……素晴らしい。素晴らしいぞ、怜司!』
エルネリアが、歌の合間に恍惚とした吐息を漏らす。
『どうじゃ。これこそが、一切の妥協も補正もない、わらわと貴様だけが奏でられる真の音楽じゃ!』
その言葉は、ゲーマーである怜司の魂を根源から揺さぶった。
彼女は自分を理解している。自分の持つ、この世界では誰にも理解されなかった『異常な指先の技術』を、百パーセント、いや百二十パーセント引き出してくれる。
魔王エルネリアこそが、世界で唯一の、自分にとって最高の相方なのだと、その完璧な合奏自体が雄弁に語りかけてくる。
(……すげえ。なんだこれ、気持ち良すぎる……っ)
圧倒的なスコアが叩き出されていく快感。
すべてのノーツがパーフェクト判定で吸い込まれていく、無限の爽快感。
そのスピードと陶酔の渦の中で、ふと、怜司の脳裏にこれまでの旅の記憶がよぎった。
勝敗に拘り、自分勝手にテンポを跳ね上げていたザフィラの荒削りなステップ。
自信がなくて、いつも語尾が小さく震えていたノエラの歌声。
命令の範囲を超えて被弾し、基準拍のタイミングを意図的にズラしてくるセナの不器用な盾。
(……遅い)
怜司は、無意識のうちにそう感じていた。
(あいつらの音は、遅いし、粗いし、ノイズが多すぎる……。エルネリアの完璧な歌に比べたら、まるで素人の……)
そこまで思考が及んだ瞬間、怜司の心臓がドクンと冷たく跳ねた。
ハッとして視線を上げると、結界の向こう側で、ザフィラが顔を真っ赤にして何度も魔力の壁に槍を叩きつけている姿が見えた。ノエラが必死に叫び、セナがブースターを吹かして壁を押し破ろうとしている。
声は聞こえない。だが、彼女たちがどれほど自分を心配し、必死になってくれているかは痛いほど伝わってきた。
(……俺は今、何を考えてた……?)
完璧なプレイの快感に酔いしれ、一緒に命を懸けて戦ってきた仲間たちを、ただの『劣った機能』として見下し、切り捨てようとした。
それは、怜司自身が最も嫌悪する「スコアのためだけに他者を見下すプレイヤー」の姿そのものだった。
『どうした、奏者よ。指が止まっておるぞ』
エルネリアが、不審そうに耳元で囁く。
王都の崩壊を止めるための手印は、すでに最終局面へと差し掛かろうとしていた。
このままエルネリアの甘美で完璧な導きに従い、完全な原曲の結末へと向かうのか。
それとも、あの不格好で愛おしい仲間たちの待つ、不揃いな合奏へと帰るのか。
怜司の指先が、空中で微かに、だが確かに迷いを見せて震えていた。




